以下が前回の「お宅コメント」の続きである~
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
「お宅コメントへの私コメント」
>コメントを書いた人
>ドゥルガー
>コメント
>お宅、否、お前の認識ならぬ観念が南郷継正の武道家として、そして指導者としての全てなんだよ。
私コメント~
その通り?!なのでしょうかね…♪♪♪
「武道家としての指導者」だから、武道としての空手、武道居合、武道合気…
を指導者としての責任において、それらの指導を全うしている、のでしょう。
学者としての南郷継正は言うなれば「おまけ」であり、
武道修業・修行を弁証法的・認識論的・論理学的…に実践した結果の「おまけ」ですかね…
と言うか、弁証法・哲学・学問を求めた結果である「武道家」が「おまけ」なのかも…
>お前の嘘八百が、全国の武道家たちの南郷の著述に対する不満であり怒りの正当性を語っているのだから。
私コメント~
お宅の私への「お前」とは下品で乱暴な呼び方ですね!
私のお宅への「お宅」の呼び方の方が上品ですよ!
>「武道の定義」=だから何?
私コメント~
え?「だから何?」とは…
お宅って~それでも人類?人間?なの!
お宅には、人類・人間が「道具」を創る時の、
創出物の目的意識・「定義」の必要性認識が全くない…とは驚きですね!
誰が…「ハサミ」を作るのに、
「挟んでモノを切る道具」の定義を無視して、
「穴掘りの道具」(定義)の道具を作りますか?
>「生命を懸けた」=だから何なの?
私コメント~
またまた~「だから何なの?」とは、泣けてくるね…涙・涙・涙
それでも…お答しましょう!
いいですか~よ~く・目を大きく見開いて確り誤読・誤解のないようお読みなさい!
それはね~
「自分にとって自分の人生で一番大切・大事な生命」さえも失える覚悟・精神の創出・養成の為でしょうが…
>「南郷継正にも言いたいことがある」=だから何だって言うんだい?人間だったら誰にだって言いたいことぐらいあるだろう。
「だから教えてあげよう!」
「生命の賭ける・失える覚悟」を、普通には「必死」と言うでしょうが…
そして、「人が物事を必死に頑張りやり通す」事ができた時、
そこに大いなる結果・成果が得られる事は、誰もにとって「一般的常識」ですよね!
だから…言葉としての「必死」ではなく、論理として精神としての「必死」修得の為ですよ!
こんな普通の常識も失念してしまう程に
お宅は「南郷氏に恨みがある」のですね(…憐憫の情…)
問題は、「言いたい事を言う」ではなく…
その「言いたい事の中身」と「その正しい理解」なのでしょうね…
>そして戦後の日本で空手の道場として成立している以上は、南郷が批判した全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟のように「生命のやり取りなどない、安全性に気を配った道場経営をしている」のに変わりはない。
私コメント~
空手道場で「スポーツ空手」や「健康空手」を教えても問題はない…のでしょうね。
「スポーツ」空手なのに、「武道」としての空手を教えるなら…少々問題はありますが…
それでも…その空手組織・道場主が
「現代武道=現代スポーツ」とでも、定義して教えれば、特に問題ないのでは…
個人的・組織的に「穴を掘る道具」としての「ハサミ」を作って、
「穴掘りハサミ」として売る事に問題がないのと同じようにね…
そもそも…
その組織に所属する人達が問題を感じなければいいんじゃない?!
>南郷の言う「生命がけ」というのは「日本刀は美術品として鑑賞するものでなく人を斬るもの」ということであり、「空手の突きや蹴りは寸止めで筋肉を鍛えて健康増進するもの」ではなく人体を加撃して相手を殺すもの、という意味だからだ。自分が相手を殺そうとする以上、相手も自分を殺そうとしてくる。相手を殺せなかったら自分が殺される。だから「生命がけ」なわけだ。
私コメント~
これも誤解・誤読ですね!
南郷氏の武道の定義は、
「武技を用いて生命を賭けた命懸け勝負の道」であり、
決して「生命を賭けた殺し合い」ではありません。
あくまで、最悪・最難関の「勝負の道」が「敗北=死」となるのでしょう。
弁証法的に書くなら、「最悪の事態を想定して、最善の結果を求めていく」モノでしょうが…
お宅って…南郷氏の著書を読んでいるのに…
今に至っても全くもって「弁証法的思考」ができない…のですね!
>南郷は全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟を向こうに回して「お前ら皆んな間違ってる。俺が正しいんだ」と威張りたかったんだ。
私コメント…
「威張のたかった」とは…それは「お宅の意識・認識」でしょうね…
だから、私を「お前!」と偉そうで乱暴な呼び方でしょうが…
これって「人は自己の認識・能力の範囲内で他人を認識する」ですね…
>お前の持ってる自信なんかは「生命がけの勝負」なんぞしなくても普通の社会人として成長していく過程で養われるもので、普通に人と会って談笑したり自分の意見を言ったりする自信を持つのに空手の自由組手なんぞ経験する必要はない。
私コメント…
凄いビックリ!
お宅には、「私の自信の中身」が分かるんだ…
しかし、それは誤解ですね。
それに…私は「観念的な生命賭け」を他人との勝負で実践した事はありません。
それでも、何度か下手すれば、死ぬ可能性ある失敗や事故に出会っています。
その時に感じた事は、「現実の『死』を意識できなかった」から、
自然体に体が危険を回避していた…ようだという事です。
私の過去の経験から言って、
少林寺拳法の「乱取り」も、寸止め空手の「自由組手」も、
「生命賭け」を意識するには至難です。
>お前が仮に、玄和会の実戦部隊を代表する田島翔鷹だとしたならば、その玄和会代表が私の前で顔に恐怖の表情を浮かべた事実だけは指摘しておこう。
私コメント~
お宅の「前で顔に恐怖の表情…」それって!超納得できます。
「文は人なり」ですから…
お宅のような妄想狂・変人・狂人を現実界で目の当たりにしたら…
普通の正常な人々なら
『ヤバい!(恐怖!)』、
『こんな狂人と関わって勝負したら、自分の人生も狂ってしまう!』
『ここは、逃げるが勝だ!』と思うでしようね…
だって…
狂人が「勝利して人を殺しても無罪でしょうが…」
正常人なら「狂人を殺して『殺人者』となり、まともな人生からの逸脱」です。
そもそも…「生命賭けの勝負」とは、その当人が決定した勝負ですよ。
どこの誰が…お宅のような狂人相手に「生命賭けの勝負」をしますか…
お宅には、
「生命賭けの勝負の道」での、
相手の強さに「恐怖する表情」と、
自分が勝利した結果に対する「デメリットに対する恐怖する表情」と、
または、真剣に闘って「勝利して相手を殺してしまった時の恐怖する表情」と、
相違を分かってしませんね。
そもそも…
「生命の賭けた勝負の道」の意味が分かっていますか?
「道」ですよ!
過去の武道勝負・決闘は「敗北=死」であても、それは、勝負の道の過程的事実であり、
現代の勝負では、生命を賭けて負けても「現実の死」は皆無でしょうね…
そもそも…現代社会で~
真面目に「必死」に物事に取り組んで、失敗して現実に死んだ人がいますか?
現代の「必死」がこのレベルなら…現実の死は、非現実的です。
だから武道では、
観念的な「武道の定義」とは、観念的な「死」を修行するモノで、
現実的な「肉体の死」を通して「修業」するモノではありません。
>人間、誰しも恐怖心はあるものだから別にそれがどうしたわけでもないわけだが、玄和空手を真面目に稽古して飛翔隊の副長だとか肩書きはついたとて、見知らぬ相手に間合いを詰められたなら恐怖のために顔を引き攣らせる。
私コメント…
ヤッパリ何も分かっていない!
「勝負の道」とは、双方の同意の上の「勝負」であり、
勝負する必要のない相手に恐怖したから…何だっていうの?
「見知らぬ相手に間合いを詰められて恐怖」する人間のレベルを知らない!ね…
昔に読んだ漫画「男一匹ガキ大将」の中で以下のようなくだりがありましたよ。
ガキ大将(主人公)が、一人のただの老人と対面して恐怖した時、
その老人曰く、「お前は、鏡に映った、機関銃を構えている自分の姿」をみて恐怖した」
即ち、玄和空手達人達の恐怖とは、相手に映った己に恐怖している…
または、勝負する必要のない相手に襲われて瞬間的に倒してしまう…結果に対する恐怖かな…
>だが、そんなことは「だから何?それがどうしたの?」というだけのことでしかない。自信があろうが無かろうが、恐怖に顔を引き攣らせて小便をもらそうが、生命をかけていようが無かろうが、「だから何?それがどうしたの?」という唯それだけ。
私コメント…
そもそも普通の人々なら、道端で近寄って来た狂犬に恐怖するのは普通ですよ。
それでも、市役所の人なら、狂犬と確りと退治しますが…。
お宅が、他人から恐怖されるのは、
お宅の人間力ではなく、
お宅の狂人力なのでしょうね…
>そして全てを相手のせいにするウンコ南郷の配下。私に南郷の本を読まないように強要するのでなく、南郷に本の出版を止めるよう進言することもできないタワケうんこ。
私コメント~
高校時代も大学時代にも、各教科で先生・教授から教科書を指定され買ったモノです。
責任ある教育者や指導者なら役立つ・勉強になる書物・論文を指定するモノですよ。
それを買うか買わないかは、本人の意志の問題です。
組織に所属して組織指定の教書や論文を読むのが嫌なら、
その組織を脱退すればいいだけですよ。
過去に極真会館の通信教育を受けて時には、
高価な教科書や空手着を買わされましたよ!
玄和会に限らず…組織というモノは、そのようなモノです。
お宅は、玄和会以外の組織の実情を知らな過ぎますね。