サルナシ採りは、このカントリー娘の年間ルーティンに刷り込まれました。
栄養価に非常に優れ、ビタミンCはレモンの約10倍、ショ糖・果糖・ペントース・アラビノガラクタン・ピロカテキン属のタンニン・ペクチンなどの他、タンパク分解酵素を大量に含むため、疲労回復、強壮、整腸、補血などの身体の働きを助ける効果があるといわれ、滋養強壮食品の超一級品として珍重されています。
自分は砂糖を入れません。
目覚めたら夜になっていました。すでに樺太の陸も何も見えない夜の海でした。ぼんやりと母や父、兄のことを思い出していました。心のほとんど全部が不安でいっぱいでした。夜が明けて陸が見えていきました。樺太の海岸でないことは明らかでした。海岸のすぐ地区まで森林が茂っています。海岸に沿ってのスロー航海。これが観光であったら本当に最高の風景であっただろう。
日が暮れて小さな港に入港しました。港と言っても桟橋もない船を横付けするだけの岸壁の港でした。後から、「ソフガワニ」という港だと聞かされました。
その日から重労働が始まりました。港に着いたソ連船から荷物を下ろしたり、また、荷物の積み込みの作業が毎日続きました。
9月の末頃になって留多加まで草刈り作業に連れて行かされました。25日ほど草刈り作業を行って、大泊に着いてびっくりです。ロシア人の火の不始末から火事になって市街地は焼け野原になっていました。大泊に着いてすぐに衣料支給がありました。支給された衣料はすべて防寒具でした。ロシア人は、私たちを東京に帰すと言っていたのに、内地に帰るのにどうしてこんな防寒具だけを支給したのか、みんな不信に思い始めていました。
翌日午後3時に貨物船に乗せられました。いよいよ内地に帰られると思っていました。五時頃大泊港を離れ、その夜は湾内に投錨して、夜明けの出発を待っているようでありました。嬉しいはずですが、なぜかみんな不安そうで、誰一人口をききません。夜明けと同時に船は出航しました。しばらくして利尻島と礼文島が見えてきました。その直後です船は北に進路を変えました。ぜんそくで樺太の西海岸を進み、本斗(現ネグエリス)を過ぎ、三歳から過ごした苫舞や真岡付近が遠くに見えました。どんどん樺太が遠ざかって行きます。船内でロシア人と将校との話し合いがあったようですが全く駄目のようでした。ぼんやりと遠くなる樺太を眺めている内に眠ってしまいました。これが最後のゆっくりした睡眠になるとは思いもよりませんでした。
続く
自分が東北福祉大の2年次に大学にキャンパスに行政研究所という公務員養成施設が設置された。試験で合格した12名の専用のスペースが与えられ机椅子が貸与され、公務員試験の為の問題集なども12名分書架にたくさん準備されていた。
私が昭和20年8月15日の終戦を迎えた時、樺太東海岸の大泊から30キロほど離れた三ノ沢という所におりました。私たちは、一期の初年兵教区を大泊の教育大隊を終えて三ノ沢で一期の検閲を受けるための訓練に日夜張り切っていた時でした。
終戦と同時に私共が大日本帝国軍隊の最後の初年兵になったのです。私共がソ連参戦を聞いたのは17日頃だと思います。後で分かったことですが実際に参戦したのは、8月8日だったそうです。連隊本部との連絡が取れなかった約10日議に私共の部隊に連絡が入ったのでした。
18日は朝早くからソ連兵の上陸に備えて陣地の構築に入ったのです。10時頃だと思いますが、土地の人がやってきて、日本はソ連にも降伏したというニュースを今聞いてきたと言いました。小隊長がそのニュースを確認したところ本当でありました。後は陣地も何も必要ありません。暗い気持ちで兵舎に戻りました。その晩は、無礼講で夜遅くまで酒宴が開かれました。
翌朝8時起床・点呼も終わり体操をしていると海上を2隻の軍艦が走っていました。和つぃたちのバート愛は海岸のすぐ近くにありました。小隊長が双眼鏡で確かめましたがどこの軍艦かは分かりませんでした。
朝食の準備を終えて、2階の自分の部屋の窓から外を見るとソ連兵が立っていました。手を上げて外へ出ろと言っているようでした。私共は朝食もとらずに大泊港に連れて行かれ15時頃大泊女子高等学校に収容されたのです。
続く
旧金浦町郊外で国道7号線沿いににかほ陣屋の手前にあります。
以前は、グランド大間に店を出していましたが、高速道路が開通してグランド大間は、閉鎖しています。その後、廃業したラーメン屋を改装して現在の場所に移転しています。ぐるなびでにかほ市のラーメン店で1位です。
酒田の月系ラーメンで平打ち縮れ麺で、魚だしあっさりスープとワンタンが売りです。
メニューはたくさんありますが、ピリ辛華月ワンタンがベストです。
ピリ辛華月ワンタンがベストです。
土曜日はサルナシを採った。追熟中だがもう食べられるものがある。