元旦も過ぎた。
あっという間である。
一年の中でも時の経つのを最も早く感じるのはこの時期ではないだろうか?
なにもすることがない。どこへも行く当てがない。
向島の七福神巡りでもしてこようか?とかーたんに水を向けたがいい返事が得られない。
もう数十年も前に、この七福神巡りに行ったが、大方の記憶を失ってしまった。
確か、福の七草を土産に買ってきたような・・・
言問橋を越えたのは覚えている。
夕暮れの寒風が隅田川を渡っていた。
どこかで鰻を食ったような気もする。
しかし鰻は南千住の『尾花』に如かず、である。
鰻の美味はここに限る。
料理が鯉の洗いを除いては、鰻に限られているのもこの店の自信を表している。
春夏秋冬いつ行っても長い行列が前庭にできている。
まぁ、下町巡りは流れたが、それなりに何とかやっている。
とにかく今年は良い年になってもらいたい。
雲多く二日の朝はあけにけり 素閑
店の先素通りするや二日かな 素閑
神棚の燈明白く二日かな 素閑
洗い物たまりにたまる二日かな 素閑
ふつかにはおっとり通る参詣路 素閑
酒に倦み二日の日輪色あせし 素閑
白髪増えふと鏡観るふつかかな 素閑
ふつかなり隣家のかそけく戸のあけり 素閑
人声の無きふつかなる街路かな 素閑
愉しみも二日のけふでおわりかな 素閑
大八州ふつかのやさしき日をあびぬ 素閑
昨晩から年が変わってからも遅くまで起きていた。
家族ともども三々五々、寝床を出て、元朝の膳につく。
御節など有らばこそ、スーパーのテイクアウトである。
まぁ、酒にありつければよい。
年始の挨拶にも疎く、ただ、だらだら時を過ごすのみ。
普段暇なのだから、新春ぐらいは引き締めていけばいいものをそうは行かない。
物臭と言うのも因果な性である。
日の暮れないうちに書き溜めた年賀状を出してきて、元旦が過ぎていく。
今年の抱負とてない。
ぐうたらも極まれりである。
一年の愚痴を聞かされ屠蘇酌めり 素閑
寝間にては埃だらけも屠蘇酌めり 素閑
細々と生きるもよしか屠蘇の朝 素閑
老妻も健やかなれと屠蘇酌めり 素閑
養老の屠蘇もこれより何年か 素閑
楽ありて苦もあり屠蘇のとしはじめ 素閑
屠蘇の酒酔うて腿膝濡らしけり 素閑
相模灘望みて旅の屠蘇に酔ひ 素閑
かーたんと大晦日の晩をテレビを観て過ごしている。
テレビなど観たのは何か月ぶりだろう。
『こうもり』のDVDを観て、第九を聴いて、東急ジルベスターコンサートを聴いて・・・
なにか音楽尽くしの年越しだ。
さて、今年のカウントダウンはアンドレア・バッティストーニ指揮、東フィルでヴェルディ、アイーダの『凱旋行進曲』。
曲の終わりが2019年1月1日0:00にはかなり早かった!!!
引き延ばして苦しかったところは今年の初笑いか?
明けましておめでとうございます!
迎春
世に出でてすることもなくけふの春 素閑
愉しかり日々の去来す玉の春 素閑
おともなくただ日の落ちる春のけふ 素閑
諦めり抱負きかれて初春や 素閑
朗々とひびく謡やあさの春 素閑
心づきとなりにすそ分け花の春 素閑
校庭に人影なしや明けの春 素閑
電車待つ列も乱れむけふの春 素閑
和装する子のまぶしさや春老ゆる 素閑
寿齢えるわずらわしさや初の春 素閑
初春やみどりなき山華やぎて 素閑