シャネルは香水も服も作っている。
創業者、ココ・シャネルが住んだパリの『ホテル・リッツ』は超高級ホテルの老舗として4年前に改装を終えヴァンドーム広場の近くに聳えている。
フランスは一つの資本が複数のブランドを持つケースが多い。
目立つのは強い資本が企業買収を重ねてきたからだ。
ルイ・ヴィトン、ヘネシー、モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨンなどは同一の資本下にあるし製造・販売会社も一つだ。
ルイ・ヴィトンだけでも大変なブランドだが、これはシャンゼリゼ通りにモノグラムのバッグを模したビルディングが建ち、本店が入っている。
それに対して、海外勢のフランス進出はサムソンがマーケティング的に非常にうまい。
シャルル・ドゴール・ロワッシーからパリ市内に向かう高速の右手にサムソンの社屋のビルが建っているが、建物はうらぶれた見すぼらしいものだが、でかでかとした看板が際立って目立つ。
これでパリに入出国する人は嫌でもサムソンのブランドを覚えることになる。
無理にニューヨークのタイムズスクエアに看板を出す日本企業と異なり実利的だ。
もっともヨーロッパ人の多くはサムソンが日本のブランドと思っているらしい。
昨年パリに行ったが2月の初めで猛烈に寒かった。
暖かくなったらオカブのパリ恋しも始まるかもしれない。
冬の雨松も傘さしうづくまり 素閑
冬の雨あてどもなしや楢の園 素閑
毛氈をたたんでしまふ冬の雨 素閑
傘もなく細き雨降る冬並木 素閑
焚き柴を抱へ走るや冬の雨 素閑
大儀の身しばし訴え冬の雨 素閑
庭の石わずかにひかる冬の雨 素閑
冬の雨頼りがひなき亭主かな 素閑
しづかなる川面になみたつ冬の雨 素閑
益子とも笠間も問わず冬の雨 素閑
禅には曹洞宗と臨済宗と大きく分けて二つの宗派があるのはご存知だろう。(隠元の伝えた黄檗宗もあるが非常にマイナーである)
道元が日本の法主の曹洞宗は別として臨済禅はそこから細かく枝分かれする。
鎌倉禅には建長寺派と円覚寺派に分かれる。
それぞれ蘭渓道隆と無学祖元の法統を継いでいるからだ。
そして南北朝を経て京都に禅の中心が移ると、南浦紹明、宗峰妙超(大徳寺開山・大徳寺派)、関山慧玄(妙心寺開山)と続く法統と、足利尊氏の寵愛を受けた無窓疎石の天龍寺派が相対する。
しかし、江戸時代に降って白隠慧鶴らの輩出もあり、現代の臨済禅の系統は何派というのとは別に、応(大応国師・南浦紹明)、燈(大燈国師・宗峰妙超)、関(関山慧玄)の法統に続く者が司っている。
特にこの妙心寺派の系統をひく臨済禅は禅風峻烈、寒中の氷のような修行姿勢であるという。
オカブは禅とはなんの縁もないのだが、一つの自力の宗教として、また釈迦の上座仏教を大乗仏教の中で最も忠実に継いでいるものとして禅に興味を持っている。
現代は第二次の禅ブームともいわれているが、浮薄に流されず、地道に禅の後代への継承を行っていただきたい。
暮れの園漂ふばかり寒鴉 素閑
啼きてなほ日の落つるを知る寒鴉 素閑
友も去り独りぼっちや寒鴉 素閑
潰れたる工場の街寒鴉 素閑
今日もまた腹すかしけり寒鴉 素閑
寒鴉尾を引き啼ひて泣き通し 素閑
寒鴉掛け売り手形流れけり 素閑
松の葉の揺れる降しや寒鴉 素閑
荒れ寺の坊主の朋よ寒鴉 素閑
寒鴉二本脚にていざるさま 素閑
こう毎日、俳句を詠んでいると、俳句とは何か?と真剣に考えてしまう。
しかし結論は、何のことはない、曰く俳句とは大したものではないということである。
いい歳をした大人が茶柱が立った立たないで喜んでいるに等しい。
五・七・五の中に遠大な思想や微細な美意識を収めることは不可能である。
であるから日常の細々したものの中の面白みをただ詠んでいるだけである。
俳句の面白みは二つ。
日常の中にこんなことがあったか、という新たな発見。
もう一つは、そういえばそんなこともあるなあ、という共感。
およそ伝統俳句の世界はこんなものである。
前衛俳句に関しては分からないが、「日常」が「言葉」の組み合わせに替わって、そこで新たな発見と共感を見出すことで、伝統俳句と本質的に違わないのではないか?
まことに「卑近」な「芸術」である。
しかし、その日常の「卑近」さの中に「宇宙」があり人間を包摂するともいえる。
ある人が俳句はある意味命がけでやるものだと言ったのを聞いたが、その通りだと思う。
茶柱が立った立たないが一面の人生の本質であるとしたら、人間の知覚空間を俳句は鋭くえぐっているものともいえる。
なかなか俳句も馬鹿にはできない。
ひれ酒やここは亭主の弱り目か 素閑
ひれ酒や温めごごちの勘所 素閑
俳諧の宗師ひれ酒酌みにけり 素閑
ひれ酒や波平らかな浦の岸 素閑
ひれ酒や夕のこまかき雪の空 素閑
丸顔となりてひれ酒覚えたり 素閑
ひれ酒の間の外に来る痩せ犬や 素閑
桟橋に想ひの人をひれ酒や 素閑
ひれ酒の香こもる部屋羅山の書 素閑
渡欧する友にはなむけひれ酒や 素閑
薬屋と古着屋に満ち溢れた町に住んでいる。
薬屋は、それができる前は医療費はもっと安かったのではないか?
昔は普通の診療だったら薬代含めて1,000円以内で収まった。
それが今では初診なら、5,000円は握って出かけないと不安である。
どうも政府の行政のやることはおかしい。
一方、古着屋だが、これがちっとも安くない。
バリ島で民芸品を買うようなレベルである。
新品でユニクロの製品を買うほうがよほど安い。
いや、ユニクロならずとも、一般の通販で新品を買ったほうがよほど安い。
こうした町は廃れていくだろう。
我が町なので残念だが、商行為に合理性のない商店街なのだから仕方がない。
一念奮起する大志を持った町の起業家は現れないものか?
尤も、誰かを?を待っているだけの老害も邪魔なだけであるが・・・
疎林抜け冴ゆるいただき日のわずか 素閑
面白き寄席も終わりぬ神田冴ゆ 素閑
八畳も広しとおぼゆ夜の冴え 素閑
鉱山の跡の荒れ様夜冴ゆる 素閑
遠き灯も集めてゆれじ冴ゆる村 素閑
月昇りするどき光冴えざへと 素閑
冴ゆるかな破れ障子の四畳半 素閑
去年の夏暑さをおぼゆ冴ゆるかな 素閑
冴ゆるかな古女房の皺のつら 素閑
さへざへと水面の風のかたさかな 素閑
冴える夕園の玉砂利はておもし 素閑
風とおしほとけののづらの冴ゆるかな 素閑
年末年始は『こうもり』尽くしだった。
3本は観た。
しかし、どれもオットー・シェンク演出のもの。
どうも『こうもり』はオットー・シェンク演出でないと面白くない。
『こうもり』のプロットには諸説があって、一定しないが、シェンクの物語が最も納得するし劇としての完成度も高い。
これに挑戦する冒険的な演出もあるが全敗である。
劇の進行の一場面一場面が定番になっていて、これ以外の『こうもり』を観ても違和感があるばかりだ。
まぁ「12月32日」のカレンダーがないと年が明けた気がしないというものだ。
これほどオットー・シェンクは親しまれている。
さて、大晦日にウィーンの国立歌劇場で『こうもり』を観られるのはいつになることやら・・・
実南天千畳敷の庭先や 素閑
南天の夜星に替へるあけのゐろ 素閑
南天や行くさきざきでうたげなり 素閑
古垣に臥竜老松実南天 素閑
いてる朝素手にふれたる実南天 素閑
愉しけり南天みたるわれがその 素閑
南天の実の残影のわすれらじ 素閑
実南天近江路風の吹きわたり 素閑
我が里のにわの南天とき惜しみ 素閑
手は荒れてはだはすさめど実南天 素閑
亀の甲より年の功というが年の功など何もない。
あるとすれば毎年少しばかり積み重ねてきた知識で、世の中を多面的に見られるようになったことぐらいか?
これも年の功と言うか自分の成果というよりも、世の中がそれだけ進んできたことの結果のほうが大きい。
しかも多面的に見るというのは、自分の中に複数の多様な価値観や認識が混在していることになるので、なにか物事を決めるとき、懐疑的で優柔不断になりがちだ。
何もいいことはない。
こうした在り方よりも単一の価値観、単一の方向性を堅持して突き進む人のほうが人生、多くの実績を残せるし、本人も幸せだ。
なんで自分がこんなに捻くれてしまったのか、良くわからない。
しかし赤子の頃より精神的に何も成長していない、ということだけは言える。
七種や不寝の仕事おわりけり 素閑
興もなくけふの七種むかへけり 素閑
七種よ腰の痛みをなをしたも 素閑
冷え冷えとしたけふの朝薺煮る 素閑
酒肆いでし宵越しの客七種や 素閑
年を経り子と七種を調ふ日 素閑
まだ明けぬくりやに立つ母七種や 素閑
畔の道童のひとり薺粥 素閑
七種のあしたに湯あみ肌も伸ぶ 素閑
薺粥ちとをごそかになりにけり 素閑
大学の第二外国語はロシア語だった。
べつに選ぶのに何の考えもなかった。
ただ今は米ソ二大国の時代だからロシア語をやっておけばなんかの役に立つのでは?と思ったくらいである。
まったくものにならなかった。
成績はどん尻。
今となっては、なんの役にも立たない。
ただロシア語のアルファベットが読めるくらいである。
その後、独学で学んだフランス語のほうがよほど実用的だ。
フランス企業相手の仕事もちらほら手掛けたので、少しは役に立っている。
語学というものは、もちろん学ぶ本人の意志と努力も重要だが、環境というものが大きい。
その点、日本は不利である。
ネイティブの日本語に訳せないものはそのまま表現してしまうカタカナという魔法の文字を持っているからだ。
これで、外国語を学ばなくても、外国の事象はほぼ分かってしまう。
海外ではそうは行かない。
だからちょっとしたホテルのコンシェルジュや駅の案内係で7か国語くらい話せる人はざらにいる。
日本人はまねはできないだろう。
しかし日本人のように、世界各国の事情に通暁している国民も珍しい。
カタカナのお陰である。
日本人のノーベル賞受賞者が授賞式の席上で「私は英語が苦手でして」と話した有名な逸話がある。
日本では外国語ができなくても世界レベルの学術研究ができてしまう。
どちらがいいか分からない。
小寒に葉の無き木々の哀れなり 素閑
小寒の塵捨てに飛ぶ鴉かな 素閑
小寒の伊豆にありけり祖母と孫 素閑
いずれまた会おうと夜の小寒や 素閑
小寒や明日は税の期日なり 素閑
ありあはせ小寒の膳ととのへり 素閑
小寒の井の水淡く雲うつす 素閑
小寒の霜の杣道きつね追ひ 素閑
逃げ通すことならぬ夢小寒や 素閑
小寒の冷や飯と汁あさげかな 素閑
家囲む小寒の寺老松や 素閑
正月も終わりである。
昨年、もう年が明けるのか!?と思っていたらあっという間である。
去年、歳を取るとなぜ時が経つのが速いのか、という理由について友達から面白い説を聞いた。
曰く、10歳であれば1年は生涯の十分の一であるが、60歳だと六十分の一である。時を速く感じるのは当然とのこと。
なるほど、と思った。
とにかく去年、バタバタとした正月を過ごしたのが今年のように思えてくる。
歳は取りたくないものである。
ところで晩成の戦国大名の一は北条早雲。
五十歳になって初めて城主と言う地位を得た。
それからも彼の経営策は慎重そのもの。
隣国を侵略するにも、勝算が100%でないとその腰を上げない。
しかしひとたび動いたとなると一気呵成である。
その日々の戒めは『早雲寺殿壁書』につぶさに現れている。
彼は現代にあってもなお、合理的為政者、ないしは経営者として大成功を収めたことだろう。
けふを生きゐつかゑびすの老ひのはて 素閑
ゐつかゑびす商売繁盛ささもってこひ 素閑
仔細気にゐつかゑびすの笹かかげ 素閑
臈たける五日戎の八文字 素閑
岩つばきゐつかゑびすに光浴び 素閑
亥のとしにゐつかゑびすの猪突かな 素閑
朋輩らゐつかゑびすの生酔ひか 素閑
旅行社の五日戎を整えり 素閑
ゐつかゑびす御前の忌日忘れたり 素閑
しろたへのゐつかゑびすの神子みたり 素閑
島原の乱の話である。
幕府方の総大将、板倉重昌は寛永十五年一月一日に一揆方の籠る原城に総攻撃をかけ、失敗して戦死した。
なぜ一月一日に総攻撃かと言うと、元旦であれば、一揆方も油断しているだろうという企みである。
しかし、一揆方は耶蘇教徒なので元旦を祝する習慣がなかったため、重昌の思惑は外れたというのが松本清張の解説。
しかし、これはちと可笑しい。
一揆方は旧教のカトリックであったが、カトリックでは新年の初日を神に捧げるという意味で、元旦に特別なミサを行う。
ちなみにプロテスタントは元旦を祝せよと聖書にないので元旦には特別なことをしない(日本の一部の教会では信徒が初詣に行くのを妨げるため元旦礼拝なるものを行う場合もある)
まあ、この総攻撃失敗は、一揆方が元旦で油断しているであろう思惑が外れたというよりも、重昌が総大将松平伊豆守派遣、総大将更迭の報を聴いて、戦備の整わないままヤケクソの攻撃に出たのが原因であろう。
正月早々辛気臭い話だが、多くの方がご存知のように、西欧でも大晦日は徹夜でカウントダウンで飲み明かし、一月一日は多くの人が二日酔いで寝ている。だからと言っては何だがほとんどの国で元旦は祝休日である。
そんなことで、改めて、皆様、佳いお年を!
青き空恵方の白き山なれや 素閑
礼まわり恵方の浦浪しづかなり 素閑
今日の朝妻の願掛けかの恵方 素閑
弁財天うるわしかんばせ恵方かな 素閑
凶方も恵方となるや七福に 素閑
旅の空恵方と知れり村はづれ 素閑
杉木立恵方に詣る奥やしろ 素閑
朝日拝む遠き大島恵方かな 素閑
氏神の恵方となれりめでたしや 素閑
三日となってしまった。
なんとなくものわびしい。
宴の終わり、祭りの終わりでありそんな気分だ。
ニューイヤー・オペラもそんな気分で観ている。
そんな憂い気な心の中でぼんやりテレビを観ていたら、出たー!真打登場。
デブの音楽家の中の音楽家のデブ、河原君登場!
はっきり言って今回の公演の中の一番のスターであろう。
ご登場の歌手の皆さんも一度は河原君のお世話になったことと思う。
今年は河原君のお陰で、明るい気分でスタートを切れそうだ。
はや三日地の裏側に陽の落ちる 素閑
凛冽の陽もやわらかし三日かな 素閑
姥爺の三日の宴のおわりかな 素閑
三日の夕家路につく人ゆるやけし 素閑
初孫の想ひの母の三日かな 素閑
明日のため靴磨きけりはや三日 素閑
三宝を収める間なし三日かな 素閑
寝続けて三日の世相疎きかな 素閑
懐かしき三日の裏山しづまりて 素閑
落魄し都住まいの三日かな 素閑
稚児集ひ三日の菓子を競い合ふ 素閑