寒い寒い朝です
ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。
先日まで、秋なすを収穫していた畑には誰もいません。
ここは、新里村時代には、山上城跡公園で行われる薪能の駐車場になってました。
桐生市に合併してから、いつの間にか薪能もなくなりました
古い記事を検索していたら、懐かしい確信犯・獅子丸の写真(2020年12月)があります。
なんとも得意げな確信犯です
道ばたで何も入ってない黒ビニールの袋をくわえたのです。
おかあさんに「ペをしなさい」と言われて、「はーい」と放しました。
そして、ご褒美のツブツブ(ドッグフード)を数粒ゲットしたのです。
袋には何も入っていませんでした
確信犯です。
獅子くん、こんな一面もあったのです
一瞬の出来事で、ひめちゃんは蚊帳の外でした。
確信犯、獅子丸です
『桐生老談記』、新しい章です。
国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 1(討戮すべし」と仰せられければ)
去る程に、由良上野介源国重硬派藤生紀伊守を召し連れ、里見兄弟桐生に住居の由を、御尋ねなられける。
紀伊守承り申しけるは、「彼ら兄弟我がままの仕方、その上、石原を逃げうせたる有様、また謙信公より伊勢崎を分知せられ、また松嶋、阿久沢が取り持ちを以て高津戸に居城を構え、御当家へ一旦の届けもなく、かれこれ、わがまま至極なる振舞い、もし此の節その分に差し置かば、後日の程も計り難く候」と言上申されければ、
また国重公仰せられけるは、「尤も当家に向って弓引くべきにあらねども、この方の家中、石原を憎むほどならば、外にも野心の者多かるべし。然る時は兄弟がゆえに、分国の騒動、留まるべからず。尤も彼らが当家の類家にて、一家のちなみ不憫なれども、後日の乱を求めては当家の政道愚かなる所なり。またこの度越後より随い来る勢も百騎に過ぎたりと聞く。かれこれ心にくき事なり。討戮(りく)すべし」と仰せられければ、
紀伊守承り、「彼ら兄弟もの小身たりと申せど、一騎当千の兵、隨身いたし、籠城仕る上は、味方無勢にては計り難し、よき大将を仰せつけられて然るべき」旨を言上致されければ、「金谷因幡、藤生紀伊、両大将」とおおせられ、即ち両人内談いたさしつつ藤生は桐生へ帰り、わづかに勢の着頭をいたし、
あらすじです。
由良家は代替わりして、国重が当主になりました。
国重は藤生紀伊守を呼んで、里見兄弟が桐生領に居住していることを尋ねました。
紀伊守は、「彼ら兄弟はわがままのし放題です。そのうえ石原を逃亡させたり、謙信から伊勢崎を知行につけてもらったり、また松嶋、阿久沢の取り持ちで高津戸に居城を構え、当家に全く挨拶がありません。かれこれのわがままをそのままにしておくと、後日の愁いとなります。」と報告した。
国重は、「当家に弓を引くという訳ではないけれど、我が家中の石原を憎んでいるということは、外にも憎んでいる者がいるにちがいない。兄弟のせいでわが領国の騒動は収まりそうにない。彼らは、当家と同じ源氏であるけれども、後日の騒動が起こるまで、ほっておくわけにはいかない。討伐せよ。」といった。
紀伊守は承って、「彼らは小身ものであるけれど、一騎当千の兵が隨身いたして籠城している上は、味方の軍勢は少なくてはどうしようもありません。よき大将を申し付けてください。」ということを申し上げた。
国重は、「それならば、金谷因幡と藤生紀伊がふたり大将だ。」と言った。
金谷因幡守と藤生紀伊守は会談し、藤生紀伊守は桐生に帰って軍の準備をした。
里見兄弟は、由良さんによって討伐されるのですね
知りませんでした
兄弟の父を自害に追い込んだのは、石原石見です。
そして、彼らは桐生親綱にに内通していたのです
敵は石原石見と桐生親綱のはずです
里見兄弟は由良領国内で勝手に城を修復して住み、仇討ちをしようとしていたのです
謙信が伊勢崎を里見兄弟の知行に付けたと、また出てきます
伊勢崎の地名は、由良成重が伊勢神宮に土地を寄進したことによりついたと言われています。
変ですね
初稿 2019.12.05 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.11.09
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます