黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見兄弟の物語総集編・高津戸ろまん

2024-11-25 20:33:30 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、今朝は久しぶりに諏訪神社の向こうの高台を突き当たりまで行って、山上城跡公園を廻ってきました。

朝ご飯の後、二度目の朝散歩をして、お外のお部屋(サークル)に帰ります。

外のお部屋で、暖かい日差しに熟睡です

寒くなったけれど、日光浴はなるべくしようね

 

2019年4月の黒柴家族です。

獅子丸かと思いきや、ひめちゃんです

獅子丸はまだ実家に帰っていません。

ひめちゃんは、けっこうタバサねーちゃんと行動していたのです。

どこかと思ったら、ひめちゃんちの畑でした。

5年前、ふたりとも若かったね

 

 

 

里見兄弟の物語まとめです。

里見兄弟の物語総集編・高津戸ろまん

里見兄弟の墓といわれるものが、高津戸城址の少し下流にあります。


古い説明板です。



山田氏については、よくわからないようです
山田川も流れ、山田郡も長いこと存在したのですけど
高津戸城趾のある大間々町は、この間まで唯一の山田郡の自治体でした

「仁田山里見氏を頼ってきた、房総里見氏の里見上総介勝広」とあります。
仁田山里見氏なんていたっけ
里見パパは甲州の人でしたね

「里見兄弟は、天正5年(1578)5月、上杉謙信の援助で高津戸城を再興した。」
ええ、違います
彼らは、天正5年9月2日に、黒川郷にやって来たのです。
黒川衆の阿久沢さん松嶋さんが援助して、天正6年春、高津戸城が完成したのでした

『桐生老談記』では、9月17日に、新田桐生の由良連合軍が、高津戸城を攻めてます。
その夜、里見勢が用命砦を攻めています。

参考にした資料が違うのでしょうか?


『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)では、

このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。


はっきり言うと、里見兄弟の話は創作だという事になりそうです
いわば、「高津戸ろまん」なのです。
大間々歴史博物館でも、最近は里見兄弟のビデオは上映してません。

ろまんろまんを生んでいくようです。
里見兄弟の戒名が刻まれている供養塔です



理王院殿高誉勝政大居士、義光院殿勝安大居士?
変だぞ、名前がそのまま戒名に入ってる

ここ阿弥陀堂の縁日には、中の阿弥陀様をご開帳するようです。



いつかその時に参拝したいものです

(2024年4月7日、行ってきました

高津戸・阿弥陀堂祭典



阿弥陀堂のそばには、「高津戸の渡し」がありました。



高津戸村と大間々村は、渡し船によって結ばれていたのです。
今よりズーと多い水量だったことでしょう。
渡良瀬川を渡って攻めるのは難しそうです

高津戸城址は、人々に「高津戸ろまん」をかきたてる場所なのです
ひめちゃんちのある山上も、人々に「山上ろまん」をかきたてる場所なのです。

あれそういえば、『桐生老談記』に上野国山上の山上氏は、まだ一度も登場していません
このあと、膳氏は何度もでてきます
山上さん、登場するかな

 

初稿  2019.12.28   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.15

 

 

( 里見兄弟の物語総集編・終 )

 

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里見兄弟の物語総集編・その 2

2024-11-23 20:23:10 | 桐生老談記の世界

昨夜は、小次郎パパの夢を見ました

コジくん、会いに来てくれたんだね

ありがとう

小次郎パパが16歳と5ヶ月で逝ってから、もうじき2年です。

 

本日は、2020年12月、小次郎パパのアーカイブです

パパは14歳半、まだまだ元気でした。

 

 

 

里見兄弟の物語総集編続きです。
(里見入道は石原兄弟を連れて仁田山城を落ちます。)

「大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎」など、大貫を中心に、約20名が籠城です。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」と、待ち構えます。


桐生勢が辰の刻(午前8時前後)に打ち寄せます。


里見入道が攻められる理由は、「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意」です。
死もの狂いで戦っても勝ち目はなく、大貫一家が討たれて敗戦が決定してしまいます。

総大将の山越は勝利を喜んで、桐生親綱の御前に参上し合戦の様子を報告します。
親綱は「和睦の道もあったのに戦を戦死者が出たのは残念だ。大貫一族は大剛のものなので、生け捕った源左衛門は首をはね、一族みんな獄門に懸けよ。里見入道には自害を申しつけよ。」と指示します。


家臣たちは指示に従い、源左衛門は荒戸村鷺沼の岸で首をはね、親子兄弟の首は桐生峠にて獄門にかられました。
其の日の夕方(酉の刻)に、清水喜太郎を御使者、森下森下作弥御見使として、里見入道に自害が申し付けられました。
首は石原兄弟がもらい受けて供養ということにします。


入道は仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきであったのに、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事は世間でいわれても恥ずかしきことでありました。
石原兄弟は桐生家の直臣になり、養命の出城をまかされました。

その後、桐生氏は渡良瀬川の水争いがもとで、由良氏に責められ、柄杓山城を退去させらます。

越後に行った里見入道の子ども、里見随見勝正と兵四郎勝安は、桐生騒動の話を聞いて、たいそう無念でした。
この上は、まず故郷に帰って、父の仇を討とう思いました。
思っているだけでなく、浪人百人と、君臣三世の約束をして、時を待ちました。。


こうしているうちに、黒川衆の頭、松嶋・阿久沢氏から、早々に帰国するように連絡があります。
松嶋・阿久沢氏は兄弟と昵懇(じっこん)で、越後方も黒川衆に内通していたのです。
謙信公に暇乞いをして、馬具・金銀等をもらいます。。
譜代の家来と契約した家来をかれこれ引き連れて、天正5年(1577)9月2日に桐生黒川にやって来て、松嶋・阿久沢氏に対面しました。

里見兄弟は、松嶋・阿久沢両氏から、高津戸の先の古城を使うようにアドバイスされます。
ここは山田氏が居城していたけれど、観応2年(1351)に桐生国綱に亡ぼされています。。
それから長い年月がたったけれど、石垣も崩れず要害です。
黒川衆の協力で、天正5年9月から翌春まで普請して完成です。

兄弟は直ちに籠城し、武具や兵糧もしっかり準備ました。


また、桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父です。
また、飯篠長閑は、里見の元舅で今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守の妹です。
先年細川攻め時、津布子・山越の讒言に依って軍功が立てられなかったことを悔やんで、共に西上州小幡の尾張守に仕えました。
縁者の誼(よしみ)で今回の兄弟の帰国に力を添えるため、桐生家中小曽根安芸に内通しました。
安芸も同心、先年の朋友に回文をまわしました。

天正6年(1578)の春、前年から普請していた高津戸城が完成しました。
兄弟はおおいに喜びます。
越後の上杉謙信もよろこんで、西上州伊勢崎を高津戸の知行とします。
里見家の栄花は二度花開いたのでした。


けれども、兄弟は父の仇を討たなければ本望であろうか。
先ず、讒言をした津布子刑部に恨みを晴らそうとしました。
天正6年4月5日、下野国佐野に赴いて様子をうかがったけれど、思うような情報は得られなかった。
そのころ秋山(佐野市北部)に遠藤織部という者がいました。
彼は以前から昵懇(じっこん)の仲だったので、彼の家に寄り、津布子に仇討ちをすることを語ります。
遠藤は、「津布子は難病を患って人前に出られない。どうか許してやってくれ。」と、たって頼みます。
兄弟は、「それが本当ならば、そうしよう。」といって帰ります。

里見兄弟は、津布子刑部を討とうとしたけれど、遠藤のいさめによって諦めました。


そうこうするうちに、高津戸城に越後勢が応援にやって来ます。
兄弟は大喜びして、石原一家を打ち亡ぼし父の恨みを晴らすのだと言って、森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順など合計三十人の兵を連れて、天正六年(1578)五月二日に、用命の砦に夜討ち押し寄せました。
石原石見は、兄弟が近くに居住しているのを不審に思い、油断なく物見の番人に見晴らせていたのです。
だから、報告を受けて、夜討ちが来ないうちに逃げ去ったのでした。

里見兄弟は、石原石見の屋敷の門を蹴破って乱入したけれど、石原の家族は逃亡した後でした。
残って居た家来に尋ねると、「今夜の夜討ちの事を聞き、夕方にどこかに落ち延びて行かれました。どこへ行ったかはぞんじません。」という。
石原石見の屋敷には、取るに足りない者ばかりが残っていました。
その後石原は妻子を連れて、足利の栗崎にいる四男の所に、しばらく忍んでいたといいます。
さてさて、せっかくの知行を捨てて、臆病者とあざけりをうけたのは、まことに恥ずかしいことです。




「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」とは、筆者の時代の価値観ですね。
戦国時代の価値観とは違うようです

親綱に「和睦の道もあったのに」と言わせています。
自分で戦を仕掛けておいて、ここれはひどい
自害させられた里見入道の首は、石原兄弟がもらいました。
供養されても喜ばないでしょうに
その後7年、桐生氏は桐生から退去します。

そして里見兄弟の帰国と言うことになるのです。

ここで、兄弟の母のことが唯一出てきます
「桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父」とあります。
兄弟の母は、桐生家中安西氏の娘でした
甲州の人ではなかったのです

いずれにせよ、仇討ちは失敗でした

 

 

初稿  2019.12.25

改稿  2024.11.23

 

 

(つづく)

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里見兄弟の物語総集編・その 1

2024-11-22 22:41:00 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは久しぶりに山上城まで行ってきました。

帯郭のモミジは、まだ紅葉していませんでした。

 

2019年12月、ひめちゃんと獅子丸は、落ち葉がいっぱいの山上城に行きました

帯郭のモミジがきれいに色づいていました

隣にある常広寺の銀杏も鮮やかな黄金色でした。

残念ながら、この銀杏の木はもうありません。

 

 

 

里見兄弟の物語総集編・その 1

里見兄弟は、父の仇を討つことなく、無念の死を迎えました
何故か、釈然としない終わり方でした
でも、桐生近辺ではつい最近まで史実と考えられていました
ストーリー(あらすじ)をもう一度しておきましょう



里見兄弟の物語総集編・その 1

仁田山城主である新田大炊之介(新田義重)の三男・里見太郎義俊の26代目の子孫里見義広は、もとは甲州山梨郡の人であった。
武田信玄にもとの領地を取られ、天文3年(1534)、浪人して桐生にやって来て、桐生殿とねんごろになり、桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って、里見勝弘を桐生搦手の押さえのために、赤萩へ在城させて、仁田山・八木原を知行させた。
赤萩に住んで間もなく、随見勝平、平四郎勝安という2人の子供にも恵まれ、息子達は文武に勝れた人となり、里見家の家臣には大貫一族、石原兄弟、これらは譜代の人々であった。

この頃里見勝広は、又次郎殿(親綱)の非道の御政道に諫言状を認めて再三意見した。
けれども、親綱は勝広の諫言をまったく聞かなくて、勝広も此の人はだめだと見限って、越後の上杉謙信と日頃懇ろなので、息子二人を託す事とし元亀元年(1570)3月13日、桐生城主に挨拶もなく、越後に派遣したのは、里見家の運が尽きる発端であった。

子供達を越後にやったことは隠しようもなく、3月15日津布子、山越登城して、「勝広入道が当家に知らせないで息子達を越後にやったことは何を考えているのかわからない。謙信に頼って当家への謀反を企てているのかもしれません。」と、もってのほかの讒言をした。
親綱も、里見入道のしたことを不快に思っていうことには、「石原兄弟はよくこちらのお供をしているので、彼らに内通して、里見入道を見届けよう。」とおっしゃった。
それで16日に石原へ内通した。

石原兄弟は里見入道を亡き者にして桐生氏の直臣となって大きな禄をもらおうと思っていたので、「おっ察しの通り里見入道は謀反の心を持ってます。」と速やかに反応した。
この両人津布子、山越は里見入道謀反の報告を親綱にし、親綱は大いに怒り、「軍勢を差し向けて入道を打ち滅ぼすぞ。」と山越出羽を大将として、荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人で3月20日に早朝に、仁田山の城へと攻め寄せた。

元亀元年(1570)3月20日早朝、桐生勢は仁田山に向けて出陣。
そのことを知った里見入道は大いに驚いて、朝早くに家臣達を集めて軍議を開いた。
意見はまとまらなかった。
石原兄弟が言うことには、「この城に籠もって大勢の軍と戦うなんて無理な事です。危うき期を恐れないのは、軍師の教えに多いです。でも、それは軍事的知識の不足が問題です。いったん谷山(やつやま)に退いて思案を廻らして、なんとか生き抜いて、再び正義の兵を挙げることが、名将の教えです。はやくはやく。」と諫めた。
大貫兄弟は血相を変えて、「石原よ其の方は里見家の重臣だろう。今までそう思って肩を並べてきたのが口惜しい。それほど命が惜しいのなら、入道殿の首を取って敵陣へ降参せよ。越後においでのご兄弟が名残惜しいことだ。今こういう事態になったのは、そうなる御運だったのだろう。思えば無念の有様である。」と。怒る眼に涙を浮かべて言ったので、みんな深く感心したようだったけれど、入道は石原兄弟を連れて、城を落ちていってしまった。





出だしから不自然です


甲州からなぜ桐生にやって来たのでしょう
桐生殿と昵懇(じっこん)にになったのは、桐生に来てからです
なのに、越後の上杉謙信とは日頃懇ろ(ねんごろ)なのです。
桐生にやって来てまもなく二人の息子に恵まれたというと、越後行きのころ、息子達は30前後になっていなくてはなりません
この話は、里見勝広が桐生にやって来てから35年後の話です
「桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って」というけれど、桐生氏は水争いで新田とはうまくいってません。
作者が「新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思っている」のでしょう。

 

 

 

初稿  2019.12.19  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.22

 

 

(つづく)

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里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事

2024-11-21 16:17:46 | 桐生老談記の世界

今日はお日様も出て、昨日よりかなり暖かくなりました

昼間は、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、ひなたぼっこをしながら、お外のお部屋(サークル)で過ごしました。

2022年の2月、タバサねーちゃんと、里見兄弟の墓がある高津戸の阿弥陀堂に行きました。

そのころのお出かけ大好きで元気なタバサねーちゃんです

丸々としたタバサねーちゃんの密生していた毛は、酷暑と加齢で大分抜けてしまいました

筋肉も落ちて、痩せてしまいました

でも、自己回復能力がまだあったのです。

秋風が吹いて、いつの間にか白柴に戻ってます

筋肉も戻ってくれるといいのですけど

タバちゃん、三四郎おじちゃんの17歳と1ヶ月より長生きしようね

 

 


『桐生老談記』 新しい章です。
里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事

去る程に、兄弟は思いのままに働き、城内へ引き退きみれば、味方の三十人ばかり討たれ、殊に弟兵四郎勝安深手負い、十八日のあけぼのに終に相果てけり。

随見大きに力を落とし、弟を先に立て、いつの時にか期すべきと思い、正木大蔵を以て紀伊守へ使者を立てられ、その向上にいう、某兄弟ただいま自害仕り候、依って随い来る越後勢早速に道を開き、御返し給うべき旨申し越しければ、

紀伊守早速に了承あるによって、随見喜び、遺状を認め、越後勢に謙信公の御方へ届け給うべき旨を頼む。

さてまた諸軍勢に向って、最後の盃くだされ、事終わる。またこの度の厚心、生々世々の御高恩、受けし謙信公の御前へ宜敷頼み存じける。早速に礼儀をなし、最後の規式を整え、其の日の巳の上刻に切腹なされけり。平山伊之助御介錯申し、大貫長順丸と平山は続き腹をぞ切にけり。正木大蔵御首を給わりて、御孝養を問い給い、扨て蔵を開き財宝を諸勢に配分して、午の刻に各々城を出られて暇乞、越後表を催し愁い給うはことわりなり。

かくて寄せ手は城に火をかけ、勝ち鬨を作りて帰陣なられけり。

そもそも随見勝平は天文二十年辛亥(1550)三月二十九日、仁田山の城に出生して、天文六年戌寅九月十八日、二十八歳にて卒す。舎弟平四郎勝安天文二十三年甲寅秋出生日知れず。天文六今まで二十五歳にて卒す。寔(まことに)惜しき武者かなと、諸人袖をしぼりけり。


あらすじです。

養命の城に攻め込んで、思いっきり戦って、里見兄弟は高津戸城に引き上げました。
帰ってみると、味方の内30人ばかりが討たれ、特に弟兵四郎勝安が重傷で、翌朝18日の明け方死亡しました。
兄の随見は落胆して、正木大蔵を使者にして藤生紀伊守に伝えました。
「私はこれから自害します。応援に来てくれた越後勢早速に道を開き、越後に御返しください。」と。
藤生紀伊守は了承したので、随見は越後勢に謙信への報告を頼みます。
外の人々とも別れの盃をかわします。
そして、準備を整えその日の巳の上刻(御前10時ごろ)切腹します。
平山伊之助が介錯し、大貫長順丸と平山は続き腹を切りました。
正木大蔵は首をもらって供養を担当し、蔵を開いて財宝を諸勢に配分し、午の刻(お昼頃)には、みんな城を出ました。
寄せ手の由良勢は高津戸城を焼き払い、勝ち鬨を上げながら帰りました。
里見随見勝平は28歳、弟兵四郎勝安は25歳でした。
「まことに惜しい武士であった」と人々は涙を流しました。



あっけない里見兄弟の最期です
無茶をして、空振りの仇討ちでした

父の敵・石原石見とは、一戦も交えていません


最近まで、この話は本当にあった事と、人々は信じていました。
でも、現在はおおいに疑問符のつく話とされます
大間々町の「大間々博物館(コノドント館)」でも、以前は里見兄弟の仇討ちのビデオを見せていました
現在では見せていません。


高津戸城の南、阿弥陀堂に、里見兄弟の墓があります



説明板には、老談記とは違う事が書かれています


『桐生老談記』の里見兄弟の話を、整理しておく必要がありそうです

 



(  里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事   終  )

 

初稿  2019.12.20   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.21

 

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養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事

2024-11-19 17:32:24 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です。

赤城山は、うっすらと初冠雪です

 

2019年の12月は、名胡桃城や小川城などの北毛を探訪していたようです。

この頃の、寒さにもめげずにお散歩したひめちゃんと獅子丸です。

本日のひめちゃんとタバサねーちゃんは、午前中赤堀の「小菊の里」に行ってきて、昼間はお外のサークルで過ごしました。

床暖マットを2枚にしました。

あまりの寒さにシニア・ハイシニアの姉妹は早めに夕方のお散歩を済ませて、早々と室内犬です

 

 



養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事

去る程に、里見兄弟は手合わせの合戦に打ち勝つというとも、大勢にかこまれ、千に一つも勝つべき様なし。

この上は逆さ寄せにして敵陣を押し切り、思いのままに働き、討ち死にをして名を末代に留めんと、百騎の勢を三手に分け、唯一っさんに押し寄せる威勢の程こそいさましけれ。

頃は九月十七日、夜に入手、養命の城に押し寄せ、三方の責め口より打ち破り、時を作って込めいれば、大いに驚きあわてさわいで、勢の疲れたる武者なれば、同士討ちする人多かりける。

藤生、金谷は早鐘をつかせ、夜討ちあるぞ、たいまつを出せと呼ばわり下知なせば、味方もこれに力を得て、半時ばかり戦いけり。

寄せ手は無勢の事なれば、終には城を追い出し、暫く息ぞつぎにけり。

さて俄(にわか)のことなれば、手負い、死人おびただしく、引田善八、渥美又兵衛、嶋田文五郎、藤沼源右衛門、板橋竜右衛門、稲垣源次郎、薗田彦六、木村縫殿之介、大沢丑之介、此れ等を始めとして、両家の軍勢八十三人、里見兄弟の為に討ち死にしたりけり。



あらすじです。

高津戸城では、由良の軍勢を撃退しました。
けれども、状況は千に一つも勝てそうにありません。
このうえは逆に敵陣に押しかけ、思う存分奮戦して、名を末代に残そうと、百騎を三つに分けて養命の城に押し寄せました。
その様子は本当にいさましいものでした。
9月17日の夜、養命の城に押し寄せ、三方の攻め口を破って鬨の声を上げながら、攻め入りました。
中の人々は、驚いて大混乱になり、みんな疲れていたので、同士討ちをする人々が多かったのです。
大将の藤生・金谷は早鐘をつかせ「夜討ちだ、たいまつを出せ。」と大声で指示したので、味方は力を得て、半時ばかり戦いました。
寄せ手は少数だったので、ついには城から追い出し、ようやく一息つきました。
急なことだったので、けが人や死人がたくさん出ました。
引田善八、渥美又兵衛、嶋田文五郎、藤沼源右衛門、板橋竜右衛門、稲垣源次郎、薗田彦六、木村縫殿之介、大沢丑之介、これらを始めとして、両家(桐生・新田)の軍勢82人が里見兄弟の為に討ち死したのです。



「討ち死にをして名を末代に留めん」とは、戦国時代の武士の価値観ではありませんね
一所懸命、所領を確保するために、みんな戦ったのです
それに、相手は桐生と新田からやってきた由良の軍勢です

確か父の敵は石原石見(いしはらいわみ)でした。
石見は養命の城に住んでましたけど、里見兄弟が討ち入ったときは足利に逃げ去っていました
どうして石原石見の所に押しかけないのでしょう?
高津戸から足利まではさほどの距離ではありません。

何か不自然な結末を迎えようとしています

兄弟の父は甲州の人で、武田信玄に領地を取られ浪人して桐生にやって来ました
そして、仁田山の城を任されたのです
浪人が城主になるなんてことは、普通ではありえないことです


けれども、小川可遊斉(おがわかゆうさい)は、浪人から上州月夜野の小川城の城主になりました
なんとなく、里見兄弟の父・里見入道(里見パパ)のモデルのように感じます
2019年12月、月夜野の小川城に行ってきました

後家の英断?(月夜野小川城)



『桐生老談記』では、桐生親綱に愛想をつかして去って行く人々の中に、「上泉・小川」が出てきました
上泉は上泉伊勢守信綱、小川は小川可遊斉だと思われます
まあ、彼らが桐生親綱に仕えるはずはないのですけど
作者は、小川可遊斉を知っていたのです

 


( 養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事   終  )

 

 

 

初稿  2019.12.17  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.19

 

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