新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今日は、三連発!

2024-08-03 11:40:25 | 「わたし事・学」

今日は、三連発!


小学3・4年生の頃に音楽で國歌に関する授業があった。
教師が、アメリカ、イギリス・日本…色々の國歌を聞かせてくれた。


その時、転校生で中国から帰国子女がいた。
歌う事が得意な彼が「その國歌」を披露してくれた

その時に最後の部分で大騒ぎになった事を思い出した。


~その最後の部分~

「…前進! 前進! 前前進!」である。

文字で見れば、何の可笑しさ・面白さのない二(三)字漢字熟語なのに…


また、中国語読でも…


「チェンチン!チェンチン!チェンチェンチン!」なのに…

だが…当時は、上記のような文字漢字表記がなく、
あるのは彼の声だけだった。

その彼の唄声が、皆には「チェン<チンチン>」と聞こえて~
男子が「わあ~チンチンだ!」だった。



これは、単なる笑い話・想い出、なのだが…
実は、音声・言語表現の恐ろしい所でもある!


同じ言語で、同じ表現・内容の筈なのに…
その中身・理解が十人十色になり得てしまう。



言語の意味・概念は社会的なのに…
個人の駆使している言語・表現は……???

コメント (8)
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究極の「二重化」の話

2024-08-03 11:09:48 | 「わたし事・学」
究極の「二重化」の話



「二重化」とは、感覚した当初の「対象・像」と、
更なる関わり継続結果による更なる「対象・像」の「二重の対象・像の創出」。
ただ…当初像・連続像…の自覚なく、少しずつ継続的な創像では「二重化」意識はない。

「二重化」と感覚可能なのは、当初の対象・像が、
「ただの一時的な対象の反映像」から「連続的な対象の観念像」へと量質転化化が不可欠。

「反映⇒反映⇒…観念像」へ
そして、そこから「その観念像」を抱きつつ(問いかけ的な対象・像)…
同一対象と引き続き更に関わり続けて新たな反映像を求めた時~


外観から感覚可能な反映像の観念化、
次に、その対象の言語表現から、
その意味・理解から認識可能な対象の「五感感覚的には反映できない対象・像の想像・創出」


言語表現は聴覚のみの、対象の「記号的な単感覚的反映」…
それでも、その言語表現を、聞き手が自己の知識・体験・経験・人格…
の全てを用いての正しく対象に即した「観念的実体化」が、
自己認識内の対象の「対象的な二重化」なのだろう。


以上の記述は何の為?
それは、私の「二重化」に関する頭脳活動の言語化の為、

「頭脳活動の過程」の言語化と「頭脳活動の結果・結論」の言語化~

ある人が、その頭脳活動の過程の言語化した時、それは「その人の頭脳活動の言語化」であり、
別の人が、同じような頭脳活動をしたとしても、その過程の言語表現は同じ言語表現にはなり得ない。


ただし、頭脳活動の過程ではなく、結果・結論を言語化した時、同じ言語になり得る。



頭脳活動の言語化・表現は、「具体的な頭脳活動」、「具象的な頭脳活動」・「抽象的な頭脳活動」はあり得ても…

その人の頭脳活動には「具体的・具象的・抽象的」はなく「一つの頭脳に一つの頭脳活動」。

活動は一つ、言語表現したなら三種!


従て「便意・排便」を、「認識と実践」or「機能と実態」と読み替える事も実力あるなら可能!


そうなのです!
気付いてしまったのです!


唯物的と観念的の相違を~


目の前のモノを見て、「イヌ」と答えたな「観念的」思考・思惟。

また、目の前のモノは、首輪をしてリードに繋がれ、人と歩いている。
顔は狐みたい、尻尾が丸まっている…
それは、私の愛犬マロンと同じ「柴犬」と答えたなら~
「唯物的」思考・思惟・観念表現。


ある物(椅子)を見て「椅子」と即答できた・したなら「観念的思考・表現」
ある物(椅子)を見て、その特徴(知識)、その用途(知識)、その構造(知識)…から「椅子」と結論付けたなら「唯物的思考・観念的表現(椅子とは観念的実体・名称)」。


知識として、知ってしまったモノなら、その知識・言葉で答えられる。
しかし、見た事・聞いた事・食べた事も全く知らないなモノは、
実際に、見て・触って・舐めて・聞いて・嗅いだ事しか、書けない・言えない。




誰にも、弁証法の姿は感覚不能!
しかし、その感覚不能だった弁証法を感覚した人物がいたなら、
その人物の個性的な認識を社会的な言語・表現…を駆使して弁証法を表現しようとするだろう。
もっとも…彼が、学者・教師…他人に自己の認識を伝えたい欲求のある者達なら…



そうそう失念するところだった!

対象が人間の時の「究極的な二重化」とは、
その対象・人物の「頭脳活動への二重化」なのだ!
その為には、その人の言葉・言語表現の意味の、その人的な理解不可欠。




認識も言語表現も、
それらは、対象・人物の頭脳活動の過程・結果の表現なのだから~


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今日も またまた「便意と排便」の話

2024-08-03 10:10:24 | 「わたし事・学」

今日も またまた「便意と排便」の話

今朝、一昨日と同じような「便意」を感覚した。
でも…一昨日の今日の事なので、前回の失敗?を想い出し、
確りと、その「便意」の強さを感覚した。

少しすると、「もう~出そう!」感覚になり、急いでトイレへ~
しかし…残念な事に、そこから一昨日と似たような感覚が…
それは、糞詰まり・硬い便が、詰まっていてでない感覚~

この時、便意の強さと排便の容易さが、
比例しない場合もりあり得る体験・体感をした。


そこで…ゆっくり落ち着いて、腹の中の便を想像・意識して、少し少し出るような感じを~
しかし、なかなか、出そうな気配がない!
それでも…辛抱強くイメージを続けた。途中『このまま出せない時は病院かな…妄想』

このまま病院は嫌だ!…
他に方法がなく、仕方ないので、優しいイメージ的な踏ん張りではなく、
レベルアップした腹を力ませた踏ん張り!

すると…少し出そうな感覚が…
その出そうな感覚を頼りに、今までにない強烈な踏ん張りを~
少し先が出かかった感じ、そこで更なる最高度の強烈な力み踏ん張りの継続を~!

今回のような踏ん張り・力みの継続は、何年?十何年?数十年?ぶりだろうか…
殆ど、忘れかけていた「力み=力の入れ方」であった。

それでも…その力の方向が、便を肛門へと押し出した!
結果的に、少し硬めでもコロコロではなく直径3cm・長さ10㎝くらいの立派な大便が出た!

そして、排便後、出切った・出し切った後、その括約筋が、なかなか肛門の中に収束しない…
そのような出っ放しの括約筋感覚は、毎回ケツ穴を拭こうと、触れた時に感覚している

子供の頃・若かりし頃は、その排便中に、出て活躍している括約筋は、排便後、殆ど即、尻の中へ戻っていた。


いつの頃からか、毎回のように、
左手に持った、水に濡らし丸めたトイペーで、括約筋を押し込むようになっていた。


このように、その踏ん張り・力みの強烈さは、
肛門の括約筋に強烈な活躍を求めて、
結果的に肛門外ほいつも以上に露出してしまう…ようだ。


若かりし頃の昔々の私は、括約筋の存在を実感していなかった。
それでも…何かに書いてあった「…水で濡らしたトイペーで拭くといい」を信じて、
いつの間にか、毎回、実行するようになっていた。

その過程で、拭く時に、
時々「痛く」感じる事がある事に気付き。
「痛い」と「痛くない」の違いを意識したのだろうか…

ある時、指にソフトでツルツル感を感覚した。
それが、括約筋とは、その後にし知る事になった。


濡れたトイペー以前は、時々排便後にケツの穴が痒くなる事が多々あった。
今考えると、乾いたトイペーで便を完全に拭き取っていない!為の痒み…
または、乾いたトイペーで力を入れすぎで拭いた為、少々傷つけてしない治る時の痒みが…













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