これは したり ~笹木 砂希~

ユニークであることが、ワタシのステイタス

やっと来られた! 吉野ケ里遺跡

2016年04月03日 21時34分04秒 | エッセイ
 吉野ケ里遺跡は、今から1800年前、弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)の吉野ケ里を復元したものである。



 2400年前、朝鮮半島南部から北部九州に稲作耕作が伝わり「生産」が始まった。食料生産が安定することによって、人口は増加し住居も増えたが、土地や水、貯蔵された穀物をめぐって争いが起きるようになる。やがて、それが組織的な戦いに発展したのだという。
 日本史を学んだのは高校生までだ。ウン10年も経っているので、穏やかな稲作王国というイメージを勝手に作っていた。無知とは恐ろしい。
 遺跡からは石鏃、銅鏃、石剣、鉄剣などが多数出土している。また、350体以上発見された人骨には、頭骨のない男性、材質の異なる10本の鏃(やじり)を射込まれた男性、剣の刺さったものなどがあり、戦いによる犠牲者が出ていたことがわかった。
 武器の倉を見ると、当時の戦い方が想像できる。





 また、敵の侵入を防ぐために逆茂木をめぐらせたり



 物見櫓から監視もしていたようだ。



 集落には様々な建物がある。
 大人(たいじん)の家。



 中にも入ることができる。



 主婦としては、煮炊屋の中が気になった。



 王の家は屋根が立派。



 倉は高床式で、ねずみ返しがついている。



 ひときわ大きな建物は主祭殿。指導者たちが話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りをささげたりしていたようだ。





 髪型に時代が表れている。



 部屋の隅に置かれた加湿器らしきものに、クスクス笑いをしてしまった。



 当時の衣装も展示されていた。



 上層人の衣装には絹、庶民の衣装には麻が使われていたそうだ。庶民の衣装を着るコーナーもあったが、あまりにも質素なので遠慮しておいた。上層人の衣装だったら着たかったのだが……。
 特に興味を引かれたものが「甕棺(かめかん)」である。これは、素焼きの土器を使った棺で、北部九州地域に特徴的な墓制らしい。



 埋葬された場所や配置、副葬品の有無や種類から当時の階層、社会制度を復元するのに役立つという。



 北墳丘墓は吉野ケ里を治めていた歴代の王の墓で、14基の甕棺が見つかっている。一般の墓と違って、ガラス製の管玉(くだたま)や青銅の剣などの副葬品が収められていたところから、身分の高さがうかがえるというわけだ。
 甕棺は2つ使用する。一つの甕棺に死者を収め、もう一つの甕棺を粘土でつなぎ合わせていた。



 北墳丘墓からさらに北上すると、一般庶民が葬られた甕棺墓列がある。





 血縁関係のある一族の集まりが、20mから40mごとにひとかたまりになっていて、死んだ後も一緒にいられるのだ。埋葬したあとは土まんじゅうで目印を作ったという。



 甕棺墓は、現在3500基以上が発見されているが、未発掘の区域も多いため、膨大な数が地下に埋まっているそうだ。
 夢中で見ていたら、お昼の時間になっていた。レストランで「吉野ケ里御膳」をいただいた。



 あっさりしていて品数も多く、どのおかずも美味しかったので、おススメしたい。
 満足して帰路についた。
 ところが、この日の夜から、丑三つ時になると目が覚めることが続いた。長いことお墓を見ていたので、何かがくっついてきたのかもしれない。3日後からはぐっすり眠れるようになったが、レジャー気分で見て回り、死者への配慮が足りなかったことを反省する。
 安らかな眠りを妨げないように、静かに静かに見学してください。


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コメント (8)
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