ひめちゃんちに、桜・衣通姫(そとおりひめ)が咲き出しました。
まだ、あまり大きくない木なので、花がまばらですけど。
小さくてコロンとしたかわいい花です
まるで黒柴ひめちゃんのようです
久しぶりにひめちゃんたちのおやつを買いに、大胡のカインズに行きました。
途中、粕川町田面(たなぼ)のあたりで、気になる森がありました。
先日訪問した、大間々の自音寺(じおんじ)は、『大間々町誌基礎資料・大間々の社寺』によれば、
「自音寺伝記」によれば、自音寺はもと勢多郡粕川村田面にあった寺院で、建長二年(1520)に創建された。その後、永禄十年(1567)に上杉・武田が度々合戦に及んだとき、上杉方の武将安田左馬之助が渋川義将に敗北し、厩橋城に戻る途中自音寺に宿陣した。そのことを知った渋川は自音寺に放火し~(中略)~粕川村の旧自音寺跡地には「自音寺跡」の標識が立っており、近くには自音寺沼がある。
「どこだろう?」ずっと気になっていました。
もしかしたら?
帰りにちょっと寄ってみました。
おや、りっぱな神社だ
ナビにも無かったのに、立派な神社です
手水社に竜がいる
新しいもののようですけど、親しみのもてる竜さんたちです
由緒の説明板がありました。
村主(すぐろ)神社の由来は古く、古老の伝えるところによると、延喜元年(901)に創建されたという。本殿は宝永五戌子年九月に再建されたが、前皆戸・西田面三十六戸により明治四十一年一月二十九日西田面字荒神東の菅原神社並びに同神社の末社二社を合祀し、明治四十五年に改築され、童子に現在の弊殿と拝殿が建築された。昭和四十年代、境内には六・七百年の星霜を経た老杉が多数繁茂し、現在の御神木の切株もその一本である。社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分かり、尊厳の程が偲ばれた。
「すぐろじんじゃ」と仮名がふってありました
拝殿に参拝です。
拝殿の左に御神木です。
「社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分か」った大杉の根です
天正八年(1580)武田勝頼の膳城攻めのころにまで、遡るほどであるとあります
社殿の裏に回ります。
特に目につくものはありません。
東の方に何か見えます。
石宮の末社がたくさんあります。
朱の残る一番左の末社が一番大きいです。
朱の鳥居が見えます、裏門かな?
社額は「村主大明神」です。
鳥居の外から南を見ると、もう一つ朱塗りの鳥居が見えます。
あちらは通行不能で、現在は使われていないようです。
さて、帰ろうかとしたら、その使われていない南の朱塗りの鳥居の先に説明板がありました
武田勝頼が天正八年の膳城攻めの時に、村主神社前の泉で一休みした。その時、持っていたの梅の鞭(むち)を逆さに地面に挿した。それが芽をふいた。
ここではなく、この前の方に泉があったんですね。
ちょっと見たところ、泉は見当たりません。
この梅が逆さ梅の子孫ということでしょうか?
どこかで似たような話も聞きました。
でも、さかさ梅は初めてです。
自音寺跡ではなかったけど、さかさ梅伝説の神社に参拝できました
膳城まで車だと5分から10分くらいかな?
もちろん、膳城の前を通って帰りました。
膳城も花ざかりでした
まだ、あまり大きくない木なので、花がまばらですけど。
小さくてコロンとしたかわいい花です
まるで黒柴ひめちゃんのようです
久しぶりにひめちゃんたちのおやつを買いに、大胡のカインズに行きました。
途中、粕川町田面(たなぼ)のあたりで、気になる森がありました。
先日訪問した、大間々の自音寺(じおんじ)は、『大間々町誌基礎資料・大間々の社寺』によれば、
「自音寺伝記」によれば、自音寺はもと勢多郡粕川村田面にあった寺院で、建長二年(1520)に創建された。その後、永禄十年(1567)に上杉・武田が度々合戦に及んだとき、上杉方の武将安田左馬之助が渋川義将に敗北し、厩橋城に戻る途中自音寺に宿陣した。そのことを知った渋川は自音寺に放火し~(中略)~粕川村の旧自音寺跡地には「自音寺跡」の標識が立っており、近くには自音寺沼がある。
「どこだろう?」ずっと気になっていました。
もしかしたら?
帰りにちょっと寄ってみました。
おや、りっぱな神社だ
ナビにも無かったのに、立派な神社です
手水社に竜がいる
新しいもののようですけど、親しみのもてる竜さんたちです
由緒の説明板がありました。
村主(すぐろ)神社の由来は古く、古老の伝えるところによると、延喜元年(901)に創建されたという。本殿は宝永五戌子年九月に再建されたが、前皆戸・西田面三十六戸により明治四十一年一月二十九日西田面字荒神東の菅原神社並びに同神社の末社二社を合祀し、明治四十五年に改築され、童子に現在の弊殿と拝殿が建築された。昭和四十年代、境内には六・七百年の星霜を経た老杉が多数繁茂し、現在の御神木の切株もその一本である。社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分かり、尊厳の程が偲ばれた。
「すぐろじんじゃ」と仮名がふってありました
拝殿に参拝です。
拝殿の左に御神木です。
「社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分か」った大杉の根です
天正八年(1580)武田勝頼の膳城攻めのころにまで、遡るほどであるとあります
社殿の裏に回ります。
特に目につくものはありません。
東の方に何か見えます。
石宮の末社がたくさんあります。
朱の残る一番左の末社が一番大きいです。
朱の鳥居が見えます、裏門かな?
社額は「村主大明神」です。
鳥居の外から南を見ると、もう一つ朱塗りの鳥居が見えます。
あちらは通行不能で、現在は使われていないようです。
さて、帰ろうかとしたら、その使われていない南の朱塗りの鳥居の先に説明板がありました
武田勝頼が天正八年の膳城攻めの時に、村主神社前の泉で一休みした。その時、持っていたの梅の鞭(むち)を逆さに地面に挿した。それが芽をふいた。
ここではなく、この前の方に泉があったんですね。
ちょっと見たところ、泉は見当たりません。
この梅が逆さ梅の子孫ということでしょうか?
どこかで似たような話も聞きました。
でも、さかさ梅は初めてです。
自音寺跡ではなかったけど、さかさ梅伝説の神社に参拝できました
膳城まで車だと5分から10分くらいかな?
もちろん、膳城の前を通って帰りました。
膳城も花ざかりでした