寒さが募っているが、つい昨日、正月だと思っていたら、もうすぐ二月だ。
冬来たりなば春遠からじ、とはよく言ったものだ。
尤も、冬・春の間だけではなく、歳をとると時間があっという間に過ぎるのは春夏秋冬を問わずでだ。
しかし、春になればあれもしたい、これもしたいという思いはある。
春を喜ぶ気持ちはこの歳でもある。
昨日、大寒が過ぎたばかりなのに、もう春の望みを語っている。
気が早いというかなんというか?
結局、だらだらと時を過ごすのに変わりはないというのに・・・
荒れ寺のいらくさ分けて悴める 素閑
薬缶の湯はやさめざめと悴める 素閑
悴みてたださきざきの不安めく 素閑
ここのみか日の当たる場も悴みて 素閑
悴める子に砂糖湯を振舞いて 素閑
田の畔の残り泥水悴める 素閑
老残の掌の皺悴めり 素閑
がま口の百円探し悴めり 素閑
風もなく天突く青空悴めり 素閑
京の子もつひじにつどひ悴めり 素閑
歯が痛い。
歯が痛いというより歯茎が痛い。
歯周病などと言った甘いものではない。
歯を削った後の歯根治療が不完全だったので、化膿しているようだ。
しかし「ようだ」はないだろう。
もう10年以上放置している。
歯医者は大っ嫌いだ。
死ぬようなことがなければ、絶対行かない。
日本で行う歯根治療は極めてお粗末なものだと聞いた。
病菌の遮断ができていないので、ほぼ全ての例で失敗するそうだ。
アメリカの歯科医の治療では、完全に病菌が患部に触れないように施術をして、歯根治療するそうだ。
だから米国では歯根治療の失敗例はないという。
まぁ、歯の一本で数十万円が飛んでいく米国の医療制度と比べて、どちらがいいか分からない。
ただ歯茎がづきづき痛むのだけは確かだ。
炭焼きやはや日は西にかたぶけり 素閑
炭焼きや一人釜にて辛き顔 素閑
炭焼きの子は煤の顔ふと見上げ 素閑
楽も無しただ炭を焼く仕事なり 素閑
尾根越えて煙一筋炭を焼く 素閑
妻子とて恨みつらみの炭焼きや 素閑
ふるさとの山家の奥の炭焼きや 素閑
炭焼きや親子で一冬かまずまひ 素閑
杣道をたどれば炭焼き小屋なりき 素閑
炭焼きのかんばせひじりに似たまひし 素閑
腹が立つことが多い。
対象は家の中の些細なことから、世相・社会、国際情勢等ありとあらゆることに腹を立てる。
自分でも余程アドレナリンが出やすいものだと思う。
腹の立て方もいろいろだ。
無暗矢鱈と当たり散らしたり、相手のいる場合、時には腹を立てているとはいえ、論理的に諄々と意見したり腹の立て方も定まらない。
しかし周りは多少、迷惑である。
特に家族は被害を被っている。
申し訳の無い事だ。
行きつけの蕎麦屋が家の近くにある。
なんの変哲もない街の蕎麦屋だ。
その店の壁に色紙が飾ってある。
それに「腹」という字が横に寝せて書いてある。
一種の人生訓だ。
この蕎麦屋に行くにつけて反省してくる。
しかし腹の立つときには腹が立つ。
自分でも気持ちの良いものではない。
つくずく損な性分だと思う。
大寒や出がけに選ぶ靴の色 素閑
大寒や日向に座る猫二匹 素閑
大寒や無聊に鼻をつまみけり 素閑
大寒のむしり疲れた干しだらや 素閑
大寒や木戸口開けり音もなく 素閑
そろそろと大寒のとき入日かな 素閑
大寒や焼いた鰯の青味色 素閑
大寒や祖霊に捧ぐ田一反 素閑
お閻魔と大寒の日の縁結び 素閑
大寒に熱き湯ほんに有難し 素閑
大寒やぬるみかけたる朝茶かな 素閑
大寒にほのかにかほるかすみ花 素閑
今年は消費税が上がるのだろうか?
政府は上げると言っている。
リーマン級の恐慌がない限り。
年末年始の東証の株価の下げには正直期待した。
消費税が上がらないのなら恐慌もまた有難いと思った。
そもそも日本の財政赤字のカラクリは財務省が意図的に捻じ曲げて作った物ともいわれている。
税金を払いたくないわけではないが、意味不明なものに対してはご免こうむりたい。
苛政は虎よりも猛なり、とはよく言ったものだ。
将来の保障はない、税金だけは取られるでは、本当にお上を恨むしかない。
牡蠣の口たわけたけふの雪の空 素閑
浦浪や牡蠣に託するこひのふみ 素閑
冷たさや曝しの牡蠣剥き北の浜 素閑
思わずも牡蠣売る酒肆のコップ酒 素閑
近郷の牡蠣あきなへる老婆かな 素閑
老樵に牡蠣食わせむと初の旅 素閑
牡蠣剥ひて箒で殻を掬わむと 素閑
旅の宿牡蠣を供する六畳間 素閑
菰に積む牡蠣のやま漁夫はこびけり 素閑
牡蠣剥けり昼より雨となりにけり 素閑
板前の利いた風なる牡蠣酢にて 素閑
構造主義と言うのが流行ったことがあった。
ポスト・モダンと言う言葉も流行った。
みな、浅田彰センセのなせる業なのだが、今はきれいさっぱり忘れ去られている。
浅田彰センセもすっかり過去の文化闘士の鋭さを失って関西のどこかの大学の学長におさまっている。
しかし、その影響はことのほか大きいもので、現代のサブ・カル・ブームなどはポスト・モダンの流行がなかったらあり得なかったであろう。
そして今どきの文化人、アズマンや哲ちゃんも皆、浅田センセの影響を受けている。
きわめて純粋な学術的論考だったのがブームを呼び、思わぬ方向で現代に影響を与えている。
その一方で、ド・ソシュール、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ドゥールーズ・ガタリ、レヴィ・ストロース、ジャック・ラカンなどはきれいさっぱり忘れ去られた。
恐るべし、メディアの力。恐るべし、ブーム・メーカー。恐るべし、出版コマーシャリズム。
雪晴れやとほくかすむは岩木山 素閑
雪晴れや西にかぶくは入日とて 素閑
雪晴れやダイヤモンドの江戸切子 素閑
融水の路に広がる雪晴れや 素閑
霊山の枝のしづくか雪晴れや 素閑
波濤あらき常の海なり雪晴れや 素閑
雪晴れや木の枠出窓さすひかり 素閑
都にて雪晴れの日に遭いにけり 素閑
老残も児戯の愉しみ雪晴れや 素閑
雪晴れや田舎の駅に汽車来たり 素閑
老松に塊残す雪晴れや 素閑
いつもいつも申し上げているのだが、近年、きわめて体調が悪い。
だるいような疲れたような・・・きわめて不快な状態が続いている。
そういった中で食欲だけは一向に衰えない。
もともと食に関してはもっぱら無頓着である。
何を食っても美味いと感じる。
だからよく食う。
従って、ぶくぶくぶくぶく肥る。
美味いものは美味いと感じるが、不味いと思うものはあまりない。
金のある時は美食もするが、極端な話、冷や飯に醤油をかけただけでも立派な食事として美味しく頂ける。
まぁ、よくぞ生存には合理的と言うかうまくできている。
しかし、これで生活習慣病などになったら、全く逆の結果になるという落ちだが。
それにつけても、これからは腹八分目を心掛けることとしよう。
下の写真は去年の暮れに食べた馬刺しで、今日の季題は「桜鍋」(馬肉の鍋)だが同じ馬つながりということでお許し願いたい。
桜鍋顔てらてらと男たち 素閑
福を当てすぐれ機嫌の桜鍋 素閑
名も知らぬけとばし喰ふ奴夜の座敷 素閑
けふ行くは桜鍋とて沸き立ちぬ 素閑
峠道越えて山家の桜鍋 素閑
桜鍋宵の雨とて気にもせじ 素閑
明日はまた早立ちなれど桜鍋 素閑
板敷のくりやより来る桜鍋 素閑
桜鍋ちまたのうわさ添へにけり 素閑
桜鍋鳥屋も静まり湯気の顔 素閑
エッセイともコラムともつかぬ駄文と、駄句を並べて書いている。
しかし散文と韻文を同時に書くというのは頭の切り替えが難しい。
ちょっと、この二つは異なる思考回路を必要とする。
ただ、共通するのはオカブの書くエッセイと俳句はどちらも取るに足らぬ詰まらんものと言うだけである。
せめて俳句は歴代の名匠の足下くらいには及びたいものだが、これもままならぬ。
フランスの貧乏詩人のように、ただ悶々とシラブルを数えているのみである。
冬の闇もちづきうつす芥川 素閑
冬川やあしたに雀飛びわたる 素閑
冬川やよどめる工場街なりき 素閑
労働旗冬川わたる人の群れ 素閑
冬川や八百八橋水たいら 素閑
冬川やもやえる舟の底浅し 素閑
柴焼ける堤の広き冬の川 素閑
山路来て水のほそまる冬の川 素閑
冬川や遊ぶ子もなくただよどみ 素閑
けふは冬かわのみづものしづけさや 素閑
鉛筆やその他筆記具メーカーには受難の時代であろう。
紙に出す文書がすべてデジタル化されたデバイスで作成され、出力はプリンタからされる。
筆記具の需要は純粋には学校生徒と、サインをする際に必要なくらいではないか?
ところがお役所に提出する文書はみな手書きである。
時代錯誤も甚だしい。
税務関係はe-taxというのをお役所が推し進めているが、認証に必要な電子印章が十数万円もコストがかかるので全く現実的ではない。
すべて格安で電子化してほしい。
しかし、こうした時代にも、根強い手書き派というのはいるもので、高級万年筆などは筆記具だが、結構売れているらしい。
昔はなんでも活字で打ち出されたものを有難がって、社長さんなどが手書きで書いた文書をわざわざ秘書にワープロで打ち直させて、紙に出力していた時代があったが。今は高級万年筆で書いた手書きの文書がありがたがられる時代である。
まあ、オカブとしてはどちらでもいいのだが、いずれにせよ非生産的なことはやめてもらいたい。
自分も閑だ閑だと言ってはいるが、結構、糞忙しいので・・・
ぼろ市や土のかほりの竹の籠 素閑
歩き果てぼろ市の郷暮れにけり 素閑
ぼろ市の猪口を出だすや蕎麦屋酒 素閑
呼び声もひじりに似たりぼろの市 素閑
近郷の農具もなけれぼろ市や 素閑
たこ焼きのぼろ市通りのにおひかな 素閑
ぼろ市に妻を誘ひて諍へる 素閑
豪徳寺門徒寺過ぎぼろ市や 素閑
ぼろ市や入試の想ひ去来せり 素閑
ぼろ市の露店のあるじ老夫婦 素閑
ぼろ市の頬も赤けれ人通り 素閑
『ボヘミアン・ラプソディー』という映画が流行っているらしい。
クイーンというロックバンドをモデルにした映画だそうな。
泣けるらしい。
尤もオカブは映画を見て泣いたことはないが・・・
この映画も結局見ることはないだろう。
そもそもクイーンと言うバンドはもちろん名前は聞いたことがあるが、音楽は一つも聴いたことがないし楽曲も知らない。
オカブたちが麻疹のようにロックに染まった、一世代後のスターだからだ。
オカブたちの時代はニューロックが去り、ロックン・ロールやクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルなどのノスタルジー系や、グランドファンク・レイルロード、ディープ・パープルなどの本格的ハードロックが世の中を席巻した時代だ。
オカブもバンドを作りドラムを叩いた。
それは本当に麻疹のようなものだった。
遠い昔の話である。
本当に遠い・・・
寒布団いぎたなくさけこぼしけり 素閑
葦切りの布団に割れた脚ぬくめ 素閑
夜半過ぎて母の匂ひす布団かな 素閑
焼けの色痩せ布団ゐる老ひの骨 素閑
ふるさとに帰りし布団湿りけり 素閑
禅院の柏餅なる大蒲団 素閑
磯荒れて波にもぐるは蒲団かな 素閑
乱れたる蒲団の端の薄笑ひ 素閑
外は雪はたまたみぞれ蒲団出ず 素閑
伊豆の宿同僚みたりの蒲団かな 素閑
かねてよりSNSで交流のあった人が出演するコンサートに誘われて行ってくる。
面識はない。
しかし、面識はなくとも、こうした人脈のネットワークが広がっていくのがネットのいいところである。
チャイコとショスタコービッチのロシア・オンリーのシンフォニーである。
もとより、オカブはあまりシンフォニーを聴かないのだが、これを機会に親しんで来ようと思う。
しかしシンフォニーの入門がチャイコとショスタコービッチとは凄いカリキュラムである。
かなり重そうだ。
まぁ、これも良いブレークスルーだろう。
演じるほうはアマオケだがなかなかレベルが高いらしい。
楽しみである。
雑炊に光鋭き夜半の月 素閑
雑炊の湯気すさまじく風すさぶ 素閑
冷や飯にたまご二つの雑炊や 素閑
雑炊やこころにもなき気慰み 素閑
雑炊や金の足りぬは家のつね 素閑
言葉なく二人掻き込む雑炊や 素閑
老ゆる人ばかり雑炊かこみたり 素閑
みずうみのみなそこ雑炊掬ひたり 素閑
こつじきも雑炊すすりたまへけり 素閑
興もなく雑炊の席食へるのみ 素閑