新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

センチメンタル・マイ・マインド

2023-06-24 16:00:20 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月03日
センチメンタル・マイ・マインド


今日はチョット?と言うよりかなり感傷的に書いてみた。

数日前に、フッと息子の、そう二、三歳の時の息子の姿が脳裏を過ぎった。あの「パパちゃん~」と言う息子の声と純真無垢で素直そのものの当時の息子の顔が浮かんで来た。それは、冷蔵庫に貼ってある写真の中の息子の顔であった。

今、目の前の(残念ながら今日は従弟の家にいる)息子に、あの当時の表情は、殆ど見る事はできない。

昨日、息子と炬燵に入って座りながら、つい「幼稚園の頃のお前は可愛かったのに…」と言ってしまった。

その後直ぐに「可愛けりゃ~良いってもんでも無いけどね…」、「ハパにとっては可愛いお前が好いけど、大人になってゆくお前にとって、可愛いが良い事とは言えない…」と口から自然に出ていた。

『子を持って初めて知る親心』とは、よく言ったものである。生前の母もキット今の私と同じよう気持ちで、いつも私の事を見ていたのだろう~母にはもっともっと長生きしてもらって孫の顔を見せてやりたかった。

しかし、母が死んでいなければ、たぶん今の認識を持った私の存在は無かったのだろう~本当に『人間万事塞翁が馬』なのだろう~

生前の母はよく私に「今の内に親孝行しておくんだよ!私が死んだら出来ないよ!」と、言っていた。

当時の私は『ふん!何を言ってるんだ~!』と思っていたが、まさか!?その言葉が実現してしまうなんて…これは喜べない現実である…

さて…話は変って本日久し振りに『学城』第六号、「海保静子が遺してくれた未来への手紙」-本田克也―を読んだ。

印象的だったのが、「弁証法の弁証法性」-自己の中に弁証法を創り、育ててゆく的ことが書かれていた。

以前に読んだ時には、こんな感じはなかったのに…

そう~今の私の中に弁証法は創造できているのだろう~か…?!

~あるとすれば、それはシッカリと弁証法的に変化・運動しながら生長しているのだろうか?

~有るのに無いのが弁証法、無いのに有るのも弁証法~

~見える人には見えて、見えない人には見えないのも弁証法~

~見えていても見えない弁証法、見えないのに見えている弁証法~

~弁証法の学びだ!と自信を持って学ぶと身に付かない弁証法~

~知らず知らずに習得した弁証法は弁証法にならない弁証法~

ホンに…厄介な弁証法~

~こんな物…欲しいと思わなければ…キットきっと私はもっともっと不幸せになっていたのかも…

それとも…自分の不幸に気付かない気付けない主観的幸福者だったのかも…

…なんて…ね…


~♪♪♪センチメンタル・マイ・マインド♪♪♪~by 自由びと


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もう直ぐ春~ハイテンションマックスを期待して~

2023-06-24 15:57:43 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月16日
もう直ぐ春~ハイテンションマックスを期待して~

久し振りの更新である。

ここ数日間「2チャンネル」掲示板のアクセス規制が解除になり、ついつい夢中になって書き込んでいた。

人によっては、あんなものゴミ溜めと同じで関わるだけ時間の浪費で無駄である、と言うかもしれないが…私には、そうとは思えないのである…

確かに他人の誹謗中傷、個人情報の無断書き込み…と色々と問題もあろう~それでも…私には、とても勉強になっている部分もある。

「勉強になっている」と言うか…私が勉強になるような読み方、関わり方をしている、と言うか…そんな読み方に関わり方が出来るようになっている、と言う事なのだろう~

もっとも、「勉強になっている」とは、私の勝手な思い込みで、本当のところは自分を駄目にしているだけ…かも知れないが…

この事の客観的妥当性については、今後の自分を見つめ続けることでハッキリしてゆくのだろうか…


まあ~そんなこんなで今日~やっとの更新です。



今日、息子が「…ママが悪い!」「○×が悪い!」と言っている姿を見て私は思った。

話を聞いた限りで、確かに家内が悪い部分があり、○×にも悪い部分もあるように私にも思えた。しかし、そうであった!としても他人が悪い!と叫んでいて何が解決するのだろうか?!

過去の教員になりたての頃に読んだ本に、「他人を変えることは難しい、時には不可能でさえある。しかし、自分を変える事は難しいかもしれないが、不可能では無い可能である。」と書かれていた。

この言葉を後輩の新任教師に話したところ、「本当にそうだね♪」と同感してくれた事…そんな事を想い出した。

また、父の商売の手伝いをしていた頃、当時の釘師の方が、色々と悩んでいた当時の私に、「…自分がどうしたいか!?と言う事が大事だ…」というような事を言ってくれた。

当時の私は、『そうだよな~何を当り前の事を…』というような事を思ったような記憶がある。

そう~当時の私には「自分がどうしたいかが大事」と分かっていて、それが当り前…

なのに~この「自分がどうしたいか」の「自分」というものの重み、そして~「何をしたいか」…というより「人間として生き、自分を活かす為に何をすべきか」という事が、分かっていなかったのに、それでも…分かっているつもりだったのだろう~

それだけ~当時に比べて今の私には、自分とは?人間とは?人間が生活するとは?…の意味が実感されているのだろう~

「事物は過程の複合体である」とは、有名な言葉であるが…私さえー自分さえも「過程の複合体である」という事を最近は実感している…

これもそれも…「武道の理論」、「武道講義」、「『夢』講義」に学び続けたからなのだろうか?

それとも…私が求め続けたからなのだろうか?

そう~学び続け、求め続け、学び続けたからなのだろう~

そして、今年で56年もの人生を過ごしてしまった私だが…

~学び続ける事、求め続ける事、そう「悟りを求めて~」を続ける事だけは、諦めずに続けたい!と想っている…


大学時代、「空手の練習は仕事が忙しくて全くしていない」と言いながら、空手の指導をしていたOBの先輩を見て、『自分はいつまでも空手の現役でいたい!』と想ったものである…

マンガ『海世紀』の主人公ファン・ガンマ・ビゼンは、八番艦のフォクスルデッキの上で立ったまま笑顔で逝ったそうである、享年百一歳~。

私も人生を閉じる時には、その一瞬前まで、自由自在に動き回れている私でありたい~と想っているが…


三寒四温の今日この頃…躁と鬱との繰り返しで、家内には「他人に迷惑だけは掛けないで…」と言われている私である…

ぼちぼち~暖かい春のハイテンション・マックスの自分を期待して、鬱的言説を意識しての…

今日の・お・わ・り・である…


家内が逝ってしまって以来…
同じような事を考え・悩んでいる…

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新たな自己の認識を創り上げる~とは…

2023-06-24 15:52:41 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月07日
新たな自己の認識を創り上げる~とは…

「有村加純」を初めて有村加純という名の女性だと認識したのは、昼ドラ「僕の夏休み」を見てからである。
ドラマの中の彼女の演技は、お世辞にも上手とは言い難かったが…それでも~私は見続けるうちに好きになってしまっていた…だって私は昔から面食いなので…

その有村加純が2月7日号「週刊文春」の原色美女図鑑に載っていたのを、週に数回食べに行っている定食屋で、今日たまたま見つけてしまった。

彼女、髪も長く伸びていて、とても可愛いな~と感じつつ…写真を見ていると、下の方に文字を発見、何が書かれているのか?と読んでみたら以下のような事が書かれていた。

「一カ月、写真家と同居、レンズを向けられ続ける」という試練に挑戦。朝起きてから夜寝るまで、ずっと撮影され、友達と遊びに行くところまで一緒…そんな中、写真家から「(女優になる)覚悟がないんじゃない?」と言われ…撮られた写真は一万枚…

この事、人によっては、「自然体でいいじゃん~、普通でいいでしょう!」と考え、大したこと無い、と思うかもしれない…

しかし、グラビア・アイドルだった彼女が真剣に女優を目指すのならば、自然体、普通では駄目なのだろう。

グラビアなら一瞬一瞬の写真、静止画像的で事足りるのだろうが、女優は連続写真、運動的画像的であり、その変化・運動の過程が多くの人達に見られてしまうのだろう。

なので、当然にその撮られた一万枚の写真の受け止め方も変ってくるのだろう…

グラビア的、静止画像的に見るならば、一万枚中何枚か「良い顔」が撮れていれば合格なのだろう。

しかし、女優的運動画像的に見るならば、一枚でも「本心的醜感情」が撮られていれば失格である的捉え方が必要になってくるのだろう~

女優とは、そこに他人の存在がある限り、女優という役を演じ続けなければ、女優失格である、と私は考えているから…

彼女の覚悟の程は分からないが…上記の認識で一カ月写真家と一緒、とは厳しいものがあろう~

上記のような女優として、何時いかなる時も演技ができ、演技継続を可能にする瞬間的演技力と継続的演技力習得の為には、四六時中演じ続ける心、どのように演じるかを考え続ける頭を創り上げる必要がある。

その為の「一か月間の写真家と一緒」ということなのだろう…

過去、空手修行中に3回参加した師範主催の夏合宿、それに茶帯時代に参加した春合宿を想い出しつつ~


あの緊張の連続に今の私が、果たして何処までついて行けるのだろうか?

『あの頃の私は若かったな~』と想いつつ、『いや~今の俺もまだまだヤレル!!』と思いたい自己を感じつつ…

~加齢の為に折れそうなになってゆく心に鞭打って…♪♪♪なんてね…♪♪♪



有村架純~
今では、表情に味のある素敵な女優になっいますね♪




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青雲ブログ『反骨を育むための体罰指導』に想う事…

2023-06-24 15:46:42 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月06日
青雲ブログ『反骨を育むための体罰指導』に想う事…

反骨―権力や世間一般の傾向に簡単に従うことなく、自分が正しいと考えることを貫き徹す気持ち。(例解新国語辞典)

反骨とは上記のような事なのだから、今回の女子柔道の15人は組織や指導者の権力に簡単に従うことなく、弁護士=法律的力を用いて、「自分の正しいと考えたことを貫き通した」ということで「反骨精神を育んだ」という効果があったといえるのだろう。

この点でブログ主の書かれている通り『反骨精神を育むための体罰指導』は正しいと言えるのだろう。

これが、一般論である…

しかし、彼女らが、今では過去になってしまったあの体罰的指導の元で修業しつつ修行して強くなってゆく事と、新たな~それなりに彼女らにとって心地よい環境で修業を続けてゆく事とを比較した時、果してどちらが彼女らにとって武道的精神の修養になってゆくのだろう~か…


この様な結果になってしまった原因は色々と考えられるであろう~しかし、まともな指導者ならば、その原因を全て自己の責任として反省すべきである、と私は考えているが…。

一般的反省として、自己の体罰的指導を教育的指導として被指導者に反映させる事ができずに、彼女らに感情的体罰として受け取られてしまった、という失敗である。

具体的場面として、例えば~指導者の「何やってんだ!お前!こんなのじゃ~試合に出さんぞ!」という発言であるが…
こう裏にある認識は『実力あるお前なら試合に出て闘える筈なのに…、でも…こんな今のような弛んだ気持ちで練習していては試合で勝てないぞ、出て闘う意味が無いぞ~もっと気を引き締めろ!』的想い…

また、「死ね!死んでしまえ!」とは、『もっと必死になれ!武道の負けは即=死だ!と考えて練習しろ!このままじゃ~負けて死ぬぞ~』的想い…

そして、「馬鹿!アホ!人間やめてしまえ~!」は、『身体だけで覚えるな!お前も人間なら頭脳を使って考えて練習しろ!それが出来ないなら人間やめてしまえ!』的想い…

このような暴言的指導も単発であれば、ショック療法的効果を期待できようが…頻繁に使用したのでは、その教育的効果は怪しくなってしまうのだろう(特に現代の若者は)。と同時に信頼関係も危ういものとなるのだろう~それを未然に防止する為に、暴言の裏のその想いの言語化を稽古中でない時、指導者が感情的情熱的でなく、知性的理性的情熱的な時に、じっくりと優しく分かり易く被指導者の感情と頭脳に熱く語りかける指導が必要であろう~

同じように、身体への体罰的指導-平手打ちや蹴り…等は、指導者が自己の強い想いを言語化出来ずに想いあまっての単発的行為なら、まだその指導者の想いも何とか被指導者に伝わるだろう(それでも、一般的に女性には伝わり難い)が、それを頻繁に使用していたのでは、その行為が被指導者には、『自己に加えられた、いわれなき無き罰』と反映され、そして納得できず、反発を感じてしまうようになるのだろう~


驚いた?というか可哀想になってしまった事は、確か『岡目八目さんの教育論』の中で書かれていた「園田前監督が、被指導者に平手打ちをしながら道理を説いていた」的内容の文面である。

これなどは過去のペット犬の躾方法であり、今時はペットの躾さえもこのような方法は効果が薄いと否定されているのである…そう~過去に父がシェパード犬を買って、訓練所に出した時に、そこで現代の犬の躾について色々と聞かされたのであるが…。


また、実際に体罰的指導の失敗の実例を私は目のあたりにしている。

それは、息子の同級生のK君である。彼と初めて会ったのは息子が幼稚園の時、彼が保育園児の時である。

当時、自宅近くのトイレ公園で、初めは別々に遊んでいた二人は、そのうち一緒に遊ぶようになり、そして子供同士の自己主張の衝突の結果喧嘩になった。息子はK君に顔面パンチを一発喰らって大泣きで終了であった。

問題は、その後であった。近くで見ていたK君の母親が駆け寄り、彼に謝罪させようとするのだが、K君は全く聞き入れない、母親が手を上げて言い聞かせようとしても駄目であった。

私は『痛い思いをした息子は可哀想だか…これも良い経験になるだろう~』と考え、その旨を親に伝えて、その場は収まった。

その後、K君の現役の競輪選手である父親と話す機会があり、聞かせてもらった事が以下のような内容であった。

K君は幼児の時から身体が大きく、悪戯で落ち着きがなかった。口で叱っても悪戯を止めないので、その内に叩くようになった。軽く叩いても聞かないので、だんだんに強く叩くようになり、今では強く叩いても言う事は聞かなし、痛がりもしないそうである。

そのK君は、小学校では息子と同じクラス、学童保育でも一緒となり、同級生に直ぐに手を出す問題児になっていた。それでも、私は彼がけっこう好きで、彼も私を見かけると「○○のお父さん!」と声を掛けてくれている。

そんな彼も5年生の現在、息子の話から、かなり落ち着いてきたように私には思える。これは、小学校の担任達の力量であり、その力による同級生達の関わりの中での結果なのだろう~

以上が頻繁に使用された体罰の非教育的効果―言うことを聞かない―気に入らない―即攻撃的効果であろう。
母親と子の強い信頼関係の中でさえ、このような副作用のある劇薬的体罰の恐ろしさを自覚して体罰的指導を駆使している指導者は、世の中にどれ程に存在しているのだろう~



現在の小五までの息子の担任は全て女性であり、その内現在の担任が私にとっての一番のお気に入りになっている。その一番の理由は全員の前で、その児童の自尊心を傷付けるような名指し的指導を彼女が極力回避しているように、私には思えているからである。

確かに、その被指導者の自尊心を否定しての教育的指導の効果を私は否定しない。しかし、小五という大人的自我の確立がなされようという時の、その未熟な自尊心の否定は、大きな爪痕をその児童の心に残しかねないから~である。

大人においても指導者なら、その被指導者の現在の人格がどのようなものであるかを見極めた上での、自尊心否定的体罰的指導であるべきなのだろうに…

体罰で『反骨精神を育む』には、その被指導者に『骨』が存在していての「・は・な・し・」であり、現代の若者に、その骨はあるのだろうか?簡単にポッキリ折れてしまうような骨でない、強固な骨が?…

それは疑問である…

骨の無い被指導者に、体罰によって育まれるものは、「反抗精神」なのだろう~




「一般論として体罰容認」とか、「体罰を法律で認めろ」的発言を平気できる指導者に、この体罰の副作用は実感できているのだろうか…

体罰解禁などしたら、それこそ~藪医者に劇薬を出してもらうようなもの、未熟な薬剤師に劇薬を調合してもらうようなものであろう~

しかし…それでも体罰的指導は、名指導者によって駆使されれば、被指導者には「体罰」とは反映されず、素晴らしい教育的指導と相成ってゆくのだろう~

従って~世の中の全ての体罰は無くなったとしても、永遠に体罰的指導は存在し続けるのだろう…そう決して「体罰」とは認識され得ない~まま~名指導者の指導のもとで…



このK君とは、中学の野球部で一緒になり、
今でも、時々に一緒に飲みに行っている仲良しです。


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2013年02月04日 付け『心に青雲』ブログ「柔道日本代表女子たちを叱る」に寄せて…

2023-06-24 15:41:25 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月05日
2013年02月04日 付け『心に青雲』ブログ「柔道日本代表女子たちを叱る」に寄せて…

過去の『心に青雲』ブログが私に与えてくれた変化は計り知れないものがあろう~

今日は上記の記事を読んでの感想を率直に書いてみた。

ブログ主の書いたような「体罰容認」的指導論は、私自身の個人的被指導者的立場からは共感できるものであった…

…しかし…である~「体罰厳禁」が社会的一般的認識になりつつある現代日本社会において、あのよう持論を展開する指導者をどれだけ多くの人間が彼を信頼して彼についてゆくだろうか…

既に信頼関係の形成されている被指導者なら兎も角も…新たな被指導者に対して、あのような持論を展開したら、どうなるだろうか?

世に言う一般論は、どんなに正しいものであろう~とも~それが一般的であればある程に現実の指導場面での、そのままの形での適用は難しいものがあるのだろう…


ブログに書かれた言説を読みつつ想い出した事は、以下のような事であった。

「夢」講義に書かれていた、宗教の変遷過程。過去に宗教一般で安堵できていた人間が、その後、それでは安堵出来ずに、宗教が分派、個別化、していった変遷過程を…

私が初めて小三担任になり、日々怒鳴り、叱り散らし、体罰も辞さない姿勢で、日々児童と関わり、児童達は、そんな私を「鬼」、「二重人格」…と言いながらも従ってくれた過去を…

また、中一担任になった時、小学生と同じ方法で生徒と接したら、小三担任の時のような指導効果を得られずに悩み苦しんだ過去を…

塾で中2の生徒に教え始めた時、塾とは勉強したい生徒が来るものなので、厳しく指導したいと思い、(体罰は無し)真剣な口調、目付き…で厳しい要求をしたところ…十数人いた塾生の半分以上が辞め、男子数人と女子1名が残っただけであった現実を…。

最近では、以前なら私が叱ると『自分が悪い』的顔で泣いていた息子が、小五の現在では、叱られると『自分は悪く無い』的顔で泣いている、その息子の成長、変化の現実を…






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