2012年11月23日
「言葉で考える」を考えることを通して~「考える」について考える~
前々回、「考える」について考えたが…なかなか上手くいかなかった…
これは、「考える」を直接に考えようとした為だと思われる…もっとも…だと私の能力不足もあるが…
そこで、今回は「言葉で考える」を考えることを通して、媒介的に「考える」を考える試みをしてみた。
先ずは、「言葉で考える」を、「言葉」、「で」、「考える」、の三つの部分=単語に分解して、考え始めることにする。
言葉ーー① 人が自分の考えや気持ちを 伝える手だてとしての、音声や文字。② 単語や句など、①の要素となるもの。③ 実際に言われたことがら。
で(格助詞)ーー(色々な意味と使い方があるが、ここでは、)、何かをする。手段や方法を表わす。である。
考えるーー① 知っていること。感じたことに基いて頭を働かせること。特に筋道を立てて頭を働かせること。② 工夫して、つくり出す。
「考える」とは、「筋道を立てて」なので、先ず第一は言葉の意味を辞書で確認した。
次に第二は、私の「知っていること、感じたこと」となるのだろう~
言葉について過去に読んだ書物に以下のように書かれていた。
「対象⇔認識→表現=言葉」…
言葉とは~人間が対象とする「何か」と関わり、その「何か」から認識した「何か」を表現するのに用いた表現手段である。
ここで「認識」という言葉が出てきた。
次に、認識とは像である。と繋がってゆく。
そこで、「像」について考えてみることにする。
では、「像」とは何か?ということになろう~
この「像」については理解を辞書的意味に頼っては、ここでは…ほとんど役に立たないので…
そので、『”夢”講義』に書かれていた「像」についての言葉を引用することにする。
『”夢”講義』(第四巻)P121~引用
……引用開始……
ここで「像」というものは、直接的には脳に描かれた(反映させられた)ものである。もっと説くなら、外界が感覚器官を通して脳の中に反映させられた(描くことになった)一種の”画(絵)もどき”です。
簡単にはこれが弁証法的唯物論の立場からなる「像」の過程性を持った説明(定義)です。これを弁証法的唯物論では「像」というのです。
……引用終了……
「言葉で考える」とは、ある「言葉」を聞いた見たり読んだりして、その言葉から考えるということだろうか…
ここで~「対象⇔認識→表現=言葉」から考えて、その言葉の裏には、その言葉で表現された(ある人の)認識があり、その奥には(ある人が認識した)対象がある。という事であろう…
対象が現実の存在である時、それは無限に連続的に互いに関わりあいながら変化・運動しているものである。
その対象を、人間はある瞬間のその対象のある一部分だけを認識するのである。
その認識を的確に言葉で表現できたとしても、それは現実に存在している対象の一部分にしか過ぎないのである。
そんな現実のある対象の一部分を表現している言葉で考えても、その対象全体を知ることは至難の技なのだろう…
では…どうすれば…自分に見ることの出来ないその対象全体を知ることが出来るのだろうか?
それも…やはり言葉を頼りにするしか無いのだろう…なにしろ自分には見え無いのだから…
ただし~それは、人を選び、言葉を選ぶこと。
う~ん…
言葉で~ここまで考えてきたが…言葉で考えるのは、この辺が限界かな?!
どんなに多くの言葉を書き続けても、現実の事物の変化・運動を一瞬一瞬を書き綴ることは不可能である。
しかし、体験した事実なら、その体験者に認識論的能力があれば、言葉で表現しきれなくても、認識は出来ているのだろう。
対象の瞬間瞬間を認識したものが「像」であり、その「像」の連続もまた「像」なのである。
その対象の変化・運動の連続した像が描けていれば、ある言葉とある言葉の間の言葉で表現しきれて無い部分を補うことが出来るのだろう。
以上を私の頭の中で私なりに纏めて「言葉で考える」とは?以下に書いてみた。
言葉で考えたからといって、頭の中に像が無い訳では無いのだろう。
これまでの思考過程ををみても、ある言葉に、私なりの像を思い浮かべて、その像をもとに考えて来ているのであるから…
言葉で考えていても像は描けているのなら、「言葉で考える」と「像で考える」とは同じものなのだろうか?
ここでの違いは、言葉で考えることで、その対象の全体像が描けているか!であろう…
ここで、さらなる問題が…「全体像」とはどのようなものであるか?
今、目の前にパソコンがある。
パソコンとは液晶画面があり、キーボードがあり、電気を使って…と説明しても小型パソコンを見たことの無い人物には正しく像を描けて頂けないだろう~
しかし、パソコンの形は描けなくても、説明の仕方で、私がどのようにパソコンを利用しているかは分かってもらえるのだろう~
この場合、パソコンの色、形…では無く、その利用法の部分的全体像の理解ということであろう…
そう全体像といっても、広く深い観点からの全体的全体像とその部分部分の部分的全体像とを考えることが出来る。
対象が広く深いものであり、それを広く深く認識して表現している人物の言葉は、その言葉を聞いた他の人物に、その言葉を広く深い全体像で考えてみよう!という思い(認識=像)が無ければ、その広く深い全体像は描けず部分的全体像を描いて、それで終わってしまうのだろう~
以上の考えた事を具体例で考えてみた。
それは私も読んだことのある、心に青雲ブログの「北条亮氏自身の医師国家試験問題の解き方」の例で書いてみた。
題して<北条亮氏と研修医S氏の認識=像の描き方の区別と連関>
この両者の出発点は「医者になりたい」という想いである。ただ両者がどのような「医者になりたい」かの具体像は、ここでは分からないのでパスする。
因みに、NHKドラマ「梅ちゃん先生」の梅ちゃんは、死にそうな患者を治そうと必死になっている父親の姿に感動して、そのような医者になりたい、と思ったそうであるが…
ここでの試験問題の解き方の違いは、両者の入学後の学びを通しての形成された、「医者とは?」、「病気とは?」、「治療とは?」…の像の違いが、結果的にその解き方の違いとして、現象しているのだろう~
北条亮氏は対象である医者と病気、それに関わる全体像を全体的全体像と描こうと頑張り続けて学び続けてきた。
試験問題も、その病気の患者を目の前にした医者であるかのような像を描き解こうと試みていた。
一方の研修生S氏は、大学での学びにおいて、医者になるとは、大学で試験に合格して単位を取得して、国家試験に合格する事的、そんな部分的全体像を描いて医者への学びを続けてきたのだろう…
本来は、大学の試験合格、単位習得、国家試験合格…これらは、医者への学びの結果であり、医者への過程の一部分に過ぎない…のに…
なのに、研修医S氏は、その部分を医者になることの主要部分と位置付けて、その部分を全体的像として、自己の目的として描いて、その為の努力をしてきたのだろう~
結果的に研修医S氏は、問題を教科書や過去問の中の病気から描いた病気の像(?)を用いて試験問題を解き、今後もそのように患者の病気と向き合ってゆくのだろう~
「世界は諸過程の複合体 世界はできあがった諸事物の複合体ではなく諸過程の複合体」…と誰かが、どこかに書いていたが…
「言葉で考える」とは、すべての言葉を区別と連関で考えること、それも世界の全体像を描こう!との頑張り過程での考える努力であれば…
それはそれで、大いに意味あることなのだろう…
まあ~「言葉で考える」と「像で考える」と並べて考えのは、対立物の統一としての、矛盾を創り出すことであり、考えを進めてゆくには、大いに役立つ事ではあるが…
言葉は…他人から言葉を頂いて、喜んでいるだけでは言葉が言葉としての機能を果たせていないのだろう…
言葉は認識の表現であり。ある対象の表現でもある。
言葉を理解するとは、その言葉を発した人物の認識を理解する事を通して、その人物が把握した対象を、その対象が見えていない己も、それを知り理解し把握することである…からなのだろう…
「言葉で考える」を考えることを通して~「考える」について考える~
前々回、「考える」について考えたが…なかなか上手くいかなかった…
これは、「考える」を直接に考えようとした為だと思われる…もっとも…だと私の能力不足もあるが…
そこで、今回は「言葉で考える」を考えることを通して、媒介的に「考える」を考える試みをしてみた。
先ずは、「言葉で考える」を、「言葉」、「で」、「考える」、の三つの部分=単語に分解して、考え始めることにする。
言葉ーー① 人が自分の考えや気持ちを 伝える手だてとしての、音声や文字。② 単語や句など、①の要素となるもの。③ 実際に言われたことがら。
で(格助詞)ーー(色々な意味と使い方があるが、ここでは、)、何かをする。手段や方法を表わす。である。
考えるーー① 知っていること。感じたことに基いて頭を働かせること。特に筋道を立てて頭を働かせること。② 工夫して、つくり出す。
「考える」とは、「筋道を立てて」なので、先ず第一は言葉の意味を辞書で確認した。
次に第二は、私の「知っていること、感じたこと」となるのだろう~
言葉について過去に読んだ書物に以下のように書かれていた。
「対象⇔認識→表現=言葉」…
言葉とは~人間が対象とする「何か」と関わり、その「何か」から認識した「何か」を表現するのに用いた表現手段である。
ここで「認識」という言葉が出てきた。
次に、認識とは像である。と繋がってゆく。
そこで、「像」について考えてみることにする。
では、「像」とは何か?ということになろう~
この「像」については理解を辞書的意味に頼っては、ここでは…ほとんど役に立たないので…
そので、『”夢”講義』に書かれていた「像」についての言葉を引用することにする。
『”夢”講義』(第四巻)P121~引用
……引用開始……
ここで「像」というものは、直接的には脳に描かれた(反映させられた)ものである。もっと説くなら、外界が感覚器官を通して脳の中に反映させられた(描くことになった)一種の”画(絵)もどき”です。
簡単にはこれが弁証法的唯物論の立場からなる「像」の過程性を持った説明(定義)です。これを弁証法的唯物論では「像」というのです。
……引用終了……
「言葉で考える」とは、ある「言葉」を聞いた見たり読んだりして、その言葉から考えるということだろうか…
ここで~「対象⇔認識→表現=言葉」から考えて、その言葉の裏には、その言葉で表現された(ある人の)認識があり、その奥には(ある人が認識した)対象がある。という事であろう…
対象が現実の存在である時、それは無限に連続的に互いに関わりあいながら変化・運動しているものである。
その対象を、人間はある瞬間のその対象のある一部分だけを認識するのである。
その認識を的確に言葉で表現できたとしても、それは現実に存在している対象の一部分にしか過ぎないのである。
そんな現実のある対象の一部分を表現している言葉で考えても、その対象全体を知ることは至難の技なのだろう…
では…どうすれば…自分に見ることの出来ないその対象全体を知ることが出来るのだろうか?
それも…やはり言葉を頼りにするしか無いのだろう…なにしろ自分には見え無いのだから…
ただし~それは、人を選び、言葉を選ぶこと。
う~ん…
言葉で~ここまで考えてきたが…言葉で考えるのは、この辺が限界かな?!
どんなに多くの言葉を書き続けても、現実の事物の変化・運動を一瞬一瞬を書き綴ることは不可能である。
しかし、体験した事実なら、その体験者に認識論的能力があれば、言葉で表現しきれなくても、認識は出来ているのだろう。
対象の瞬間瞬間を認識したものが「像」であり、その「像」の連続もまた「像」なのである。
その対象の変化・運動の連続した像が描けていれば、ある言葉とある言葉の間の言葉で表現しきれて無い部分を補うことが出来るのだろう。
以上を私の頭の中で私なりに纏めて「言葉で考える」とは?以下に書いてみた。
言葉で考えたからといって、頭の中に像が無い訳では無いのだろう。
これまでの思考過程ををみても、ある言葉に、私なりの像を思い浮かべて、その像をもとに考えて来ているのであるから…
言葉で考えていても像は描けているのなら、「言葉で考える」と「像で考える」とは同じものなのだろうか?
ここでの違いは、言葉で考えることで、その対象の全体像が描けているか!であろう…
ここで、さらなる問題が…「全体像」とはどのようなものであるか?
今、目の前にパソコンがある。
パソコンとは液晶画面があり、キーボードがあり、電気を使って…と説明しても小型パソコンを見たことの無い人物には正しく像を描けて頂けないだろう~
しかし、パソコンの形は描けなくても、説明の仕方で、私がどのようにパソコンを利用しているかは分かってもらえるのだろう~
この場合、パソコンの色、形…では無く、その利用法の部分的全体像の理解ということであろう…
そう全体像といっても、広く深い観点からの全体的全体像とその部分部分の部分的全体像とを考えることが出来る。
対象が広く深いものであり、それを広く深く認識して表現している人物の言葉は、その言葉を聞いた他の人物に、その言葉を広く深い全体像で考えてみよう!という思い(認識=像)が無ければ、その広く深い全体像は描けず部分的全体像を描いて、それで終わってしまうのだろう~
以上の考えた事を具体例で考えてみた。
それは私も読んだことのある、心に青雲ブログの「北条亮氏自身の医師国家試験問題の解き方」の例で書いてみた。
題して<北条亮氏と研修医S氏の認識=像の描き方の区別と連関>
この両者の出発点は「医者になりたい」という想いである。ただ両者がどのような「医者になりたい」かの具体像は、ここでは分からないのでパスする。
因みに、NHKドラマ「梅ちゃん先生」の梅ちゃんは、死にそうな患者を治そうと必死になっている父親の姿に感動して、そのような医者になりたい、と思ったそうであるが…
ここでの試験問題の解き方の違いは、両者の入学後の学びを通しての形成された、「医者とは?」、「病気とは?」、「治療とは?」…の像の違いが、結果的にその解き方の違いとして、現象しているのだろう~
北条亮氏は対象である医者と病気、それに関わる全体像を全体的全体像と描こうと頑張り続けて学び続けてきた。
試験問題も、その病気の患者を目の前にした医者であるかのような像を描き解こうと試みていた。
一方の研修生S氏は、大学での学びにおいて、医者になるとは、大学で試験に合格して単位を取得して、国家試験に合格する事的、そんな部分的全体像を描いて医者への学びを続けてきたのだろう…
本来は、大学の試験合格、単位習得、国家試験合格…これらは、医者への学びの結果であり、医者への過程の一部分に過ぎない…のに…
なのに、研修医S氏は、その部分を医者になることの主要部分と位置付けて、その部分を全体的像として、自己の目的として描いて、その為の努力をしてきたのだろう~
結果的に研修医S氏は、問題を教科書や過去問の中の病気から描いた病気の像(?)を用いて試験問題を解き、今後もそのように患者の病気と向き合ってゆくのだろう~
「世界は諸過程の複合体 世界はできあがった諸事物の複合体ではなく諸過程の複合体」…と誰かが、どこかに書いていたが…
「言葉で考える」とは、すべての言葉を区別と連関で考えること、それも世界の全体像を描こう!との頑張り過程での考える努力であれば…
それはそれで、大いに意味あることなのだろう…
まあ~「言葉で考える」と「像で考える」と並べて考えのは、対立物の統一としての、矛盾を創り出すことであり、考えを進めてゆくには、大いに役立つ事ではあるが…
言葉は…他人から言葉を頂いて、喜んでいるだけでは言葉が言葉としての機能を果たせていないのだろう…
言葉は認識の表現であり。ある対象の表現でもある。
言葉を理解するとは、その言葉を発した人物の認識を理解する事を通して、その人物が把握した対象を、その対象が見えていない己も、それを知り理解し把握することである…からなのだろう…