「絶対矛盾」コメントの実例
以下は、記事「分かった!絶対矛盾」へのお宅コメントである。
このコメントに書かれた言葉・認識と雲海の行為は
絶対矛盾していると感じて、ここに記事にした。
Unknown (雲海) 2023-02-11 12:11:55
>「自由びとさんのコメントを否定するつもりはありません。」
と書かれているが…
雲海の行為―他人である自由びとブログに反論を自分から進んでコメントを寄越した時点で「否定」になり得る。
本当に否定するつもりのない人々なら「否定するつもりはありません」とは書き込まないだろう…。
何故なら、自由びとは、他人の意見も持論も異論も共感…
他人の中を求めて書いていない、から…
だから、「ここは自由びとの精神世界」と言い切っている。
もっとも…求めてはいないが、自ら進んでコメントを寄越してくれる事には感謝している。
確かに、互いの議論・討論の中でなら、
自分の見解として「否定するつもりはありません」と言い切る事はありえる。
しかし、この議論・討論の場ではない、
自由びとブログに雲海持論の展開という行為そのものが「否定」と捉えられる。
この雲海のコメント記述・認識は「否定するつもりはありません。」であるが、
その雲海のコメント投稿した行為が「否定」となり得る。
「否定するつもりがない認識」で「否定する行為」の連続」を「絶対矛盾」と言わずに何と言う?!
>私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。
↑
反論コメントの連続書き込みが「強引な反逆」と書かずになんと書く?
度重なる反論・異論コメントの連続で」ありならも…
「強引な反逆には少し年齢を重ねて…」とは、
ここでも認識と行為の絶対(的)矛盾。
「
>「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。
↑
雲海自身の言動の矛盾に気付けずに、雲海自己正当化・自己美化の連続…
何の為に、この「自由びとブログ」を読み続けているのか?
その当初の目的and時々の目的意識は何のだろうか?
>乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。
↑
そうでしょうか…
人間関係のしがらみ・苦しみに囚われない生き方・自由に憧れが無くはない…ですが…
また、会社・社会・相手と約束・拘束に縛られない日々自由にも…
乞食ではないですが…
職業人を止めて、ホームレスに転身する人達のいますよね。
>解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)
↑
「馬鹿に付ける薬はない」如く「雲海お宅に書くべき言葉なし」
南郷氏の述べた言葉である「学歴コンプレックス」を、
雲海認識で「解れば解ってくるほど」、南郷氏の「学歴コンプレックス認識」から遠ざかっているのに…
なのに、雲海自身は「解れば解ってくるほど」に解かったつもりになって、書いている。
ここで言葉ではない、二者の「学歴コンプレックス」の認識・像を見た時、
雲海お宅と南郷氏とでは、その認識・像の一致はない…
なのに…雲海は「南郷氏の言葉」として学歴コンプレックス」を引用している。
他人の言語・認識・概念と自己の言葉・認識・概念の一致について…
この雲海お宅は、
他人の言語と自己の言語の一致が、
他人と自己の認識・概念の一致として確信している(本来は誤解・誤信なのに…)。
この場合の雲海お宅の認識と外界(南郷氏認識)は「絶対(的)矛盾」。
雲海氏が、南郷氏の引用ではなく、
雲海自身の「学歴コンプレックス」と言い切っていれば…
この「矛盾の発生」は無かったからである。
人間が、どんなに頑張って努力しても、
絶対に止められない阻止できないから矛盾だから「絶対矛盾」なのだろう。
もっとも…
他の人なら、上記のこのような事は「絶対的矛盾」であろうが…
馬鹿は死んでも治らない的なお宅だから、
「絶対矛盾」とい確信して言い切っても間違いはない…だろう。
↑~
さてさて~
上記の私的な記述・認識・像とお宅の実体は~
「絶対真理」?「絶対的矛盾」?「絶対矛盾」?
以下は、記事「分かった!絶対矛盾」へのお宅コメントである。
このコメントに書かれた言葉・認識と雲海の行為は
絶対矛盾していると感じて、ここに記事にした。
Unknown (雲海) 2023-02-11 12:11:55
>「自由びとさんのコメントを否定するつもりはありません。」
と書かれているが…
雲海の行為―他人である自由びとブログに反論を自分から進んでコメントを寄越した時点で「否定」になり得る。
本当に否定するつもりのない人々なら「否定するつもりはありません」とは書き込まないだろう…。
何故なら、自由びとは、他人の意見も持論も異論も共感…
他人の中を求めて書いていない、から…
だから、「ここは自由びとの精神世界」と言い切っている。
もっとも…求めてはいないが、自ら進んでコメントを寄越してくれる事には感謝している。
確かに、互いの議論・討論の中でなら、
自分の見解として「否定するつもりはありません」と言い切る事はありえる。
しかし、この議論・討論の場ではない、
自由びとブログに雲海持論の展開という行為そのものが「否定」と捉えられる。
この雲海のコメント記述・認識は「否定するつもりはありません。」であるが、
その雲海のコメント投稿した行為が「否定」となり得る。
「否定するつもりがない認識」で「否定する行為」の連続」を「絶対矛盾」と言わずに何と言う?!
>私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。
↑
反論コメントの連続書き込みが「強引な反逆」と書かずになんと書く?
度重なる反論・異論コメントの連続で」ありならも…
「強引な反逆には少し年齢を重ねて…」とは、
ここでも認識と行為の絶対(的)矛盾。
「
>「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。
↑
雲海自身の言動の矛盾に気付けずに、雲海自己正当化・自己美化の連続…
何の為に、この「自由びとブログ」を読み続けているのか?
その当初の目的and時々の目的意識は何のだろうか?
>乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。
↑
そうでしょうか…
人間関係のしがらみ・苦しみに囚われない生き方・自由に憧れが無くはない…ですが…
また、会社・社会・相手と約束・拘束に縛られない日々自由にも…
乞食ではないですが…
職業人を止めて、ホームレスに転身する人達のいますよね。
>解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)
↑
「馬鹿に付ける薬はない」如く「雲海お宅に書くべき言葉なし」
南郷氏の述べた言葉である「学歴コンプレックス」を、
雲海認識で「解れば解ってくるほど」、南郷氏の「学歴コンプレックス認識」から遠ざかっているのに…
なのに、雲海自身は「解れば解ってくるほど」に解かったつもりになって、書いている。
ここで言葉ではない、二者の「学歴コンプレックス」の認識・像を見た時、
雲海お宅と南郷氏とでは、その認識・像の一致はない…
なのに…雲海は「南郷氏の言葉」として学歴コンプレックス」を引用している。
他人の言語・認識・概念と自己の言葉・認識・概念の一致について…
この雲海お宅は、
他人の言語と自己の言語の一致が、
他人と自己の認識・概念の一致として確信している(本来は誤解・誤信なのに…)。
この場合の雲海お宅の認識と外界(南郷氏認識)は「絶対(的)矛盾」。
雲海氏が、南郷氏の引用ではなく、
雲海自身の「学歴コンプレックス」と言い切っていれば…
この「矛盾の発生」は無かったからである。
人間が、どんなに頑張って努力しても、
絶対に止められない阻止できないから矛盾だから「絶対矛盾」なのだろう。
もっとも…
他の人なら、上記のこのような事は「絶対的矛盾」であろうが…
馬鹿は死んでも治らない的なお宅だから、
「絶対矛盾」とい確信して言い切っても間違いはない…だろう。
↑~
さてさて~
上記の私的な記述・認識・像とお宅の実体は~
「絶対真理」?「絶対的矛盾」?「絶対矛盾」?