誠さんから、頂いた以下のコメント~
>南郷氏への評価は「ずる賢い」「解けてないのに解けているかに装う」「自分はやらずに弟子を実験台にしている」といった散々なもののようですよ。
~から「ズル賢い」について考えてみた。
先ず思った事は、この「ズル賢い」「南郷氏への評価」である。
次に南郷氏の事をあまり良く思っていない人・人達の評価であろう。
南郷氏の事を良く思っている人・人達なら決してこのような評価?しないだろう。
ここでの私の認識を、誠さんへ「宮本武蔵」の例えで伝えようとしたが…
それは、どうも…上手くいかなかったようである。
その理由は、
私が知り得ている知識からの「宮本武蔵」像と、
誠さんの知識からの「宮本武蔵」像の相違…?
それとも、両名の南郷氏への想いの相違…?
そんなこんなで…「ズル賢い」を思い・考えつつ、ネット検索したら、以下の記述を発見した。
~~~~引用開始~~~~
「ずる賢い」と「賢い」の違いはなんですか。
私には良い意味での「ずる賢さ」は「賢さ」に通ずる気がするのですが。抽象的ですみません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/...
あなたのおっしゃる通りです。
ずるくてもずるくなくても、賢さには変わりありません。
しかも、ずるいという意味は非常に曖昧で、人によってその評価は変わります。
例えば、木下藤吉郎が信長の家来から頂点にまで上り詰める過程は、見方によればずるいと言えるかも知れません。
また事実、ずるいことをいっぱい行っているようです。
しかし、それは彼のいわばポリシィ(戦術、謀略)なのです。
彼のずる賢さのために流さずともいい血を流さないで済みました。
そう考えるとずる賢さも賢さと言えなくはありません。
柴田勝家から見た秀吉。淀君や秀頼から見た家康。いずれも、非常にずる賢い。
歴史とは、また戦とは、はたまた政治とはリアリティの世界に属し、そういう世界では賢さとずる賢さが紙一重と言った場合が多分にあります。
敗者からみた勝者はだいたいずる賢く映るものです。
他者がいかに評価するか。そこにその言葉の真義があります。
~~~~引用終了~~~~
そうなのです!
>敗者からみた勝者はだいたいずる賢く映るものです。
>他者がいかに評価するか。そこにその言葉の真義があります。
なので…誠さんが、聞いて知った南郷氏の評価!
それは、敗者達の「勝者・南郷氏」への評価という類。
ならば、このような南郷氏への否定的評価が多い程に
南郷氏に敗れた者が多い、という事になるのだろう。
そうそう~
歴史上に名前を残している大人物・偉人は、
「ズル賢い」的な評価を受け安いモノのようである。
実際、この部分は余り拘らずにスルーするのが玄和さん側にとっては得策じゃないかと思うんですが。自由びと氏が既に稽古から遠ざかり試合もしないがゆえに簡単に「勝者と敗者」なんて図式で南郷氏の勝利を語ろうとするのかも知れませんが、武人の武徳のカケラも微塵も見られない幼児性を感じさせる行為ですね。そこは梅雨氏と対照的で、それは段位にも反映してるんでしょうか?
南郷氏を擁護する自由びと氏からは師への愛情が窺われるわけですが、南郷氏が試行に執筆していた経済高度成長期には大学に行く者も増えていて、高学歴で武道の一家を成した人も珍しくはなかったわけです。そうした先生方は己が修行し弟子を育成する中で南郷氏の著書に書かれていない「答え」を求めて邁進し、自分の答えを得ると同時に「南郷氏の論述はズルいな」と結論づけたわけです。
先生によっては南郷氏の論述を「罪作り」だとも評していますね。「罪作り」って辞書を引くと純真な人間を欺し惑わすことらしいんですが、もしもそれを言ってる武道家が大山倍達総裁だったりしたら、自由びと氏は世界に広がって多くの弟子たちに支持された大山倍達総裁が南郷氏に敗れた敗者だと述べるのでしょうかね?
前に自由びと氏の述べた「人生」ということでいえば玄和さんは国立や私立の一流大学に支部を作ったことが戦略的に良かったと思いますね。優秀な人材が会員として入会してくるわけですから。何にしても「人を得て」ということはあるわけで箸にも棒にもかからない人間を玄和の指導力で一流に育て上げるわけじゃないわけですよ。南郷氏の弟子には自由びと氏のような人物だっているわけですし。
ですが、一流大学に支部があるのは何も玄和さんばかりでなく、優秀な人材は他の流儀にも沢山いるわけです。
どう思いますか?自由びと氏。この話を更に詳しく論じたいと考えますか?
これって恐らくは史実として残されている話じゃないんだと思いますよ。五輪書にも二天記にも書いてないんでしょ?
私も管見外ですが柴田連三郎の対談書で武蔵が卑怯者だったようなこと述べてるらしいから、柴田連三郎の小説なんかに登場する話なんじゃないですか?いずれにしても大東亜戦争後の時代劇小説での話でしょう。
宮本武蔵の剣術家としての生き方だとか戦術については五輪書を深く研究するのが一番じゃないかと思うんですが、五輪書に南郷氏の『武道とは何か』に書いてあるような欺し討ちをやれと書いてあるんですかね?
でも、相撲でも「横綱相撲」というのがあって勝てば良いというものでもなく、横綱らしからぬ勝ち方したら非難されるわけじゃないですか。もしも宮本武蔵が「参りました」と降参の意志を示して油断した相手の隙を突くなんてやり方をしたならば我々日本人は武蔵を剣聖とも剣豪とも認めないように思いますね。
日本の剣術って「神道〇〇流」なんて名称のも少なくなく「神への道」を志向するようなところがあるから、武道を修行する者はある種の神々しさを身に纏うわけでしょう。
それを自由びと氏が述べるように「勝つことが全て、生きることが全て」だとしたならば、南郷氏が全集で発表している「玄和の将」の「将とは何ぞと人問わば、名誉の重さ命より大切なりと分からせて人を率いる人ならん」という歌詞も生きて勝ち残る賢い人間の上手な嘘で、実際は「名を捨てて実を取る」という賢い嘘八百人間だということになりますね。
自由びと氏の師を思う気持ちも尊いのですが、身贔屓というのは高貴な人間は敬遠するようですよ。
>実際、この部分は余り拘らずにスルーするのが玄和さん側にとっては得策じゃないかと思うんですが。
何が、どうして、どのように、得策でないか,私には理解でき難いです。
そもそも…今の私は、玄和さん側でも、反玄和会側でもなく、ただの自由びと、なのですよ。
>どう思いますか?自由びと氏。この話を更に詳しく論じたいと考えますか?
何の話?
「ズル賢い」の事ですか?
その内容は記事の通りなのですが…
まだ何を詳しく論ずる必要がある、のです。
もしかして…これじゃ~誠さんには不服なの?