「以下がどういう事」の話
>あると思って始めるから、一向にうまくいかない。
>ゼロからと一からの違いが分からなければどうしようも無い。
>分かるかなあ?分かんないだろうなあ
「零からの出発」とは、現実に打倒されて…『俺はダメだ!無力だ!』…そんな状態からのスタート…
「壱からの出発」とは、「今はできない俺でも…できる!やれば出来る!」…そんな状態。
「壱から出発」して厳しい現実に打ちのめされて…「俺はダメ!もうダメ!」が「零地点からの出発」…
零地点では、自力が零!
だから「巨人・他人の背中を借りて・乗って(その自覚を持って)立ち上がる」
「自由からの出発ダメ!」なら「他由からの出発もアリ!」が、人類だの特権・能力だ!
以下はオマケ言説!
元々商売人の父は、テーラー・宝飾店・弁当屋・回転すし…と色々と商売変えしていた。
結局、どれも旨くいかず…
他人から億単位の借金をして、パチンコ商売を始めた。
そして、一時、借金を全て返済して、数千万の豪邸?を立てた。
その後、不景気になり、赤字続きになり、貯金が亡くなる前に、商売変えをした。
商売人としてのカン・コツ、強い意志を持ち、何より商売が好きだった父。
金儲けが好きなのではなく、儲かる程の商売繁盛が楽しかった父。
パチンコを始める資金はゼロ。
でも、他人から数億の金を借りられる程の信用があった。
お金のある・ないは、実物・実体だから見える。
才能のある・ないは、認識・機能だから見えない。
「才能はある・俺は出来る!」と公言する者…本当だろうか?!、
初めての事を始めて上手くいく人は、他人のマネ・他人を見習えるからだろうか…
「才能はない・俺はできない…」と公言しつつ、物事が上手くいかない人は、
他人のマネができない・見習えないモノ。
「俺はできない・才能がない」という者は、
そのような出来ない「自信がある」からダメなのだろう。
「俺は出来る!」と自信タップリで公言したなら…
どんな手段・他人のマネしてまで「やったやる!」モノなのだろう。
分かった!~~「無知の智」を識った。
「零と壱」の違いは「知っていても」…
その違いを「識らない事」を知らない事、を知った状態が「無知の智」
自分が、その事を「知っていても・識らない事を知る」が「無知の智」
知っていても、まだ識らない!
事実的に知っていても、論理的には識らない。
商売したい(商魂ある)のに、始める金がないなら、他人から借金して、商売しよう!
成功を知っている・成功したい(思いある)のに、方法が分からないなら、他人の知識・経験を借りよう!
「知る」と「識る」の相違は以下↓~
↓以下はネットからの転写!
「知る」は、知識のない状態から知識のある状態へと認知状態を変化させることです。人から聞いたり自分で調べたりなどして新たに得ることを表します。

「識る」は、頭に納められ、培うものです。物事の道理を知ること、道理を分別すること、見識をもっていること、知り合っていることなどを意味します。

佐々木常夫コラム 「知る」と「識る」は違う
2011/07/11 — 「知る」は単に「見た」「触れた」というだけで一瞬は頭に入ってもすぐに消えてしまう可能性があるが「識る」は頭に納められ、培うものである。
佐々木常夫
今~「1から始めると失敗する〜ゼロから始めなければならない根本的理由〜」を読んだ!
一つ気付いて事は以下である。
「壱」には、色々とある!
子供が「壱」から、青年も「壱」、老人の「壱」。
空手現役時代の私の「能力・体力」も「壱」なら、
今の体力・能力も「壱」…
「壱」は『壱」でも、その中身の「壱」が違う。
しかし、全ての「零」は「無」…何もない!
何もない事で、全てが同じ!
>あると思って始めるから、一向にうまくいかない。
>ゼロからと一からの違いが分からなければどうしようも無い。
>分かるかなあ?分かんないだろうなあ
「零からの出発」とは、現実に打倒されて…『俺はダメだ!無力だ!』…そんな状態からのスタート…
「壱からの出発」とは、「今はできない俺でも…できる!やれば出来る!」…そんな状態。
「壱から出発」して厳しい現実に打ちのめされて…「俺はダメ!もうダメ!」が「零地点からの出発」…
零地点では、自力が零!
だから「巨人・他人の背中を借りて・乗って(その自覚を持って)立ち上がる」
「自由からの出発ダメ!」なら「他由からの出発もアリ!」が、人類だの特権・能力だ!
以下はオマケ言説!
元々商売人の父は、テーラー・宝飾店・弁当屋・回転すし…と色々と商売変えしていた。
結局、どれも旨くいかず…
他人から億単位の借金をして、パチンコ商売を始めた。
そして、一時、借金を全て返済して、数千万の豪邸?を立てた。
その後、不景気になり、赤字続きになり、貯金が亡くなる前に、商売変えをした。
商売人としてのカン・コツ、強い意志を持ち、何より商売が好きだった父。
金儲けが好きなのではなく、儲かる程の商売繁盛が楽しかった父。
パチンコを始める資金はゼロ。
でも、他人から数億の金を借りられる程の信用があった。
お金のある・ないは、実物・実体だから見える。
才能のある・ないは、認識・機能だから見えない。
「才能はある・俺は出来る!」と公言する者…本当だろうか?!、
初めての事を始めて上手くいく人は、他人のマネ・他人を見習えるからだろうか…
「才能はない・俺はできない…」と公言しつつ、物事が上手くいかない人は、
他人のマネができない・見習えないモノ。
「俺はできない・才能がない」という者は、
そのような出来ない「自信がある」からダメなのだろう。
「俺は出来る!」と自信タップリで公言したなら…
どんな手段・他人のマネしてまで「やったやる!」モノなのだろう。
分かった!~~「無知の智」を識った。
「零と壱」の違いは「知っていても」…
その違いを「識らない事」を知らない事、を知った状態が「無知の智」
自分が、その事を「知っていても・識らない事を知る」が「無知の智」
知っていても、まだ識らない!
事実的に知っていても、論理的には識らない。
商売したい(商魂ある)のに、始める金がないなら、他人から借金して、商売しよう!
成功を知っている・成功したい(思いある)のに、方法が分からないなら、他人の知識・経験を借りよう!
「知る」と「識る」の相違は以下↓~
↓以下はネットからの転写!
「知る」は、知識のない状態から知識のある状態へと認知状態を変化させることです。人から聞いたり自分で調べたりなどして新たに得ることを表します。

「識る」は、頭に納められ、培うものです。物事の道理を知ること、道理を分別すること、見識をもっていること、知り合っていることなどを意味します。

佐々木常夫コラム 「知る」と「識る」は違う
2011/07/11 — 「知る」は単に「見た」「触れた」というだけで一瞬は頭に入ってもすぐに消えてしまう可能性があるが「識る」は頭に納められ、培うものである。
佐々木常夫
今~「1から始めると失敗する〜ゼロから始めなければならない根本的理由〜」を読んだ!
一つ気付いて事は以下である。
「壱」には、色々とある!
子供が「壱」から、青年も「壱」、老人の「壱」。
空手現役時代の私の「能力・体力」も「壱」なら、
今の体力・能力も「壱」…
「壱」は『壱」でも、その中身の「壱」が違う。
しかし、全ての「零」は「無」…何もない!
何もない事で、全てが同じ!
『1から始めると失敗する〜ゼロから始めなければならない根本的理由〜』として、その背後の自身の認識を書いています。ご一読いただければと思います。
オマケとして掲げておられるお父上の逸話、最高ですね。素晴らしい方と。
何事も結果だけを追うのではなしにその過程を楽しめれば最高ですね。
嘉納治五郎の修業・修行観に通ずるものがあると思えます。
「その背後の自身の認識を書いています。ご一読いただければと思います。」
↑
この「思います」コメントありがとうございます。
>それに対しては、端的には、森羅万象すべての大元の「モノ」の性質がそうであるからと言える、と思う。
そもそも、と大上段に振りかぶれば、この世界は「モノ」の変化・運動したものである。あるものが変化し、運動して別のものになり、その別のものがまた変化し、運動して、そのまた別のものになる......。この「モノ」の、無限の過去から無限の未来への、永遠の変化運動が、この世界・宇宙の実体・実態である。
それゆえに、あるものの誕生( = 原点)は同時に、それ以前の段階の消滅である。というのが唯物論の立場の世界観である。
それゆえの、「何事も1からではだめでありゼロから(=1になっていくものから)のスタートでなければ、まともにはなっていかない。」ということである。
それが、「1から始めるのはダメで、ゼロから始めなければならない」ということの根本的理由である。
では、観念論の立場ではどうなるのであろうか?ということが当然に問題とされよう。
端的には、観念論の場合は最初から観念なるものがあって、そこから全てが始まるのだから、観念というものの誕生は考えなくても良いという前提なのであるから、1からで良いということになる。<
↑~
「ゼロからではなく」…「壱になっていくモノから」ですね…
確かに、言われてみれば…この世界に絶対的な「無・ゼロ」はないですね…
確か、
「ない事は『ない』!」…
「ない事が『ある』!」
でしたね…
私の言説は、「自由びと観念論」ですかね!
観念論の「壱」とは、自由びと観念ですかね…
自分の言説が、自由びと観念論的と自覚して~
素直に積極的に真面目に他人の言説との相互浸透を実行~
それは、他人の言説の裏にある「他人の事実」と私の持論との相互浸透…
「壱になっていくモノ」とは~
「いのちの歴史」の過程で考えるなら
生命現象は、単細胞からみれば「単細胞になっていくモノ」=単細胞ではないモノ(ゼロ)。
それでも、生命現象としては「壱」
多細胞体からみれば「単細胞は壱(多細胞体)になっていくモノ」。
単細胞は、多細胞としては「ゼロ」でも、細胞としては「壱」。
これって~「二律背反・絶対矛盾」です…かね!
「今を壱」とするなら…
「壱の過去」には、今の「壱」に「なっていくモノの過程」がある。
空手の初心者が、黒帯を目標としたなら、「黒帯が壱」となり、
初心者は、例え社会人としては「壱」でも、空手家としては「ゼロ」。
ゴールを「壱」とするなら、スタートは「ゼロ」。
新たな始まり・スタート時は、ゴールに対して「ゼロ」と言えるのだろう。