2012年12月23日
子供が大人になる~とは?! 「正しさ」とは?!何なんだろう~
今日~ふと…気付くと…子供が大人になるとは?どういう事なのだろう~と考えていた。
昨日、息子がポケモンのナエトル人形とビンゴ・ゲームの景品である牛さん人形で遊びながら~「うちって人形で遊んでいて子供だよね!」と私に聞いてきた。
心では、『その遊んでいる姿は、とても可愛いよ~』と想いながらも、「…可愛い…」と言うと子供だよ、と言っているようなので…
「そんなことないよ!大人だって、人形で遊んでいるよ…」、
「人形で遊ぶ、遊ばない,では無く、(言動が)しっかりしているか?していないか?だよ!」と息子に言った。
「M・H(従弟)も人形で遊んでいるよね~」と息子が言うので…
「M・Hは、自己中で…やることはやらないし、大人の言うことは聞かないし…ありゃ~子供だね…」と言うと…
「うちは、パパにやらされているよ!」と息子が言った。
そこで、「子供のうちは、親、先生…の言うことを聞いて、やらされていて…いいんだよ~」
「でも…大人になってくると、親、先生…の言うことが素直に聞けなくなるんだよ~その時は、親、先生…の言うことが正しい!か?どうか!?を自分で判断して、正しい時はやりたく無くても…やるんだよ…」と言った。
これで、息子が納得した!どうか?は分からないが…
最近の息子は、身長も急激に伸びていて、その言動も生意気になってきている。
そんな息子であるが、ブツブツ言いながら人形と戯れている、その姿は、まだまだ子供だと、チョッピリ嬉しく想っている。
それでも、大人へと成長しつつある息子を「子供だよ!」とは言えなかったのである。
今日の朝、突然に、そんな事があった為か?!「子供が大人になる!とは?」を考えていた。
この場合の考えるとは、幼稚園時代から最近の息子の姿を想い浮かべ、その時々の言動を可能限り思い出し比較検討したのである。
大人の場合、それは誰の言った言葉なのか…では無く、その内容が正しいかどうかが問題となるのだろう~
でも…子供は、その言葉の内容の正しさが判断できないので…親や先生…の言葉に従わされているのだろう~
でも…問題が…
歳をとり身体は大人となっていても…人は他人の言動の正しさを正しく判断できているのだろうか?!
その正しさの判断基準とは何か?
法律的、道徳的、自己の信条的…正しさ…
この子供にとって正しい事が、あの子にとって正しいとは、限らないのであろう~
そう、自分にとって正しい事が、必ずしも相手にとって正しいしは限らないのだろう~
ここまで~考えてみて正しい「正しさ」が分からなくなった…
絶対的「正しさ」はあるのだろう~か?
全ては、相対的「正しさ」なのたろうか?
相対的正しさを「正しい」と言ってよいのだろうか?
自分ひとりで分からない時は、他人の力=言葉=認識をお借りして…考えてみよう~
「正しさ」には、現象レベル、構造レベル、本質レベルとあるのだろう~
ここで問題~
「21人の生徒を5班に分けました。1班は何になるでしょう。」
(式) 21÷5=4.2 (人)
(答) 4.2 人
さて…この問題は正しく解けているのでしょうか?
現象レベルでは、数学的解答として○、算数的事実的には×、
構造レベルでは、数学的計算式として○、でも算数的には、21÷5=4 あまり 1 、が正しい、のであろう。
本質レベルでは、人間を班分けするとは、生きた人間の班分けであるから、小数、分数の答は、数学の計算問題としては「正しい」。しかし、現実の問題としては「間違い」である。
ある人は言っていた…「学問に、現象論、構造論、本質論、は無い!」と…
でも、私は考える、『今までに無かったとしても、この考え方で新たな視点からみる事は、新たな自己の創造であろう』と…
この考え方、考え得た結論は、果して正しいのだろうか?!
「正しい」とは、その時々の対象に合致し得た時、正しい、のだろう~
でも…その対象を、現象、構造、本質、と~どのレベルでみるか…によって、その「正しさ」も…また変ってしまうのだろう~
そう~言えばソクちゃんが、「絶対的世界」を求めていたが…
そう~「相対的世界」の積み重ねで「絶対的世界」に到達できれば…いいな~と私は想っている…
↑↑↑↑
「真理・真の正しさ」とは、何なのだろうか?
子供が大人になる~とは?! 「正しさ」とは?!何なんだろう~
今日~ふと…気付くと…子供が大人になるとは?どういう事なのだろう~と考えていた。
昨日、息子がポケモンのナエトル人形とビンゴ・ゲームの景品である牛さん人形で遊びながら~「うちって人形で遊んでいて子供だよね!」と私に聞いてきた。
心では、『その遊んでいる姿は、とても可愛いよ~』と想いながらも、「…可愛い…」と言うと子供だよ、と言っているようなので…
「そんなことないよ!大人だって、人形で遊んでいるよ…」、
「人形で遊ぶ、遊ばない,では無く、(言動が)しっかりしているか?していないか?だよ!」と息子に言った。
「M・H(従弟)も人形で遊んでいるよね~」と息子が言うので…
「M・Hは、自己中で…やることはやらないし、大人の言うことは聞かないし…ありゃ~子供だね…」と言うと…
「うちは、パパにやらされているよ!」と息子が言った。
そこで、「子供のうちは、親、先生…の言うことを聞いて、やらされていて…いいんだよ~」
「でも…大人になってくると、親、先生…の言うことが素直に聞けなくなるんだよ~その時は、親、先生…の言うことが正しい!か?どうか!?を自分で判断して、正しい時はやりたく無くても…やるんだよ…」と言った。
これで、息子が納得した!どうか?は分からないが…
最近の息子は、身長も急激に伸びていて、その言動も生意気になってきている。
そんな息子であるが、ブツブツ言いながら人形と戯れている、その姿は、まだまだ子供だと、チョッピリ嬉しく想っている。
それでも、大人へと成長しつつある息子を「子供だよ!」とは言えなかったのである。
今日の朝、突然に、そんな事があった為か?!「子供が大人になる!とは?」を考えていた。
この場合の考えるとは、幼稚園時代から最近の息子の姿を想い浮かべ、その時々の言動を可能限り思い出し比較検討したのである。
大人の場合、それは誰の言った言葉なのか…では無く、その内容が正しいかどうかが問題となるのだろう~
でも…子供は、その言葉の内容の正しさが判断できないので…親や先生…の言葉に従わされているのだろう~
でも…問題が…
歳をとり身体は大人となっていても…人は他人の言動の正しさを正しく判断できているのだろうか?!
その正しさの判断基準とは何か?
法律的、道徳的、自己の信条的…正しさ…
この子供にとって正しい事が、あの子にとって正しいとは、限らないのであろう~
そう、自分にとって正しい事が、必ずしも相手にとって正しいしは限らないのだろう~
ここまで~考えてみて正しい「正しさ」が分からなくなった…
絶対的「正しさ」はあるのだろう~か?
全ては、相対的「正しさ」なのたろうか?
相対的正しさを「正しい」と言ってよいのだろうか?
自分ひとりで分からない時は、他人の力=言葉=認識をお借りして…考えてみよう~
「正しさ」には、現象レベル、構造レベル、本質レベルとあるのだろう~
ここで問題~
「21人の生徒を5班に分けました。1班は何になるでしょう。」
(式) 21÷5=4.2 (人)
(答) 4.2 人
さて…この問題は正しく解けているのでしょうか?
現象レベルでは、数学的解答として○、算数的事実的には×、
構造レベルでは、数学的計算式として○、でも算数的には、21÷5=4 あまり 1 、が正しい、のであろう。
本質レベルでは、人間を班分けするとは、生きた人間の班分けであるから、小数、分数の答は、数学の計算問題としては「正しい」。しかし、現実の問題としては「間違い」である。
ある人は言っていた…「学問に、現象論、構造論、本質論、は無い!」と…
でも、私は考える、『今までに無かったとしても、この考え方で新たな視点からみる事は、新たな自己の創造であろう』と…
この考え方、考え得た結論は、果して正しいのだろうか?!
「正しい」とは、その時々の対象に合致し得た時、正しい、のだろう~
でも…その対象を、現象、構造、本質、と~どのレベルでみるか…によって、その「正しさ」も…また変ってしまうのだろう~
そう~言えばソクちゃんが、「絶対的世界」を求めていたが…
そう~「相対的世界」の積み重ねで「絶対的世界」に到達できれば…いいな~と私は想っている…
↑↑↑↑
「真理・真の正しさ」とは、何なのだろうか?