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「概念と観念」の話

2024-10-05 12:16:01 | 「わたし事・学」
「概念と観念」の話


以下はネットからの転写である。



観念と概念

概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。観念は対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたものです。したがって,です。概念は外的・共通的なものであり,観念は内的・個人的なもの

概念は物自体に関したもので,心の働きとは無関係ですから,例えば「数とは……である」というように,その概念の定義が与えられたからといって,その意味内容がわかるとは限りません。
観念は認識ですから,程度の違いがあります。物の観念を育てることは,物についての認識を深めることであり,物に対するイメージを豊富にすることです。

例えば,6という数を見た場合,ブロックが6個ある,または鉛筆が6本あるといった具体的な存在が頭に浮かぶこともあるでしょうし,トランプの6のカードやサイコロの6の目のような象徴的な図を思い描くこともあります。また,計算に関連して,5+1と見たり,3×2と見たりすることも考えられますし,順序的に5の次の整数と考えることもあります。これが6のイメージです。これは,その数が出てきたときの様子に左右されますし,人それぞれによっても違います。こうした数に対する豊富なイメージ,つまり数の観念があれば,場合場合に応じて適切な姿を思い浮かべることができ,数を生かしていくことができます。

また,量は単位と数値で表されて初めて概念となります。しかし,実際の量は経験的なものであって,その経験の過程では初めから数値があるわけではなく,漠然とした大きさの感覚,つまり量の観念があって,それが概念化され客観化されて数値表現に至るのです。
このように,算数では,概念の理解ということよりも,観念の育成ということが,目標となるのです。



カントの物自体論とは、現象界の背後には五感で認識できない世界があり、これを「物自体」と呼ぶという考え方です。物自体については、次のような特徴が挙げられます。
我々の感官を刺激して表象を生じさせるが、その実態は不可知である
時間、空間、因果関係といった規則から自由である
人間が認識する姿とは別の姿で存在している

カントは、物自体を「コペルニクス的転回」と呼ぶ新説として提唱しました。また、物自体を不可知とする「不可知性テーゼ」や、物自体にカテゴリーを適用することはできないという「カテゴリー適用不可能性テーゼ」を提唱しています。

意味と概念の違いは、意味は言葉について知っていることであり、概念は物事や事柄に対して大まかにまとめた意味や内容であることです。

意味は、人が言葉について知っていることで、その言葉について説明するものです。同じ日本語を話す人であれば、ある程度は共通している意味知識を共有しているという感覚を概念形成の原理が支えています。



一方、概念は、物事や事柄に対して関係する意味や内容を思い浮かべることです。物事から、くもの糸のようにたくさんの意味や内容のネットワークを繋いでいくと考えると、分かりやすいでしょう。概念は、一般的な捉え方であり、共有している解釈です。



「固定観念」とは?意味や具体例、「固定概念」との違いを解説 -
「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。

固定観念とは、思考が束縛され、考えや価値観が凝り固まっていることを表す言葉です。
周りの状況が変化していても自身の考え方を変えず、人の意見も聞かないという頑固な考えや意識のことを指しますも


固定観念」とよく似た言葉に「固定概念」があります。
「固定概念」は、辞書に載っていない言葉で、「固定観念」の誤用といわれています。

「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。
言葉として「固定概念」は辞書に載っていない誤用であると覚えておきまし

↑~
上記の記述から以下のような事を思考した。
上記の記述では~

>「概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。」
>「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。
>概念は外的・共通的なものであり,観念は内的・個人的なもの


ここで問題!
「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」は、
誰が?どこに?まとめて、あるの?

その「おおまかな意味や内容」は、
誰が、どのようにまとめ、どりように定義するの?


それは当然、人間・ある人物であろう。
その人物が対象の意味や内容を認識して、おおまかにまとめる、という事であろう。
しかし、十人十色・千差万別の認識を抱くだろう人間が、同じ対象に、同じような大まかな観念をを抱けるのだろうか?

概念が「モノコトの大まかな意味や内容」なら、
その概念を認識したのが、大まかな概ね観念=概念、と言えよう。

ここに「概念の二重性」が考えられる。


「対象も持っている概念」と「それを認識した人物の概ね観念(概念)」。
理想は、概念=概ね観念…であろうが…「現実は≒」。


その完全一致を目指して、その人物は、その対象の概念を自己の概ね観念で「概念規定」をするのだろう…
それが>「概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。」

対象の概念を自己の概ね観念に基づいて「定義」する事、「概念規定」なのだろう。

>「このように,算数では,概念の理解ということよりも,観念の育成ということが,目標となるのです。」

実に意味深い記述であろうか…
抽象的な「数」の概念理解とは、直接に「数の概念」そのもを理解するのではなく、
抽象的な「数」を具体物に置き換え、その事実の観念化から始める。
そして、多くの観念を創像して、大まかな観念から「概ね観念=概念」を理解・創像・認識していく。


>「カントの物自体論とは、現象界の背後には五感で認識できない世界があり、これを「物自体」と呼ぶという考え方です。」

物自体とは、物自体の存在している世界がある、とも言えるという事かな?!
これって、プラトンのイディア論…的ですね。

それは、言うなれば「人間の認識の世界・観念界」なのだろう。
ただ、全ての人間の観念界=イディア界とは、なり得ない。

人類の目標・目的は、自己の観念界を現実界に近づける事?
ただ「現実界に近づける」と言っても、その人物の眼前の現実は、現実界の一部に過ぎない…
どんなに頑張っても、常に「一部」しか認識できない人間に全世界・現実界に近づく事は至難。

だから、人は、自己の眼前の事実を、他人に弁じて、
その他人との相違から、自己の部分性を知り・理解するのだろう。


言うなれば、人類・人間は、現実界と観念界の二重の世界を生きている。
現実の世界は、常に一つ!
でも、観念界は、人類・人間の数だけ存在している、のだろう。
それも「十人十色」で「千差万別」な人類・人間の観念世界の存在が…



因みに最近、やっと気づけた事。
それは南郷氏の著書に書かれていて、もう過去に何度も読んでいてのに…
なのに…全く記憶できていなかった事。

「十」と「千」の違い!
数の大小・多少の違い!


昔の人類「一、二、沢山」の時代。
両手の指「十」で最大…
両手・両足「二十」が最大…
「一・十・百」「千」で最大…万札なく千円札が最大…

「十人十色」は、十が最大の時代~
「千差万別」は、万が最大の時代~

「森羅万象」も「万」が最大!






>意味と概念の違いは、意味は言葉について知っていることであり、概念は物事や事柄に対して大まかにまとめた意味や内容であることです。

>意味は、人が言葉について知っていることで、その言葉について説明するものです。同じ日本語を話す人であれば、ある程度は共通している意味知識を共有しているという感覚を概念形成の原理が支えています。


ヤッパリ、同じ言葉でも、その言葉の意味するモノが違うなら、その意味するモノの概念が違う。 
結果的に、同じ言葉なのに、その概念が違う。





また、同じ言葉でも、人によって、その言葉の「大まかな観念・概ね観念」が違えば、
同じ言葉で、その意味するモノも同じ…なのに、その概念の相違があり得る…だろう。


最後に「嘘と誠」・「正直・嘘吐き」について…

自分に対して「正直な者」は、他人に対しても「正直か者」か?
この解答は~
自分の感情に満足する為の正直・嘘吐きか?
社会の常識に従っての正直・嘘吐きか?
自分の思考に即しての正直・嘘吐きか?
自分の夢の為の正直・嘘吐きか
自分の成長・将来の自分の為に正直・嘘吐きか?

絶対的・常に「正直・本当の事を言う」人間も
絶対的・常に「嘘吐き・嘘を言う」人間も、ありえないのだろう。


あり得るのは、「気まぐれ天使」なのだろう?


人間の不思議・面白さを実感してのは、
「逆さメガネの実験」の事をネットで知った時であろう。


「嘘つく」事に、快感を感じ続けている人物(ついた嘘で失敗ナシ)は、
「自分嘘を本当だと信じ込める」正直な嘘つきになり得てしまう、のだろう。


正直村と嘘吐き村の二択なら、
正直村の嘘は、嘘つき村、嘘つき村の嘘は正直村、
だから「あなたの村は…」の質問が可能。

しかし、「正直村・嘘吐き村・気まぐれ村」と三択の場合、
または、嘘つき天使・正直天使も「天国出身」という一択の場合は、
「あなたの村(国・出身)…」の質問では、ダメなのだろう。

また、「ここが正直村だと質問したら、ハイと答えますか?」にしても、
確かに「ハイの嘘はイイエ」だが…

ここで「分かりません」と答えたなら、どうなのだろうか?
確かに嘘つきなら、その村が、正直村なら「イイエ」だが、
その「ハイと答えますか?」に対して「イイエ」では、「本当の事イイエ」なので、
嘘のイイエの反対の「ハイ」だろうが…

それでも…
その「答えは分かる」という認識に対いして、
その「答えは分かりません」という答えは嘘になり得る。


従って、
事実・現実レベルの「正直村か否か」に対しての「ハイ・イイエ」と、
また、認識レベル「分る・分からない」~的な解答があり得るだろう。
これは、事実・現実レベルの嘘・誠ではなく、認識レベルの嘘・誠と言えよう。
















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1 コメント

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Unknown (ブッタ)
2024-10-06 04:51:03
これもまた、勉強になりますね。
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