自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
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昭和の初めから終戦頃の樺太は豊かだった 

2020年09月01日 05時29分45秒 | Weblog

10年前に他界した父が、シベリア抑留から帰路につくまでの手記をまとめたいた。しかし、昭和6年に樺太に家族と入植して、中学校を卒業して志願兵になるまでの様子がよくわからなかったのでこの数年リサーチしてきた。

明治38年に日本領となった当時入植した人たちにとって、あまりにも厳しい自然状況から内地に戻る人が多かったが、樺太庁が設置され、南樺太という植民地経営は計画的に成し遂げられた。

樺太は、面積全体の8割を大自然林が覆い、林業、製紙業が隆盛を極めていた。また地下には、石炭・石灰石などの鉱物が眠り、近海は世界3大漁場に数えられるほどの水揚げを誇り、まさに陸・海ともに資源の宝庫であった。この夢のような新天地を求めて、本土から移住した日本人は約41万人。

大正12年(1923年)には、稚内から大泊(現サハリン・コルサコフ)間に連絡船が就航した。稚内桟橋は当時としては珍しい鉄筋コンクリート・タイル張りの2階建て。春先には樺太のニシン漁へ出稼ぎに行くヤン衆で待合室はあふれ返っていたという。ヤン衆がそのまま町に残る人も多かったようだ。

大正末期から昭和初期には、日本全国が鉄道で結ばれて旅行熱が高まり、樺太へのガイドブックも発行されていたほどだ。よって、昭和6年から終戦までの17年間父が小学校、中学校としっかり学業ができたのはその豊かさがあったからだろう。

樺太庁が設置されていたのは、豊原市であった。鉄路に沿って東西南北に整然と区画され、いまの札幌の街並みを思わせる美しい景観が広がっていた。駅を背にまっすぐ伸びる、現在の札幌の駅前通りにあたる通りは神社通り、そして交差するメインストリートは札幌と同様に大通りと呼ばれていた。豊原市、大泊市、真岡市が樺太の中心都市であり、父は真岡市の杉近くの苫毎というところで青年期まで生活していたことになる。何一つ不自由のない生活を送っていたようだ。

左前が母か?

昨年亡くなった母は、父と同年で、秋田県西目村で生まれ育ったようだが、生活はとても苦しかったようだ。

父が17歳で特攻隊になろうと海軍飛行部隊への入隊を志願したが、視力が悪く不合格となり、陸軍は合格し、訓練生として初期訓練を終えた8月15日に終戦を迎え、さらにはソ連侵攻が始まりシベリアでの強制労度の様子が赤裸々に綴られていた。

左から2番目が17歳で入隊したときの写真らしい。

筆で書かれた18ページの手記は、達筆で読み取るのが大変だが、文書に起こしてみたいと思う。

 

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