知的所有権のことについて、いろいろと議論が交わされた時期が
あったけれども、それについての細かい法令は完璧ではない。
科学的発明など以外は、さらにグレーゾーンに入ってくる。
また、(笑い話のように) いつも感じることだけれど・・・
自分が、提案というか、アドバイスというか、そういう意味合いで、
説明を交えて(とても前向きな)話をした後に、
数週間後か、数ヵ月後に会って、話してみると・・・
その相手が自分の言葉として、かつて私が話したアイデアを強調して
話すことがある。
さも「自分の中から発せられたアイデアである」というスタンスで
主張している相手を目の前にしては、それ以上言いたくなくなる(笑)。
たとえば概念とか、具体的なエピソードとかの抱き合わせだが、
おそらく他人に話している内に、自分のアイデアになってしまい、
発信源の私にさえも、そのような話し方をしてしまっているのだろう。
そういうことを感じる人は、いつも一緒の人なので・・・・
私は「まただぁ」と感じるだけだが、一般的には “線引きが難しい”
ことだということは 分かっている。
職性の関係から、「依存」というよりも、「パラサイド的立場」で
常に 何に対しても対峙している人なので、私自身は納得している。
だから、その人は・・・状況に変じて、ころころと意見を簡単に変えるし、
辛辣なことを言えば、多くのことを我慢して、多くのことを手にしている。
自分も、何年かの交流の経緯(現実)を経て、それなりの感情的な対応を
していくことができるようになったし・・・
やはり、「気分をお互いに害してまで指摘するほどのことでもない」 と
思っていたのは事実である。
ただ、一般的には・・・
私のように、立場が確立していない者にとっては、大きな権力や
後ろ盾をカサにきて「アイデアを奪い取る」ような行為を見た時には、
かなりの抵抗感があって、強いストレス状態に陥るものである。
何故なら、世の中のルールを、きっちりと確認してきたからだ。
正義というまでの正当性は感じていないが、私独自の線引きがあり、
そのラインは くっきりとしている。
しかし、上記のような“個人” の範疇に入ってしまうと・・・
また、その人が自分のやっていることを認識していない現状に対しては、
はからずとも「切ない感情」が先に立つ・・・。
自分のアイデアに対する“惜別の念”なのかもしれない。
世の中には、よくあることだ。
私が経験した「深い傷」もまた、同じような質感のものがある。
社員という立場の人が、会社の中で押しつけてくる横暴な行為の一つに、
上記のようなことに“似たこと”があった。
それは、完全なる企画書の提案者名のすり替えだったので・・・
知人は「それは、犯罪だよ」と、私を慰めるような発言をしてくれたが、
同じような立場であるがための “怒り” だったのだと思う。
また、提案を吸いあげる立場の人にとっても、許せない行為のようで、
「あまりにもひどすぎる。君は主張するべきだ」と意見してくれたが、
彼にとっては、発覚した時のことを想像したら責任が問われる立場のため
切実感があったのだと思う・・・。
もちろん、実際、私は、強く反発心をあらわにして、意見をぶつけたが、
会社側は「それはそうだな」という曖昧な態度で同調しつつも、
立場の回復と精神的ケア、経済的補償に関しては、何もしてくれなかった。
数千万円のバジェットなのに、企画提案書のアイデアは奪われたのだ。
提案が通った途端に、突然に、奪われたのだ・・・。
会社の態度は、政治家と一緒で、「今後は、こういうことがないように」 だ。
しかし、正社員の営利目的と報酬の追及(仕事次第で決定)は止まらず、
“露呈さえしなければ” ・・・ というケースは 跡を絶たない。
会社の社員教育という意味では、事後のケアをしっかりとしない限り、
所属メンバーにシリアス感がないので、同じことが繰り返されるのだ。
それらは、彼らの発言の端々に、あらわれているものである。
労働条件の詳細な確認は、本当に大切なことである。
仕事をするうえでの「義務」と「権利」――、これらの基本的なことは、
会社との契約条項によっては大きく違う。
自分のキズを深くしないためにも、最初の条件をしっかりと確認して、
契約を締結していないと、後で後悔することになる。
あの事件以来の私は、紙に仕上げるのは、“フェイスtoフェイス” で
話した後に、感触を得てから 企画書に仕上げる方法論に変えた。
しかし・・・
世の中には、上記のような現実は、まだまだ よくあることだ。
理由や要因は、状況によって違うし、個々の観点も違うので、
一言で表現はできないが・・・
現実的には、まだよくあることなのだと思う。
私は、煮え湯を飲まされた時から、“そのこと”を頭の隅に置きながら、
話をすすめるようになったが・・・
その反面、自分の中から失ったものがある。
「情熱」や「熱意」というもの―。
そして、「純粋な気持ち」と、「純粋な姿勢」というもの―。
年を経て、キャリアを積むことは、交渉術もたけてくるかわりに、
確実に “失っていくものがある” と 感じている。
仕事のやり方としては、どちらにも良さはあるけれど、
今の私が優先すべきは「快適な生き方はどちらなのか」ということだ。
仕事のやり方や姿勢もまた、誰にも “自分のスタイル” が あって、
それは 無理のない 融通のきいたモノのような気がする。