ガンジーの「非暴力運動」

2011年05月04日 | 社会 -
世界には、まだまだ血なまぐさく、想像したくないような出来事が、
絶え間なく続いているようだ。

人々は、現実を生きているがために、「国益」や「個人の理想」のため、
やらなければいけないことがあるのだろう。
また、同様に、その描いた世界と、実現可能な世界が、微妙にずれたり、
他の人々からの共感を得られない時、大切な命さえもが犠牲になる。

人間は、何故、相手を傷つけてしまうのだろう。
暴力という手段で、相手を封じ込めてしまうことを選んでしまうのだろう。
命を奪ったり、殺し合ったりすることが、果たして「どのくらいの利益を
産むのだろう」と、素朴な疑問に陥ることがある。
そして、その疑問の答えがみつからない私・・・。

きっと“計り知れない長き歴史や思想があるのだろう”けれど・・・
それを変えることはできないのかと、切ない想いにかられる。
違った方法論を用いて、課題を解決することはできないのだろうか。

思い起こせば、いつの時代もそうだったが・・・
世界中で殺戮は繰り返され、報復という形で、無情な出来事が起こり続ける。



  


ガンジーの「非暴力運動」で自由を勝ちえて、独立したインド。

ガンジーの理想と、その魂は、亡くなった後も、世界各地の平和運動や
人権運動などに大きな影響を与え続けた。
しかし、ガンジーの力によって独立を勝ち取った故国インドにとって、
「偉大なる魂」の影響力は(残念ながら)どれぐらいの大きさだったのか。

インドは、独立後すぐに軍隊を持ち、カシミールの領有問題をめぐって、
パキスタンとの戦闘を行った。
チベットの独立問題では中国と対立してしまい、戦争を行った。
さらには、対パキスタン向けとして、開発された核兵器の保有によって、
世界中を危機に巻き込んでしまったりもした。
これらのインドの行動は、「非暴力」でも何でもない。
平和主義とは、まるでほど遠い国になってしまった・・・と私は思う。

さらに、経済的には急速な発展があり、IT業界でも躍進をしたが・・・
裕福なエリート層が「富を独占する」という構図は変わらなかったため、
現在は“世界で最も貧富の差がある国”の一つになってしまっている。
なんとも皮肉なことに、ガンジーが目指していた“インドの伝統に基づいた
質素で自然な社会”とは、正反対の方向へと向かいつつあるのだ。
糸巻き機を見ると、ガンジーを思い出すぐらい象徴的なものだが・・・
現実は、そうではない。
インドでは、まだまだガンジーは、尊敬されている偉人の一人だと思う。
しかし、その魂を、そのまま実現しようとする意識はないのかもしれない。

理由は、変わりゆく価値観と、「時代」だろうか。
人々が、個人の利益を追求したためだろうか。
あるいは、すでに、ガンジーの哲学や理想は、色あせてしまったのか。


   

哀しいかな・・・ 繰り返される人類の「殺戮」と「武力行使」の歴史!

似たような現象が、世界中に起こって、便利な生活と、自国のプライドのため、
時として「暴力」が刃となっているようだ。

人は“自分を中心とした目線で、常に判断するのが普通なのだろう”けれども、
世界中の人々や、地球全部に想像力を移してみても、同じ判断となるのだろうか。

求心力のある人が果たさざるべきものを想像してみると、国の利益や、
自国のプライドも大切だと思うが・・・・
もう一歩、もう二歩、三歩と、歩みを進めて、対応してほしいと感じる私は、
おそらく「マイナーな人間の枠に入ってしまうのだろう」と思う。
しかし、武力だけにたより、一方的な暴力によって(たとえどんな人であろうと)
貴重な「命」を奪い合うような現状は、心が痛くなる。
私にとっては、心地の良い感情を維持することが厳しい「現実」だ。



絶え間なく、繰り返される世界情勢の変化は確認しておかなければならないし、
否が応でも耳に入ってくる。
見たくもない惨状を見せられるのが、現代の情報化社会だ。


しかし、本当にしみじみと感じる。
悩ましい問題が続く「我が星」よ。
どうか、「人々の平和と安全と、幸せを与えたまえ!」・・・と。
せめて、この連休だけでも、精神的な休息を与えてほしいものだ。