新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

子供が大人になる~とは?! 「正しさ」とは?!何なんだろう~

2023-06-22 17:45:34 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2012年12月23日
子供が大人になる~とは?! 「正しさ」とは?!何なんだろう~

今日~ふと…気付くと…子供が大人になるとは?どういう事なのだろう~と考えていた。

昨日、息子がポケモンのナエトル人形とビンゴ・ゲームの景品である牛さん人形で遊びながら~「うちって人形で遊んでいて子供だよね!」と私に聞いてきた。

心では、『その遊んでいる姿は、とても可愛いよ~』と想いながらも、「…可愛い…」と言うと子供だよ、と言っているようなので…

「そんなことないよ!大人だって、人形で遊んでいるよ…」、

「人形で遊ぶ、遊ばない,では無く、(言動が)しっかりしているか?していないか?だよ!」と息子に言った。

「M・H(従弟)も人形で遊んでいるよね~」と息子が言うので…

「M・Hは、自己中で…やることはやらないし、大人の言うことは聞かないし…ありゃ~子供だね…」と言うと…

「うちは、パパにやらされているよ!」と息子が言った。

そこで、「子供のうちは、親、先生…の言うことを聞いて、やらされていて…いいんだよ~」

「でも…大人になってくると、親、先生…の言うことが素直に聞けなくなるんだよ~その時は、親、先生…の言うことが正しい!か?どうか!?を自分で判断して、正しい時はやりたく無くても…やるんだよ…」と言った。

これで、息子が納得した!どうか?は分からないが…


最近の息子は、身長も急激に伸びていて、その言動も生意気になってきている。

そんな息子であるが、ブツブツ言いながら人形と戯れている、その姿は、まだまだ子供だと、チョッピリ嬉しく想っている。

それでも、大人へと成長しつつある息子を「子供だよ!」とは言えなかったのである。


今日の朝、突然に、そんな事があった為か?!「子供が大人になる!とは?」を考えていた。

この場合の考えるとは、幼稚園時代から最近の息子の姿を想い浮かべ、その時々の言動を可能限り思い出し比較検討したのである。


大人の場合、それは誰の言った言葉なのか…では無く、その内容が正しいかどうかが問題となるのだろう~

でも…子供は、その言葉の内容の正しさが判断できないので…親や先生…の言葉に従わされているのだろう~


でも…問題が…

歳をとり身体は大人となっていても…人は他人の言動の正しさを正しく判断できているのだろうか?!

その正しさの判断基準とは何か?

法律的、道徳的、自己の信条的…正しさ…

この子供にとって正しい事が、あの子にとって正しいとは、限らないのであろう~


そう、自分にとって正しい事が、必ずしも相手にとって正しいしは限らないのだろう~


ここまで~考えてみて正しい「正しさ」が分からなくなった…


絶対的「正しさ」はあるのだろう~か?

全ては、相対的「正しさ」なのたろうか?

相対的正しさを「正しい」と言ってよいのだろうか?

自分ひとりで分からない時は、他人の力=言葉=認識をお借りして…考えてみよう~


「正しさ」には、現象レベル、構造レベル、本質レベルとあるのだろう~

ここで問題~

「21人の生徒を5班に分けました。1班は何になるでしょう。」

(式) 21÷5=4.2 (人)

(答) 4.2 人

さて…この問題は正しく解けているのでしょうか?

現象レベルでは、数学的解答として○、算数的事実的には×、

構造レベルでは、数学的計算式として○、でも算数的には、21÷5=4 あまり 1 、が正しい、のであろう。

本質レベルでは、人間を班分けするとは、生きた人間の班分けであるから、小数、分数の答は、数学の計算問題としては「正しい」。しかし、現実の問題としては「間違い」である。


ある人は言っていた…「学問に、現象論、構造論、本質論、は無い!」と…

でも、私は考える、『今までに無かったとしても、この考え方で新たな視点からみる事は、新たな自己の創造であろう』と…


この考え方、考え得た結論は、果して正しいのだろうか?!


「正しい」とは、その時々の対象に合致し得た時、正しい、のだろう~

でも…その対象を、現象、構造、本質、と~どのレベルでみるか…によって、その「正しさ」も…また変ってしまうのだろう~


そう~言えばソクちゃんが、「絶対的世界」を求めていたが…

そう~「相対的世界」の積み重ねで「絶対的世界」に到達できれば…いいな~と私は想っている…

↑↑↑↑

「真理・真の正しさ」とは、何なのだろうか?


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弁証法といったら 『 ”夢 ”講義 』 でしょう~

2023-06-22 17:41:46 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2012年12月08日
弁証法といったら 『 ”夢 ”講義 』 でしょう~



~と~いうことで…本日は『 ”夢 ” 講義 』第五巻(現代社)からの引用で始めたい…


第三編 「技の創出」の過程的構造を説く

第二章 技の創出における弁証法性を説く 

第三節 弁証法の学びの多重性・多重構造
    ー繰り返し学ぶことの意義とはー

~P119~

……引用開始……

 しかし弁証法の学びは、飛行機とか新幹線とか、マイカーのような乗り物を使う方法を持ちいるのでは駄目なのです。必ず、自分の手と足とで現実の世界の中で実際に動いてみるしか、方法はないのです。

 弁証法の学びは、現実の手と足で分かった出来事を、すなわち事実として分かったことをふまえながら、その事実の性質を見てとることであり、そして見てとった事実の性質を変化性、すなわち運動性において思惟する、深く考えてみることが大切なのです。繰り返しますが、弁証法とは事実そのものを直接に見てとることのみではなく、そこをふまえながらその事実の変化(運動)のあり方の性質一般を見てとることにこそあるのです。

 端的には弁証法とは、変化を見てとるのではなく、変化性すなわち変化している性質を見てとることにあるのです。運動性とは運動の性質であり、「どんな運動の性質をもっているのか」であり、かつ、「どんな性質を持った運動をしているか」なのです。

 それだけに、その変化とか運動を見てとるのはそう難しくはないのですが、しかし、弁証法で見てとるのはこの現象面での変化とか運動ではないだけに、とても難しいことになります。もちろん当然のことながらこれは最初は、性質が見えるわけでもなく、見てとれるわけでもないのですから。当初何が見えるのかといえば当然に「変化しています」「運動しています」という事実が見えるだけです。

 とはいうものの、これすら初心者には難しいものといってよいでしょう。だから最初に大事なことは、まず、その変化を見てとれるようになることであり、その運動を見てとれるようになることです。

 この小さな「繰り返しの上の繰り返し」を飽きることなく(どんなに飽きても)続けていくことが弁証法のいわゆる達人(専門家)になる唯一の方法です。

……引用終了……

ここまで、打ち込んだら…疲れてしまった!ので…続きは~また・次・回・にすることにしました…悪しからず…

~つ~づ~く~



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男は黙って…弁証法…かな?!

2023-06-22 17:36:52 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2012年12月07日
男は黙って…弁証法…かな?!



知っている者、気付いている者、分かっている者~は、語らず…

知らない者、気付いていない者、分かっていない者~は、語れず…

では…ここで書き続けている私は、何者ぞ?

それは~学びたい者、学ぼうとしている者、学び続けたい者…ぞ~


(定立) 弁証法は役に立つ、と言う者がいる。

(異定) 弁証法は役に立た無い、と言う者がいる。

(顕定) そんな役に立たないかも知れない弁証法?!
それを絶対に役に立つ、と信じて学ぼうとする者がいる。


『弁証法』、言葉で表現された弁証法、それは弁証法であり、弁証法では無い…

その弁証法は、言葉を発した人物のもとを離れた瞬間から、それは弁証法ではなくなるのだろう~

弁証法であり、弁証法では無い、言葉で表現された弁証法、その弁証法を本物の弁証法とするべく書き続けている私…

「言葉」で表現された弁証法を、「像」としての弁証法とするべく書き続けている私…


もっとも…書いているだけで、「言葉」を「像」に出来れば…これ程にお気楽な事は無いのだが………



↑↑↑↑

他人の言葉・弁証法の再措定であろう。

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「言葉」という像について~

2023-06-22 17:31:37 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事


2012年11月29日
「言葉」という像について~


今回は「言葉」と「像」(認識としての像)にもう一歩踏み込んで考えてみる事にした。


昔…外出時に母に、よく「気を付けてね~」と言われていた。

その時、心では『何に気を付けるのだろう?』と思いつつも…「ハイ!、と言って出掛けたものであった。

息子が生まれ、言葉がやっと分かるようになった時分から、私も危なげに走る息子の姿に、思わず「気を付けて!」と発してしまっている自分を意識するようになっていった…

その後、色々な本を読み…今は以下のように考えている。

「気を付けて…」という言葉は、とても抽象的表現である。それでも、大人であれば、出掛けの「気を付けて」の声かけであれば、その自己の状況から、車の運転であれば、周囲の安全確認、徒歩での外出であれば、前方、足元、信号…等の確認、と具体的な像である認識を思い描き、そのように行動する事が可能であろう~もっとも…そこまで考えずに『気を付けよう』と思うだけかもしれないが…


ししか、子供の場合、特に幼児の場合は、「気を付けてね」の言葉は、「気を付けてね」であって、そこから具体的に自分のするべき、気を付ける行動の像は思い描くことは不可能である。

そう~ある時、息子がジャングルジムで遊んでいた時、息子の滑って落ちてしまう姿を思い描いてしまい、思わず「気を付けろ!」と言ってしまった。

その時、息子が私のその言葉に気を取られ、「気を付ける」どころか…足を滑らしそうになっていたのである…

『シマッタ!』と気付いた私は、「手でしっかり、鉄棒を握っていろ!手さえ放さなければ大丈夫だ!」と言葉を続けた。

「足を意識して!」とも思ったが…足より手の方が意識し易いと思い~「手にしっかり~」としたのであろうか~


次に想い出したのが以下の事です。

子供の頃、私が親戚の○○の家に遊びに行く時、母によく「『○○に宜しく!』と伝えて…」と言われた。

初めの頃は、この「宜しく」の意味が分からず、○○に会うと「宜しく」と言っていた。

すると、○○に、「宜しく…とは何?」と聞かれるので、私は「 母が「『宜しく!」伝えて』 」と言っていた…」と答えていたものである…

この場合、初めの○○に会った時に私のとった<「宜しく」言う>という行為は、母の言葉を言葉のままに実行したものである。

その後の私の言葉ーー<「 母が『 宜しく伝えて!』と言っていた」>ーー、これは、母とのやり取りをその言葉を含めた、その時の像で考えての言葉である、のだろう~

あれから~数十年…

私も大人になり、今では、○○に「××に宜しく~言っておいて!」と言われた時は、××に会うと「○○が××が、元気にやっているか気にしていたよ~」、というような事を言うようになっている。

上記のようなに…、相手の言葉をその言葉の意味のままに分かるのては無く、その言葉を含めた全体像で考え分かる、という事なのだろうか…




公園で見かける以下のような親子のやり取り…

やっとヨチヨチ歩きがやっとの幼児が走ろうとしている、その危なげな姿に「危ない!」と声掛けをして、その子が転んで泣き出した時。

多くの親は、「ほら~だから危ない!と言ったでしよう~」と…泣いている子供に言ってしまう。

その時のその幼児の認識を言葉で表現するなら…「僕が痛くて泣いているのに…なんで?ママはそんなふうに僕を責めるの…?!」てな感じかな…

そもそも…全身全霊で走ろうとしている、その幼児への親の言葉掛けは、かえってその子の集中の邪魔になり、逆にその子を危ない状況へ陥れてしまう危険がある。日頃から親の言う事など聞かない子は危なくないのだろうが…

この場合…下手な言葉掛けより、近くに駆け寄って親が、車、人、物…など大きな危険が無いことを確認して暖かく見守ってやるべきなのだろう…

そして、その子が危ない状況になれば、急いで駆け寄って抱きかかえてやるべきなのだろう…


つづく…


↑↑↑

「気を付けて」も「宜しく」も…
感情的な像の表現であり、具体的な視覚的像ではない。

それでも、言葉に「感情・像」が付随している。

コメント (1)
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