朝食用意時の話
先々週の朝の事である。
いつものように冷蔵庫の中の材料を使って、
いつもの朝食の用意を始めた。
初めに~お椀とスプーンをテーブルに置いて、
冷蔵庫から以下のモノを次々と取り出してお椀に入れた。
ヨーグルト、豆乳グルト、
茹で小豆、二種類のジャム、
ココアの粉末、小麦ハイガ、
ひとくちプルーン、種抜きデーツ、
長命食、粉末青汁、黒ニンニク、
オーガニック・オートミール…
この後に、豆乳とエゴマ油を入れようと思いつつ…
一息ついて、全体的に眺めたら時~以下のようなでき出来事があった。
『う~ん…なんか違和感・変?!』
『うん~何か足りない!?』
『そうか茹で小豆がない!』
そこで冷蔵庫を開けて、茹で小豆の入っている(中身の見えない)お椀を見た時…
『そうか…さっき、このお椀をみて、昨日中身が無くなりそうで、今日茹でようと思い小豆を水に付けていた』事に気付き…
そして『今日は出かけるので時間があまりない、今すぐ茹で始めよう!』と思いそうした。…
その後、この『小豆を入れよう目的が解消れ…小豆を入れずに次へ進んだ』事に気付いた。
引き続きオリーブオイル、蜂蜜、秋ウコンの粉末、スーパーオータカを入れて、
電子レンジで一分間「チン」した。
事実的な記述は以上!
私は、上記のような事実の過程に「もどき像」そして「問いかけ的認識」を見て取った。
現実の時系列で書くなら、
初めに冷蔵庫から茹で小豆を取り出そうとした時、
見た、中身の見えないお椀から「昨日見た少なっている茹で小豆」像。
見えない対象を昨日の記憶(擬き像)」でみた。
そして眼前のお椀の中身を確認して、茹で行動を始めた。
次に一段落しして全体を見た時に感覚した
『う~ん…なんか違和感・変?!』…
この違和感の原因は~
その時私の頭脳には、昨日までのいつもの「朝食像(もどき像)」があった。
その擬き像と今日の眼前の朝食を比べていたから、この違和感が生じた、のだろう。
でも…不鮮明な擬き像であったから…
次の『うん~何か足りない!?』という問い掛けが発生して、
やっと『そうか茹で小豆がない!』という事に気付けた…のだろう。
もどき像とは「外界の反映ではあるが、しっかりとした反映ではない」
初めの「見えないお椀の中身像」は、昨日の像であり、新鮮・鮮明とは言い難かった、だから実際に確認して行動。
また、次の「昨日までのいつもの朝食像」も不鮮明であった、だから「問い掛けがあって初めて小豆に気付いた」。
以上の事実的体験から、私が思った事は…
人間には、必ず、一瞬前までのまでの「もどき像」がある。
もっとも…あっても像を想起できない・描けない「もどき像」も(像はないのに)あり得る。…
言うなれば、視覚像無き、感情的な像なのだろう…
そして人間は、眼前の現実・対象の認識と同時に、
今までの対象に関連する「もどき像」を描いてしまう…のだろう。
この「関連」とは、その当人が「関連」として認識してモノだから…
他の人にとって「関連」とは限らないが…
問いかけ的認識が発生するのは、
この現実の外界「反映像」と頭脳内の内界「もどき像」の相克の発生があるからでろう。
ここで、今回の私のように~
眼前の現実の朝食を「足りない朝食」と認識して、「観念像に合わせて」茹で小豆を加えたなら「観念(論)的行動」。
昨日の残り少ない小豆(事実)に気付き、茹で始めたのは、「唯物(論)的行動」。
今の現実を過去の記憶・脳内の事実にあわせるなら、観念論的?
今の現実を合理的な未来向けて変えてゆくなら、唯物論的?
合理的とは、現実に対しての「合理的」(合理的な現実)なら、唯物論的?
自分自身の目的達成の為の「合理的な自分の未来」に向けての行動なら、観念論的?
先々週の朝の事である。
いつものように冷蔵庫の中の材料を使って、
いつもの朝食の用意を始めた。
初めに~お椀とスプーンをテーブルに置いて、
冷蔵庫から以下のモノを次々と取り出してお椀に入れた。
ヨーグルト、豆乳グルト、
茹で小豆、二種類のジャム、
ココアの粉末、小麦ハイガ、
ひとくちプルーン、種抜きデーツ、
長命食、粉末青汁、黒ニンニク、
オーガニック・オートミール…
この後に、豆乳とエゴマ油を入れようと思いつつ…
一息ついて、全体的に眺めたら時~以下のようなでき出来事があった。
『う~ん…なんか違和感・変?!』
『うん~何か足りない!?』
『そうか茹で小豆がない!』
そこで冷蔵庫を開けて、茹で小豆の入っている(中身の見えない)お椀を見た時…
『そうか…さっき、このお椀をみて、昨日中身が無くなりそうで、今日茹でようと思い小豆を水に付けていた』事に気付き…
そして『今日は出かけるので時間があまりない、今すぐ茹で始めよう!』と思いそうした。…
その後、この『小豆を入れよう目的が解消れ…小豆を入れずに次へ進んだ』事に気付いた。
引き続きオリーブオイル、蜂蜜、秋ウコンの粉末、スーパーオータカを入れて、
電子レンジで一分間「チン」した。
事実的な記述は以上!
私は、上記のような事実の過程に「もどき像」そして「問いかけ的認識」を見て取った。
現実の時系列で書くなら、
初めに冷蔵庫から茹で小豆を取り出そうとした時、
見た、中身の見えないお椀から「昨日見た少なっている茹で小豆」像。
見えない対象を昨日の記憶(擬き像)」でみた。
そして眼前のお椀の中身を確認して、茹で行動を始めた。
次に一段落しして全体を見た時に感覚した
『う~ん…なんか違和感・変?!』…
この違和感の原因は~
その時私の頭脳には、昨日までのいつもの「朝食像(もどき像)」があった。
その擬き像と今日の眼前の朝食を比べていたから、この違和感が生じた、のだろう。
でも…不鮮明な擬き像であったから…
次の『うん~何か足りない!?』という問い掛けが発生して、
やっと『そうか茹で小豆がない!』という事に気付けた…のだろう。
もどき像とは「外界の反映ではあるが、しっかりとした反映ではない」
初めの「見えないお椀の中身像」は、昨日の像であり、新鮮・鮮明とは言い難かった、だから実際に確認して行動。
また、次の「昨日までのいつもの朝食像」も不鮮明であった、だから「問い掛けがあって初めて小豆に気付いた」。
以上の事実的体験から、私が思った事は…
人間には、必ず、一瞬前までのまでの「もどき像」がある。
もっとも…あっても像を想起できない・描けない「もどき像」も(像はないのに)あり得る。…
言うなれば、視覚像無き、感情的な像なのだろう…
そして人間は、眼前の現実・対象の認識と同時に、
今までの対象に関連する「もどき像」を描いてしまう…のだろう。
この「関連」とは、その当人が「関連」として認識してモノだから…
他の人にとって「関連」とは限らないが…
問いかけ的認識が発生するのは、
この現実の外界「反映像」と頭脳内の内界「もどき像」の相克の発生があるからでろう。
ここで、今回の私のように~
眼前の現実の朝食を「足りない朝食」と認識して、「観念像に合わせて」茹で小豆を加えたなら「観念(論)的行動」。
昨日の残り少ない小豆(事実)に気付き、茹で始めたのは、「唯物(論)的行動」。
今の現実を過去の記憶・脳内の事実にあわせるなら、観念論的?
今の現実を合理的な未来向けて変えてゆくなら、唯物論的?
合理的とは、現実に対しての「合理的」(合理的な現実)なら、唯物論的?
自分自身の目的達成の為の「合理的な自分の未来」に向けての行動なら、観念論的?