今朝は、ひめちゃん&パパ&おねーちゃんたちみんなで、獅子丸を迎えに行きました。
高齢のママは自宅待機です。
獅子くん、今日も元気いっぱいにお散歩しました
パパは獅子丸のことをどう思っているのか分かりません。
ただパパも老いました
マーキングの時、以前は足をひっくりかえらんばかりに垂直にあげていましたけど、もうそんなにはあがりません
静かに見守っています
高津戸には、高津戸城悲話の高津戸ロマンがありました。
ひめちゃんちのある山上にも、山上ロマンがあります
葛塚の堀之内から南西方向に約1㎞、山上城址公園と常広寺(じょうこうじ)があります。
以前はよく散歩に行きました。
常広寺の奥に、山上城本丸への近道があります。
そこに不思議なというか、不可解な石造物があります。
山上氏家臣団として100名以上のりっぱな名前が刻まれています。
正応4年(1291)年に、山上氏にはこんなにたくさんの家臣がいたのです
特にミドルネームが立派です。
山上氏の祖と言われるのは山上五郎高綱で、ミドルネームは五郎です。
聖観音像の脇に山上氏の系図が刻まれています。
ご主人の新田義貞は呼び捨てで、自分の側の人物に公という敬称を付けています。
ちょっと変です。
山上氏が4万石余りを領していたとありますが、石高制は太閤検地以降です。
それまでは貫高制でした。
時代を400年も先取りしています。
道及の実名が行光とは知りませんでした
最近では山上道及は実在の人物ではなく、実在したのは山上道牛だと言われています。
この方はなんとしても山上道及に繋がりたかったのでしょう
一直線でつながってます
すぐそばに、山上高綱の供養塔(?)があります。
「大光院殿山上高綱大禅定門」、こんな戒名があるのでしょうか
真ん中の4文字は、その人を象徴するようないい文字が入るのが普通です。
たとえば、獅子丸家の御先祖は、本橋院殿寶輪廣譽大居士(ほんきょういんでんほうりんこうよだいこじ)です。
「寶輪廣譽」とは、すばらしい実績と人柄をイメージさせます。
山上城の築城については12世紀後半に山上高綱が築いたという説がポピュラーです。
そうすると、山上さんは鎌倉に鎌倉城がないのに、山上に山上城に住んでいた事になります。
「謀反じゃ-」と、討伐されかねませんね
諸説有って一番新しい(遅い)説では室町時代後期大永年間(1521~1528)だそうです。
「山上(やまがみ)ろまん」がいっぱい詰まった石造物です
家臣団については『新里村史』に、前橋市才川町・大川吉蔵氏所有蔵書から昭和43年1月15日に粕川正雄氏が写したものが載ってます。
実は常広寺に、これと少し異なる家臣団の一覧があります。
ある檀家さんが預けて行ったそうです。
仮に常広寺文書とよんでおきます。
常広寺文書には家臣団の一覧のほかに、山上氏関係と思われる文書があります。
一昨年の夏、桐生市立図書館で専門家の先生方に鑑定してもらう機会を得ました。
結論は、天保3年(1833)にいろいろな文書を写したと言っている人物が創作したものでしょうということでした。
「この時代にこんな役職はありません。彼はステイタスの向上のために由緒ある家系に繋がろうと考えた。山上氏はすでにない存在なので繋がりやすかったということでしょう。おそらく苗字は当時新里近郊にあった苗字です。殆どの人は苗字を持っていた。使わなかっただけです。ミドルネームは当時そこらにいた人の名前でしょう。」
こんな文書もあります。
(写真の重さの都合で一部だけになってます。日付は天文2年8月です。)
「鏑木家が山上氏の正当な子孫である。善昌寺で主君の回向をする。」と近隣にお触れを出しています。
天文2年(1533)は、村々が主君の回向などしていられない戦国時代まっただ中です。
ハンコが押してあります、花押ではなく
江戸時代の文書です。
「ろまんですね。」
山上は人々に「山上ろまん」を抱かせる土地なのです
いまだに全国の山上さんが、父祖の地として訪ねてくるそうです。
高齢のママは自宅待機です。
獅子くん、今日も元気いっぱいにお散歩しました
パパは獅子丸のことをどう思っているのか分かりません。
ただパパも老いました
マーキングの時、以前は足をひっくりかえらんばかりに垂直にあげていましたけど、もうそんなにはあがりません
静かに見守っています
高津戸には、高津戸城悲話の高津戸ロマンがありました。
ひめちゃんちのある山上にも、山上ロマンがあります
葛塚の堀之内から南西方向に約1㎞、山上城址公園と常広寺(じょうこうじ)があります。
以前はよく散歩に行きました。
常広寺の奥に、山上城本丸への近道があります。
そこに不思議なというか、不可解な石造物があります。
山上氏家臣団として100名以上のりっぱな名前が刻まれています。
正応4年(1291)年に、山上氏にはこんなにたくさんの家臣がいたのです
特にミドルネームが立派です。
山上氏の祖と言われるのは山上五郎高綱で、ミドルネームは五郎です。
聖観音像の脇に山上氏の系図が刻まれています。
ご主人の新田義貞は呼び捨てで、自分の側の人物に公という敬称を付けています。
ちょっと変です。
山上氏が4万石余りを領していたとありますが、石高制は太閤検地以降です。
それまでは貫高制でした。
時代を400年も先取りしています。
道及の実名が行光とは知りませんでした
最近では山上道及は実在の人物ではなく、実在したのは山上道牛だと言われています。
この方はなんとしても山上道及に繋がりたかったのでしょう
一直線でつながってます
すぐそばに、山上高綱の供養塔(?)があります。
「大光院殿山上高綱大禅定門」、こんな戒名があるのでしょうか
真ん中の4文字は、その人を象徴するようないい文字が入るのが普通です。
たとえば、獅子丸家の御先祖は、本橋院殿寶輪廣譽大居士(ほんきょういんでんほうりんこうよだいこじ)です。
「寶輪廣譽」とは、すばらしい実績と人柄をイメージさせます。
山上城の築城については12世紀後半に山上高綱が築いたという説がポピュラーです。
そうすると、山上さんは鎌倉に鎌倉城がないのに、山上に山上城に住んでいた事になります。
「謀反じゃ-」と、討伐されかねませんね
諸説有って一番新しい(遅い)説では室町時代後期大永年間(1521~1528)だそうです。
「山上(やまがみ)ろまん」がいっぱい詰まった石造物です
家臣団については『新里村史』に、前橋市才川町・大川吉蔵氏所有蔵書から昭和43年1月15日に粕川正雄氏が写したものが載ってます。
実は常広寺に、これと少し異なる家臣団の一覧があります。
ある檀家さんが預けて行ったそうです。
仮に常広寺文書とよんでおきます。
常広寺文書には家臣団の一覧のほかに、山上氏関係と思われる文書があります。
一昨年の夏、桐生市立図書館で専門家の先生方に鑑定してもらう機会を得ました。
結論は、天保3年(1833)にいろいろな文書を写したと言っている人物が創作したものでしょうということでした。
「この時代にこんな役職はありません。彼はステイタスの向上のために由緒ある家系に繋がろうと考えた。山上氏はすでにない存在なので繋がりやすかったということでしょう。おそらく苗字は当時新里近郊にあった苗字です。殆どの人は苗字を持っていた。使わなかっただけです。ミドルネームは当時そこらにいた人の名前でしょう。」
こんな文書もあります。
(写真の重さの都合で一部だけになってます。日付は天文2年8月です。)
「鏑木家が山上氏の正当な子孫である。善昌寺で主君の回向をする。」と近隣にお触れを出しています。
天文2年(1533)は、村々が主君の回向などしていられない戦国時代まっただ中です。
ハンコが押してあります、花押ではなく
江戸時代の文書です。
「ろまんですね。」
山上は人々に「山上ろまん」を抱かせる土地なのです
いまだに全国の山上さんが、父祖の地として訪ねてくるそうです。