「僕はもうあの蠍のように
ほんとうにみんなの幸のためならば
僕のからだなんか
百ぺん灼いてもかまわない。」
とは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節である。
今日、仕事を終えての一服中に、なぜかふと頭に浮かんできた。
この作品を読んだのは中学一年生の夏休み。
その時、この蠍の下りについては一切興味関心を示さなかった。
今読み返してみても、自己犠牲度数高すぎだと思う。
自分が一生かかっても得られない感情だとも思う。
でも、なんだか私から離れてくれない一節。
今年に入り、「もう他人に振り回されるのは疲れた。今年は自分のことだけを考えて生きよう」と密かに決意し、実行をしていた。
ほんの小さなこと…例えば、見てみぬ振りをする…とか。
塵も積もり、弥生に入り初めの今、そのことをうっすら後悔している。
後悔というか、「ああ、醜い」という自己嫌悪といった方が正しいかもしれない。
友達の日記に「見ている人は見ていてくれているのですね。私も頑張るよ」というコメントを残したのは先日だ。
誰かが見ていてくれるから、という客観的視線を意識しながら仕事に取り組んでなんかいないわ…とは言い切れない私。
評価と報酬という資本主義社会に参加している以上、致し方ない。
社長の目。
上司の目。
後輩たちの目。
一番鋭いのは、自分が自分を見つめる視線なのではないだろうか。
自分を見つめることは、人生の消しゴムのようだ。
自分を見つめた結果、「こんなの、私じゃない」という居心地の悪さを感じて悲観的になることも、明日から自分を修正することも可能だから。
嫌だったら、元の自分に戻ればいいじゃん。
元の自分に戻るだけではなく、自己犠牲を他人と自分の両方の幸せに繋げるためには一体どうしたらいいんだろう…?
さて、私はバルドラの野原の井戸に転落したあの蠍に近付くことができるのだろうか。