Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

感染者増のため、新たに決まる「中止」と「リモート化」の勢いが止まらない

2020-07-25 | Weblog
コロナ感染者増のため、新たに決まる「中止」と「リモート化」の勢いが、止まらない。

緊急事態宣言が解除された後、またこの勢いになるとは、思ってはいなかった。
いや、思いたくはなかった。
諸外国に比べて、日本は増加しない、という思い込みに縋ろうとしていた。

現実は、どんどん変わっていく。

来日ゲストのある予定だった晩秋の企画が、今日の打ち合わせで、Zoom開催の方向に大きく傾く。
海外ゲストの方と話してみるが、かの国も、たいへんそうだ。

夏の、秋の、来年のいろいろな公演の中止と延期の報が、続々と届く。

そして大学後期授業のリモート化が、正式決定らしい。私の授業は今年は後期だけだから、これからパソコンを使った講座のやり方の勉強をすることになる。やれやれ。

私の戯曲講座の研修科メンバー・宇吹萌さんの作品が最終選出された、文化庁の〈創作オペラ〉のワークショップも、稽古過程の一般公開や、ファシリテータによる講義を、「ZOOMで配信」するという。オペラなんだがー。

私は「リモート演劇」という言葉は悪い冗談にしか思えないが、通信システムの発達による合理化に、すべて反対するわけではない。じっさい、ここ連日、一日二時間以上、Zoom会議は、している。しかたがないのだ。ただ、種々の事情で画像はオフにさせていただく場合が多い。四日前など、駅の待合室で、イヤホンでZoom会議に参加した。ほぼ発言できない。

文句ではない。
わかっている。わかっては、いるのだ。
だが、夏になれば、少しはマシになると思っていた。
残念ながらそうならない現実がある。

感染者の数字に惑わされるな、という言い方もわかる。
だが、医療の現場が逼迫しかねない状況が近づいていることは、否定できない。

これでは、繰り返しではないか。
緊急事態宣言は、出してほしくはないが。
コロナ状況が好転したことを受けて書く心づもりだった原稿を書く手が、止まってしまった。
目の前のことを言うことはできるが、至近でなく「過去から未来へ」の繋がりに触れる表現が、難しくなっている。
そして、いま、何にリアリティがあるのか、という、思索の問題にも、なっているのだ。
耐えるしかない。


写真は、一ヶ月前の、稽古場。
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『パブリック 図書館の奇跡』 コロナ禍下最初の映画鑑賞

2020-07-25 | Weblog
何ヶ月ぶりかで、映画館で映画を観た。

『パブリック 図書館の奇跡』。
コロナ禍下、客席は両側一つずつ空いている。
ネットで調べると都内の映画館が軒並み完売で、新宿の映画館だけに空席があった。理由はわかりますね?

なぜ『パブリック 図書館の奇跡』を観ることにしたかというと、
この間、演劇・映画館・ライブハウスの皆さんと、超ジャンルでコロナ禍被害への援助を求める〈We Need Culture〉の活動に関わらせていただいていたことも関係している。
これまでは、ミニシアターやライブハウス/クラブが、行政に支援を求めた際、文化庁からは門前払いを食ってしまう、という現実があった。文化庁からすると、映画館やライブハウスは、あくまで事業体であり、経産症管轄だとする「区分け」があった。

しかし、ミニシアターでは世界各国の様々な映画を観ることができる。商業主義のシネコンや一般向けのテレビでは観られないものばかりだ。監督やテーマによる特集上映も成果を上げている。地域に溶け込んで、コミュニティの場として機能している映画館も多い。
ライブハウスからは、世界的に活躍する才能が多数生み出されている。音楽を愛する者たちが集い交流する場である。たんなる演奏の発表のための場所ではなく、文化芸術を根本から支え、新たな才能を産み出し育成するために教育的な場所、社会的インフラとして必要とされてきた存在である。

つまり、ミニシアターやライブハウスのプログラム選定や運営方針を決める人達は、キュ レーション的な機能を持っている。
図書館に通う人達が、いずれ作家や研究者として、あるいはそこで学んだことをもとに自身の専門分野で活躍することを支える「図書館の司書」という存在があるとしたら、、ミニシアターやライブハウスにも、そうした方々がいるのだ。もちろん、演劇の小劇場を運営する方々も、同様だ。
そういう話題をよく出した。
ミニシアターやライブハウス、演劇の小劇場にも、キュレーター的な存在がいる。「図書館の司書」と同じだ。「パブリック」なのだ、と。

なので、図書館の司書が活躍するという『パブリック 図書館の奇跡』を、コロナ禍下最初の鑑賞に、選んだのだ。(と、思う)

監督・脚本・主演は、エミリオ・エステベス。私と同い歳である。
こういう映画を撮るようになったのだ。
内容的には、ある程度、好意的に見ていられるのだが、じっさいは、突っ込みどころ満載である。
プロットは、主人公の行動の転換点が、明確に描けていない。同じことの繰り返しが多すぎる。
ぎりぎりな感じだが、差別的な要素も、微妙にある。
ぱっとしない感じに造形してある主人公が魅力的なふたりの女子に慕われるのも、おいおい、と言いたくなる。
終盤の展開も容易に予想がつく。バッドエンドではないのだが、そこはかとなく、暗い。気持ち的には、内向している。悲惨ではないが、達成感もない。そういう主人公である。それは、悪くない、と思う。
アメリカの民主主義について描いた映画なのだとしたら、私がよく思い出す『スミス都へ行く』や『アラバマ物語』のような、「正しいことのカタルシス」は、ない。だが、考えてみれば、その二本の映画も、「一筋縄ではいかない現実」を、その時々の価値観の中で、きちんと描いては、いた。映画の作り手が、そうした複層の要素を意識していないはずはないのだ。

舞台になっているのは、シンシナティー。
私は、二度、行ったことがある。二十世紀だ。
一度は、演劇の上演もした。『神々の国の首都』、1998年である。
ラフカディオ・ハーンが記者として働いていた街だ。シンシナティー滞在中のハーンを描いた『皮革製造所殺人事件』という劇を作ったこともある。

このように映画を観て、思い出を辿り、感想を語れるだけで、幸せなことである。




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