世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

「諦念とタンゴの調べ」

2016年09月21日 | Weblog
昨晩の頭痛は酷かった。
まるで「NIGHT HEAD」の武田真治の「兄さん、頭が痛いよ~!」状態であった。


ちなみに若い後輩たちにはこの武田真治の物まねをやっても理解してもらえないので注意。
後輩男子ほっしー(26歳)なんて、黒電話はもとよりポケベルも知らないからね。本当、びっくり。

一晩寝て、頭痛は引いたのだが微熱は残った。
風邪ではないのだが、体調がイマイチである。
その割に仕事が進んだ。
火事場の馬鹿力というか、なんというか。
ついでに食欲もあった。
今日はオムライス。


今週の会社の花は百合。
清楚で可憐な様子にうっとり。





帰宅して嶽本野ばら先生の「落花生」を再び読む。一度読了したのだが、真っ赤な装丁に手が伸びてしまう。
「ニーチェの恋愛論」とう章で、野ばら先生の高校時代のことが書かれている。
戸川純さんが好きという共通項で仲良くなったMちゃんという女の子がいた。
一緒に京都の衹園会館という名画座に行き、コクトーの「美女と野獣」を観た、と書いてあった。
Mちゃんには告白できずに、いまだに卒業式の夢を見るのだそうだ。




名画座、卒業式、「美女と野獣」・・・既視感を覚え、野ばら先生の「カフェー小品集」を捲ってみたら、・・・あった。
「諦念とタンゴの調べ」(クンパルシータ)


クンパルシータは京都の木屋町にあった純喫茶。
もう閉店しているらしい。


高校の卒業式をボイコットして行った名画座で「僕」はいつも見かける制服姿の「君」に声を掛ける。
掛かっていたのは「美女と野獣」。
その後、映画館で会っては喋るようになり、やがて僕は君に「クンパルシータ」に誘われた。

そこで

「悲観も楽観もしていない。只、私はこれから先もこのままの私であり続けるだろうし、ちっとも変わりはしないだろうということが解っているだけ。そのことに就いて絶望している訳ではないわ。でも希望も持ってはいない。このお店の中に貴方は希望と絶望のどちらの気配を感じる?」
「どちらも感じられないね。そういう感情とは無縁にこのお店は存在しているような気がする。あえて何かの気配を感じるとしたら、諦念の気配かな」
「そう、この場所は諦念に支配されているの。貴方ならそれが解ってくれると思ったわ」

という会話をする。

嗚呼、久しぶりに読み返してみたら泣いてしまった。
「落花生」を読んだからだろうか。
「君」が「Mちゃん」に思えてならない。
そう思うと涙はとめどなく溢れてくる。




今日、母と電話で「何しているときが幸せか」という内容の会話をした。
母は最近ワンピース作りをしていてそれが楽しいらしい。
私はやはり本を読んでいるときが幸せかもしれない。

特に「カフェー小品集」は棺に入れてもらいたいと思えるほど大好きな作品だ。
野ばら先生のサイン入りだし。

この本を片手に作中に出てくる多くの喫茶店を巡った。
小樽の「光」、京都の「フランソワ」など。
コーヒー一杯を飲み終えるまで、私は作中の「君」になっていた。

しかし、多くの喫茶店が閉店になってしまった。
でもその時々で感じた空間は私の細胞の一つ一つに息づいているはずだ。
そう信じたい。


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