黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

細川内膳の物語・総集編(『桐生老談記』にみる細川内膳)

2019-04-09 20:18:00 | 桐生川紀行
今朝は寒い寒い朝でした。
ひめちゃんはいつものように、小次郎パパと堀之内を西に出て田んぼ中の道を下ります。
赤城山は、はっきりとは見えません。



雪が降ったようです。
浅間山も榛名山も見えませんでした。

おかあさんは昼頃めでたく自音寺沼にたどりつきました
(詳細は後日レポートします。)
自音寺沼から見た赤城山です。




吹雪いてはいなそうですけど、まだ雪があります。




現在、「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」はFC2にあります。
画像の容量が限界に近づいているので、文字中心の記事になってます。
今『桐生老談記』を読み始めています。
細川内膳は度々登場します。

「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」はyahooブログにあります。
yahooブログは12月でなくなります。
一部の記事はリメイクして、こちらでアップしたいと思います。
気の向くまま、時には必要に応じて、総集編という形で少しまとめてリメイクしようと思います。
もちろんひめちゃんたちの記事は、最新版です。
お付き合いよろしくお願いします


さて、細川内膳関連の記事は3編あります。

まず『桐生老談記』にみる細川内膳です。


昨秋のある日、細川内膳(ほそかわないぜん)の屋敷門が残っている泉龍院(せんりゅういん)から、菱ハイキングを始めました。



山道を歩き、文昌寺(ぶんしょうじ)で、細川内膳の墓を確認して一応終了しました。
ところで、細川内膳とはどんな人なのでしょう?
菱(ひし)を支配していたお殿様らしことはわかりますけど。
菱は、元々は下野国菱村(しもつけのくにひしむら)です。
検索しても、同名の他人ばかりです。
ふと、「『桐生老談記』にあるかな?」と探してみました。
江戸時代に書かれた軍記物なので、すべて事実とはいえませんけど、他に資料がありません。
テキストは『桐生老談記』平成六年三月三十一日桐生市立図書館編集発行です。

目次に「桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事」がありました。

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事

~前略 ~爰にまた野州足利郡下菱の郷主細川内膳と申すは、元来摂津国細川分流として、京都に籠もり居る細川丹後という者なり、其の頃野州小俣の郷主渋川の名跡に丹後をけい約して、應永十九年に野州小俣に下り、時に家中外腹の隠し子を取り立て、名跡丹後をそしり、違変して知行に入らず、細川力及ばず関東公方足利持氏公へ訴え、彼の少地を拝領して、其の秋より下菱に住す、其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳、五代繁栄と云えども内膳の時、都八条殿より小雀という名馬を拝領す、桐生より度々所望致されしに、細川おしんで渡し給はず俺を野心に思し召し、津布子常陸之介を大将として、天文十三甲辰 三月二日、細川を追い散らし名馬をうばいとり、新領家老有坂右京、一式修理というもの心変わり、依って内膳殿夫婦自害におよび、修理は行方なくしっぽんす、扨て内膳殿の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり、扨て右京は家の宝をうばいとり、上州竜舞村のしゅうとの里に退いて土民となり、扨て細川跡に津布子常陸之介差し置けり、誠に應永十九年より天文十三年迄五代の間、百三十三年にして滅びにけり~後略~


この記事によると、

細川内膳家は摂津国細川分流で、京都にいた細川丹後という者が初代である。
細川丹後は、野州小俣の渋川氏に跡継ぎとして迎えられる約束で応永19年(1412)に小俣に下った。
ところが、家中は外腹の隠し子を取り立て、細川丹後に従わなかった。
細川は関東公方足利持氏に訴え、少しの領地をもらい、その秋から下菱に住んだ。
其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳と5代にわたり繁栄した。


それで、細川氏の5代目というのですね


内膳の時、都の八条殿から小雀という名馬を拝領した。
その名馬小雀を桐生氏から何度も所望されたけれど、渡さなかった。
桐生氏は天文十三年(1544)三月二日、津布子常陸之介を大将として襲い名馬を奪い去った。
内膳夫妻は自害した。
内膳の妻は膳城主因幡守の妹であった。


名馬小雀が出てきますけど、連れて行かれるとき自ら舌をかみ切った話はありませんね。
前年天文12年(1543)にポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられています。








コメント
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