私は、由利本荘市西目町海士剥出身である。アマハギと呼ぶ。
さて、なぜ海士剥という集落ができたのだろう。
海士は男の漁師、剝はものを根こそぎうばいとるもの
よって 海賊?
などと思っていたが、どうやらあたっていない。
海士剥の歴史はそう古いものはない。
今の西目川のことを尼崎川と読んでいたという記録がある。
この一ヶ月海士剥の歴史を調べている。
西目の歴史は、中世期には、潟保が中心でその後出戸も多くの記述があるが、全く海士剥は出てこない。年
初めて出てくるのが、菅江真澄の紀行文である。1784年9月30日海士剥を真澄は通過している。
菅江真澄が海士剥を本荘へ向かう為に川を渡ろうとした徳、見た目以上に深いため、ここでおぼれ死んだ旅人多数、地元民にを金を払っても水先案内をしてもらった方がいいとされている。海士剥に人が住んでいたかは定かではないが、年貢帳に海士剥というのは出てきていないので少なくとも農民は存在していないことは分かる。
1802年に伊能忠敬が西目を調査している。
本庄町外より砂原 尼剝村七軒 小川あり浅し 中小屋村家九軒 上小屋村七軒両村出戸支郷 出戸村家70軒 この時点では尼剝村である。
1867 海士剥の船沈没 2名死亡とあります。 やっと海士剥という名前がが出てきました。
1870現如上人が海士剥説法
明治14年戸数44戸 漁船36隻
明治22年戸数59戸
昭和14年戸数194戸
現在 戸数264戸
である。
さて、なぜ海士剥という集落ができたのだろう。
海士は男の漁師、剝はものを根こそぎうばいとるもの
よって 海賊?
などと思っていたが、どうやらあたっていない。
海士剥の歴史はそう古いものはない。
今の西目川のことを尼崎川と読んでいたという記録がある。
この一ヶ月海士剥の歴史を調べている。
西目の歴史は、中世期には、潟保が中心でその後出戸も多くの記述があるが、全く海士剥は出てこない。年
初めて出てくるのが、菅江真澄の紀行文である。1784年9月30日海士剥を真澄は通過している。
菅江真澄が海士剥を本荘へ向かう為に川を渡ろうとした徳、見た目以上に深いため、ここでおぼれ死んだ旅人多数、地元民にを金を払っても水先案内をしてもらった方がいいとされている。海士剥に人が住んでいたかは定かではないが、年貢帳に海士剥というのは出てきていないので少なくとも農民は存在していないことは分かる。
1802年に伊能忠敬が西目を調査している。
本庄町外より砂原 尼剝村七軒 小川あり浅し 中小屋村家九軒 上小屋村七軒両村出戸支郷 出戸村家70軒 この時点では尼剝村である。
1867 海士剥の船沈没 2名死亡とあります。 やっと海士剥という名前がが出てきました。
1870現如上人が海士剥説法
明治14年戸数44戸 漁船36隻
明治22年戸数59戸
昭和14年戸数194戸
現在 戸数264戸
である。