現実界をみるなら~
肉眼で直接見られるのは、今はこの瞬間だけ、だろう。
我々が、八ミリフィルム映画を見る時、
スクリーンでスムーズに流れ変化する映像が一連の運動として認識できる。
運動とは、運ばれ動く事・位置が変化する事。
フィルムの位置は変化しない。
ただ一枚一枚のフィルムが映し出されているだけである。
その一枚一枚の連続を見た人が頭脳内で「運動・動いている」と認識しているだけである。
我々が「走っているイヌ」の姿を見ている時、
頭脳内の残る今この瞬間の次から次への「イヌの姿」を記憶し…
それら一つ一つの像を同じイヌの連続の姿として認識した時、それを「変化・運動」と表現している。
現実界のどこにも、事実としての「変化・運動」は存在しない。
存在するのは、今この瞬間を事実・像である。
あるモノの姿・変化した像を、同一のモノであると認識するのにも、それなりの実力が必要であろう。
また、一つ一つの記憶像を連続体として捉えるのにも実力が必要であろう。
ある人物の生誕から大人までの一枚一枚の写真を、成長の流れに即して並べ直す作業は、その人物の全く知らない人にとっては難しい。ましてや他人の写真が混じった一枚一枚なら殆ど至難であろう。