今日(5月23日の土曜日)、「論理」というモノを実感した。
以下は、その過程的な事実からである。
事の始まりは、一昨日の木曜日の夜の息子と家内の約束からである。
その約束とは、金曜日の午後に二人一緒に買い物に行く事、であった。
そして、金曜日の当日の午後、
家内の帰りが遅い事を、息子が私に尋ねてきた。
以下が、その時の会話である。
息子―「ママ、まだ帰ってこないの?」
私―「ママは、マミー(家内の姉)とランチ!帰りは未定!だって…」
息子―「………沈黙………」
息子―「僕のマミーの対する想いとママの想いは違うんだね…」
私―「それはそうだよ!」
私―「俺の××(従兄弟)への想いと○○(息子)への想いも違うでしょう。
(××は息子と同性・同学年の従兄弟)」
………
次の日―土曜日の朝に…
ふっと、気付いた私は息子に以下の事を伝えた。
私―「昨日話した、××と○○の話の例え…少し違っていたかも…」
私―「○○は、○○とママの、マミーへの想いが違うと、言っていた。」
私―「それを、パパは、パパの○○と××への想いが違う、と例えたね。」
私―「これって少し違っていた。正しい例えは~」
私―「パパと○○の、××への想いは違っている……」
…………
上記は、私が、息子の事実・言葉から、
論理的に同一的な事実・例え(と思った事)を語った、という事である。
初めに私は、息子の言葉から以下の論理を見て取った。
「対象との関わり方が違っているから、その対象への認識・感情・想いが違う」
しかし、次の日に、息子の言葉は以下の論理であった事に気付いた。
「同一対象への想いは、人によって異なっている。」
これは、私が息子の言葉の
「同一対象」を「二つの対象」として、
「人によって」を「私」と限定してしまった。
二人の人間の、同一対象への想いは「異なっている」
息子の思っている「異なっている」理由を、
私の思った「異なっている」理由に、変えてしまっている。
「異なっている」理由を「関わり方が違う」と限定した。
しかし、「異なっている」理由には、関わっている人の個性の違いもあり得る……
そもそも…
息子の言葉は、彼のどのような感情・思いから出たモノなのだろう?
まだ…直接、息子に聞いていないが…
想像するに、息子は以下のように思ってのだろう。
母親に約束を破られた息子は、
『自分だったら、例えマミーからランチに誘われても、ママとの約束を守る!』
『……でも▲▲(付き合っている彼女)から誘われたら…どうだろう?』
そんなこんな違い方から~
『マミーだと断る!!!だけど、▲▲だと???とは…』
『僕のマミーへの想いとママの想いの違い!?』
以上から言える事は、
言葉だけから、論理を見て取る時の難しさ…
この言葉の裏にある現実をしっかり見て取る必要がある。
そこには、「論理レベル」というモノ…が考えられる。
息子の言葉から
私は、「対象への関わり方が違うから想いは異なる」理解して、
関わる対象を二つ、関わる人を一人、として例えを考えた、
それでも、論理としては、
「関わり方の違い・想いの違い」と同一であろうが…
以下は、今日5月24日に書いている。
論理として同一とは…
人間は、対象によって、関わり方違うので、結果的に、
その人間が、関わったその対象に対する、その想いは違う。
人間は、一人一人対象に対する関わり方が違うので、
同一対象であっても、人間一人一人の対象に対する想いは違っている。
同一人物への想いは、人それぞれである。
同一人物であっても、異なった人物への想いは違う。
私は、初めに、
私は、息子の言葉を誤解して、
そこから、ピント外れな例えを出し、
でも、次の日、その事に気付き、
ピントが一致した、例えを出している、…という事である。
でも、しかし…
昨日(23日)、息子に、マミーへの想いについて尋ねたら、
息子曰く、
「…そこまで深く考えてなかった。」
「ただ…兄弟(姉妹)のいない…」
「一人っ子の僕には、ママのマミー・姉に対する想いは分からない…」
結局、息子は、
想いが違っていた理由・過程=関わり方の違い、ではなく、
ママのマミー・姉への想いは、
僕のマミー伯母さんへの想いとは違う、であり、
一人っ子の僕には、
兄弟・姉妹への想いは、分からない…
と言いたかった…。