黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

小平の鍾乳洞

2021-12-21 14:17:20 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりの岩神沼です。

獅子くんがいないのが寂しいね

アタチが、いるでしょ

沼には、黒いカモの親子が住んでるみたいです。

ママと一緒で、いいね

 

 

 

(11月2日)嵯峨宮から、小平の里に戻ります。

観光バスが来ていて、小学生の遠足のようです。

密にならずに、ほどよい遠足が出来るのでしょう。

バスは、まもなく去って行きました。

 

 

密にならずに、鍾乳洞のある小平の里を散策です。

「埋蔵祈願の案内」があります。

地域の行事として、定着して行くでしょう。

 

いつも明るい布袋様、こんにちは

今年は「ながめの菊祭り」、分散開催とか

ここにも、プロの作品です。

「町の木かしわ」ですって。

知りませんでした。

大間々町の木は柏だったのです。

 

 

南の山麓の鍾乳洞を目指します。

右手に、なにやら説明板があります。

石灰を焼いていた窯の跡ですか

鍾乳洞は、原石採取の発破で発見されたんですか

 

 

少し歩きましたけど、鍾乳洞に到着です。

入口の聖観音様に、合掌

 

入場料300円を払って、入ります。

 

入り口の説明板を確認です。

この鍾乳洞は明治7年2月8日、現在地で石灰岩を採取中に発見されたものです。当時1人当たり160文の入洞料で一般の人に参観させていたともいいます。その後、10年くらいで、入り口が何かの理由で埋まってしまいました。その理由は今でも判明されていません。後年なって、何回か地元の有志で再発掘を試みたのですが発見に至らないままになっていました。

しかし、昭和59年、地元からの陳情を受けて、町が古文書などをもとに発掘した結果、同年10月24日に入口を発見することが出来ました。

 

洞内の案内図です。

 

鍾乳洞の風景の一端です。

洞窟の中に、観音様があります

長寿観音です

合掌

 

再発見された、数十年前に来た事があります。

大分落ち着いた雰囲気になってます

また、そのうちにゆっくり探検に来ましょう

 

 

鍾乳洞の出口の先には、水性植物園があるようです。

でも、時節柄探検は、次回に回しましょう。

 

 

道の反対側の木立の中に、観音様です。

蓮の花を持ってるので、聖観音かな?

合掌

 

 

小平川にかかる小平橋を渡って、円空仏のある成満院(じょうまんいん)を尋ねます。

ここにあるのは、月光菩薩立像です。

 

(つづく)

 

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小平村鎮守・嵯峨宮

2021-12-20 20:15:55 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台の薬師の道を歩きます。

黄色いブロッコリーの花が、いくつもあります。

獅子くん、ブロッコリー大好きだったね

 

浅間山は、白い雲に覆われていて、その姿を見せません。

吹雪いているかな?

 

 

 

 

小平(おだいら、みどり市大間々町小平)の鎮守は、嵯峨神社(嵯峨宮)です。

県道334号線沿い、小平の鍾乳洞反対側にあります。

訪問は、11月2日です。

よそからの来訪者を意識しています。

「埋蔵祈願」て、何でしょう?

 

由緒があります。

嘉暦の際(1326年)武士七名あり、官軍に属せし者ならん。この地に隠れ嵯峨神社を建立し草蕪を開き本村を創立す。初小平(コダイラ)村と称し後小平(おだいら)村と改めたり。後村落衰廃す。天正十八年(1590年)故に復す。

 

嘉暦3年(1328)は、「嘉暦(かりゃく)の騒動」まっただ中です。

嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を廻る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛(ウィキペディア)です。

鎌倉幕府滅亡まで、あと5年です

嘉暦3年(1328)は、京都でも、大覚寺統と持明院統の間で、皇位継承の争いが起こっていました。

 

嘉暦の頃、この地にどんな人たちがどんな事情でやって来たのでしょう?

 

階段を登ると、途中にはローマ字で案内があります。

 

さらにもうひとガンバリが必要です

二の鳥居をくぐって、到着です

 

2礼2拍1礼です。

町誌の資料や、嵯峨宮便りが掲示されています。

「埋蔵祈願とは、願いをしたためた祈願書を地中に埋めて祈願するもの」ですか

「月日が経ち希望の目が地上に出るように」、すてきな表現ですね

旅と言うほどではないので、「嵯峨宮便り」をいただいて、代金を賽銭投入口に入れます

 

社殿の横には、アマビエさんもいます

 

社殿横には、「語らざる願い地に埋め 春ぞ待つ」の文字があります。

この後ろ辺りに埋めるのかな?

 

下を見ると、かなりの急階段です

でも、転ばずに降りられました。

手すりは有り難い

 

なんとか転ばずに行ってこれました

これも、ひめちゃんたちと毎日歩いてるおかげだね

 

 

似た話が、塩原の鎮守・塩原神社にもあります

『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)によると、

塩原の鎮守で、字高松に鎮座する。

この神社は、明治40年に村社および無格社七社を合祀して、新たに成立した神社である。そのため現在でも八幡様と呼ぶ人もいる。

『山田郡誌』には「創立嘉暦(かりゃく)3年高守忠国乱を避け嵯峨天皇崩御後30年頃、天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り本社を創立せり」とあり、八幡宮の由緒を知ることができる。

と、あります。

 

「高守忠国」については、いくら検索してもわかりません

「嵯峨天皇崩御後30年頃」とありますけど、嵯峨天皇は延暦5年(786)~承和9年(842)の人です。

300年くらい歴史がずれているかな

「天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り」って、嵯峨天皇の直筆の文書を持って来たのですか?

嵯峨天皇は漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人とされています。

 

高守忠国は、鎌倉ではなく、京都から来たと考える方が自然でしょうか?

でも、なぜ塩原にやって来たのでしょう?

 

 

同じ嘉暦の頃、少し奥の小平にも、やって来た人たちがいたのです

 

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続・崩れた鳥居の謎(小平・瑠璃殿と稲荷大明神)

2021-12-18 15:09:11 | 小平川紀行

寒い寒い朝でした。

「獅子くん、行ってくるよ

獅子丸のお部屋(サークル)に声を掛けて、ひめちゃんとタバサねーちゃんはお散歩に出ます。

堀之内を西に出て左折、天神田(字天神の田んぼ)を歩きます。

水たまりの水が凍ったのは、この冬初めてです

浅間山は見えず、赤城山は吹雪いてうっすらと雪化粧していました

 

 

 

 

小平(おだいら)・瑠璃殿(るりでん)隣の鳥居の奥が気になって、後日(11月30日)また訪問です。

鳥居をくぐります。

気を付けて慎重に進みます

小平では、猪や熊の他にも、鹿がでるという話もあります

 

さほど行かないうちに、階段です。

その先に社殿があります

額は、稲荷大明神です。

社殿の脇が壊れています

ちょっと失礼します。

本殿も壊れています

稲荷大明神パワー切れかな?

 

社殿を覆うように、何の木かな?

かつての御神木かな?

晩秋の元パワースポットです

2礼2拍1礼で、さようなら

さっきは気がつきませんでしたけど、カヤの木があります

 

 

瑠璃殿にも、もう一度寄っていきましょう

やはり屋根は茅葺きにトタンをかぶせています。

かなり古いものでしょう。

茅葺きの瑠璃殿、きっといい雰囲気ですね

合掌

 

 

目立つ石仏さんにもご挨拶です

 

曲線のきれいな如意輪観音です

延宝7年(1679)とあります。

来迎印の阿弥陀様?

こちらも曲線がきれいです

 

瑠璃殿があり、それなりの石造物もありますけど、ここは大間々町誌には資料がありません。

何か事情があったのかな?

 

でも、県道334号線から見える、小平川沿いのパワースポットです

 

 

 

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崩れた鳥居の謎(小平・瑠璃殿と稲荷大明神)

2021-12-17 15:25:06 | 小平川紀行

昨日の夕方、ひめちゃんはタバサねーちゃんと、南の方にお散歩です。

ひめちゃんが、突然、道ばたのアブラナに食い付きました

獅子丸でもないのに

知らないうちに、すっかり影響を受けたようです。

器用に手も使ってます。

獅子くん、アブラナが大好きだったね

 

最近出来た鳥居の前を通ります。

もともと石宮や灯籠はありましたけど、鳥居も出来て、御利益が増すことでしょう

 

 

昨日の夕方、やっと獅子丸を七海ママの傍らに埋葬しました

獅子丸は、ぬいぐるみを解体新書しない子でした

クマさんは養子に行くときに持って行ったもの、ボールは帰ってきてまもなく買ってもらったものです。

獅子くんと一緒にいてね

 

 

 

 

県道334号線を小平に入ってまもなく、左手の山側に赤い屋根の御堂が見えます。

前々から気になっていたのですけど、11月26日、思い切って寄ってみました。

駐車場は見当たらないので、路上駐車です。

 

御堂を目指して直進していくと、何だろう?

鳥居の上半分のようです

前にあるのは、礎石かな?

ちょっと鳥居をくぐる勇気が無かったので、左の目指す堂宇を参拝です。

 

 

むむ、これは見たことあるぞ

天神前の同じだ

訪れる人が車を回すことで死者の後生が弔われるという輪廻車孔を持つ、あの重制石幢です。

こちらはちゃんと回す車が付いてます

どうしてこちらは、指定文化財にならないんだろう

 

御堂には、瑠璃殿の額です。

薬師如来ともあります。

失礼します。

薬師様は、どちらでしょう

まあとにかく合掌

 

僧形の墓石もあります。

りっぱな墓石もあります。

お寺があったか、修験者がいたかな?

やっぱり、あの崩れ落ちた鳥居が気になります。

 

 

(つづく)

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湯ノ入山薬師の霊水と浅原百観音

2021-12-13 15:34:42 | 小平川紀行

ひめちゃんと獅子丸は、タバサねーちゃんの後を追って、いつもは通らない市道に入り込みました。

豚舎と豚舎に挟まれた狭い市道です。

私道と勘違いされるくらい、一般の人は通りません。

ひめちゃんたちも、めったに通りません。

実はここが葛塚城堀之内のメイン・内曲輪なのです

 

堀之内の北を歩いて、諏訪神社を通って帰ります。

神社裏から、真っ白な浅間山です。

 

みんな無事に、神社の階段を降りられました

 

そろそろ、ご褒美だね

みんな同じにもらえると信じているので、順番を良い子で待てます

 

 

 

 

県道334号線に「浅原百観音→」があります。

矢印に従って、迷うことなく到着です。

駐車場というものはなく、とりあえず付近に路上駐車です。

 

百観音の隣に、不思議な不可解な場所があります。

前回来た時はさほど気にならなかったのですけど、今回は大いに気になります。

何だろう?

見づらいですけど、正面の説明板をなんとか読んで見ます。

「霊験あらたかな湯ノ入山薬師の霊泉の由来」とあります。

約600年前に、皮膚病に効く鉱泉が発見されたのです。

明治初年に小平鍾乳洞が発見されて、この鉱泉と共に大いに賑わったのです。

近年、須永寛吉さんがこの鉱泉を世のため人のためにいかそうと、何人もの人の協力で、この観音霊場に引き入れたのです。

 

霊水の成分表もあります。

あいにく、ペットボトルの用意がありませんでした。

又今度、霊水をいただきに来ます

 

百観音のモデルのお札(ふだ)があります。

このようなお札を元に、観音様を彫ったのです

 

 

それでは、百観音にご挨拶です

手前にちょっと大きな観音様です。

子安観音とあります。

合掌

赤ちゃんを抱いてます。

子どもも足下にいます。

あれ、お顔はどうしたのでしょう

 

こんにちは、お久しぶりです

合掌

 

説明板を確認です。

天保の飢饉の時だったのですね。

星野新治郎が常陸国女方村の石工・外山直吉を自宅に住まわせて、お札を参考に観音像を彫らせたんですね。

 

では何名様か、アップで

平面のお札の画像から、よく立体的な像になりました

 

 

霊水の裏を見ると、水路かな?

この奥に湯ノ入山薬師の鉱泉があったのかな?

訪れる人のために、霊水を引いてきてくれた素晴らしい場所です

 

バス停もちゃんとあります。

みどり市は、住民の足を大切にしていますね

 

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