目覚めたら夜になっていました。すでに樺太の陸も何も見えない夜の海でした。ぼんやりと母や父、兄のことを思い出していました。心のほとんど全部が不安でいっぱいでした。夜が明けて陸が見えていきました。樺太の海岸でないことは明らかでした。海岸のすぐ地区まで森林が茂っています。海岸に沿ってのスロー航海。これが観光であったら本当に最高の風景であっただろう。
日が暮れて小さな港に入港しました。港と言っても桟橋もない船を横付けするだけの岸壁の港でした。後から、「ソフガワニ」という港だと聞かされました。
目覚めたら夜になっていました。すでに樺太の陸も何も見えない夜の海でした。ぼんやりと母や父、兄のことを思い出していました。心のほとんど全部が不安でいっぱいでした。夜が明けて陸が見えていきました。樺太の海岸でないことは明らかでした。海岸のすぐ地区まで森林が茂っています。海岸に沿ってのスロー航海。これが観光であったら本当に最高の風景であっただろう。
日が暮れて小さな港に入港しました。港と言っても桟橋もない船を横付けするだけの岸壁の港でした。後から、「ソフガワニ」という港だと聞かされました。
その日から重労働が始まりました。港に着いたソ連船から荷物を下ろしたり、また、荷物の積み込みの作業が毎日続きました。
9月の末頃になって留多加まで草刈り作業に連れて行かされました。25日ほど草刈り作業を行って、大泊に着いてびっくりです。ロシア人の火の不始末から火事になって市街地は焼け野原になっていました。大泊に着いてすぐに衣料支給がありました。支給された衣料はすべて防寒具でした。ロシア人は、私たちを東京に帰すと言っていたのに、内地に帰るのにどうしてこんな防寒具だけを支給したのか、みんな不信に思い始めていました。
翌日午後3時に貨物船に乗せられました。いよいよ内地に帰られると思っていました。五時頃大泊港を離れ、その夜は湾内に投錨して、夜明けの出発を待っているようでありました。嬉しいはずですが、なぜかみんな不安そうで、誰一人口をききません。夜明けと同時に船は出航しました。しばらくして利尻島と礼文島が見えてきました。その直後です船は北に進路を変えました。ぜんそくで樺太の西海岸を進み、本斗(現ネグエリス)を過ぎ、三歳から過ごした苫舞や真岡付近が遠くに見えました。どんどん樺太が遠ざかって行きます。船内でロシア人と将校との話し合いがあったようですが全く駄目のようでした。ぼんやりと遠くなる樺太を眺めている内に眠ってしまいました。これが最後のゆっくりした睡眠になるとは思いもよりませんでした。
続く