ひめちゃんは、今朝は久しぶりに諏訪神社の向こうの高台を突き当たりまで行って、山上城跡公園を廻ってきました。
朝ご飯の後、二度目の朝散歩をして、お外のお部屋(サークル)に帰ります。
外のお部屋で、暖かい日差しに熟睡です
寒くなったけれど、日光浴はなるべくしようね
2019年4月の黒柴家族です。
獅子丸かと思いきや、ひめちゃんです
獅子丸はまだ実家に帰っていません。
ひめちゃんは、けっこうタバサねーちゃんと行動していたのです。
どこかと思ったら、ひめちゃんちの畑でした。
5年前、ふたりとも若かったね
里見兄弟の物語まとめです。
里見兄弟の物語総集編・高津戸ろまん
里見兄弟の墓といわれるものが、高津戸城址の少し下流にあります。
古い説明板です。
山田氏については、よくわからないようです
山田川も流れ、山田郡も長いこと存在したのですけど
高津戸城趾のある大間々町は、この間まで唯一の山田郡の自治体でした
「仁田山里見氏を頼ってきた、房総里見氏の里見上総介勝広」とあります。
仁田山里見氏なんていたっけ
里見パパは甲州の人でしたね
「里見兄弟は、天正5年(1578)5月、上杉謙信の援助で高津戸城を再興した。」
ええッ、違います
彼らは、天正5年9月2日に、黒川郷にやって来たのです。
黒川衆の阿久沢さん松嶋さんが援助して、天正6年春、高津戸城が完成したのでした
『桐生老談記』では、9月17日に、新田桐生の由良連合軍が、高津戸城を攻めてます。
その夜、里見勢が用命砦を攻めています。
参考にした資料が違うのでしょうか?
『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)では、
このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。
はっきり言うと、里見兄弟の話は創作だという事になりそうです
いわば、「高津戸ろまん」なのです。
大間々歴史博物館でも、最近は里見兄弟のビデオは上映してません。
ろまんはろまんを生んでいくようです。
里見兄弟の戒名が刻まれている供養塔です
理王院殿高誉勝政大居士、義光院殿勝安大居士?
変だぞ、名前がそのまま戒名に入ってる
ここ阿弥陀堂の縁日には、中の阿弥陀様をご開帳するようです。
いつかその時に参拝したいものです
(2024年4月7日、行ってきました)
高津戸・阿弥陀堂祭典
阿弥陀堂のそばには、「高津戸の渡し」がありました。
高津戸村と大間々村は、渡し船によって結ばれていたのです。
今よりズーと多い水量だったことでしょう。
渡良瀬川を渡って攻めるのは難しそうです
高津戸城址は、人々に「高津戸ろまん」をかきたてる場所なのです
ひめちゃんちのある山上も、人々に「山上ろまん」をかきたてる場所なのです。
あれそういえば、『桐生老談記』に上野国山上の山上氏は、まだ一度も登場していません
このあと、膳氏は何度もでてきます
山上さん、登場するかな
初稿 2019.12.28 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.11.15
( 里見兄弟の物語総集編・終 )