「自由」と「他由」について~
以下は、弥勒お宅のコメント記述。
「誰かに脅されてやらされたわけではない、戦争で沢山の異国人を殺した者でも「戦争責任者は指揮命令を下した上官にある」とされて無罪放免だった太平洋戦争のときの「他由」ではない、というわけです。」
ここでの「自由と他由」は以下のような意味。
>自由の「由」は「よる」「もとづく」という意味で、他に由らず、独立して、自存すること、つまり「自らにもとづく」「自らによる」ことが自由です。自分の本心、良心に従い、他人にその責任を任せないという意味です。
>一方、他由とは他人によって理由があって動いている状態、他人がやれと言うからやる状態です。」
さて…この転写して弥勒お宅のコメント…
戦争と戦争責任についての「自由と他由」だが…
例えばBが、Aから、「Cを殴れ!」言われて、殴ったら「他由or自由?」…
その判断・判定は、殴ったBの認識の問題であろう。
(ア)B-「殴らないとAに殴られる・Aが恐ろしい…ボカ!」と思った。
(イ)B-「丁度よい!俺のCに腹が立っていて殴りたかった…ボコボコ」
(ウ)B-「どうしようAは友達…言う事に聞かないと友達関係が…ボカ!…」
(エ)B-「CもAも仲良し…殴るとCに悪い、でも言う事聞かない・殴らないとAに悪い…」
上記のようなBの思い・認識像の基づくなら~
(ア)は、他由
(イ)は、自由
(ウ)は、他由・自由
(エ)は、自由・他由
さてさて…法律的な判定・判断は如何に~
「戦争責任について」も…
どうような個人的な葛藤があるのだろう…
そうそう…先日、新一年生の担任から聞いた話。
B君を殴ったA君曰く~
「Bが先に殴ったから殴った」…
「お母さんは『先に手を出した方が悪い…』と言っていた。」…
「だから僕は悪くない!」…
この場合は、Aの「僕は悪くない」は正しいか?
「先に手を出した方が悪い」が正しい〇…とは、殴られた瞬間の「〇×」あり…
Aが、殴られてもBを殴っていない場合は「〇」。
でも、AもBを殴ってしまった!から「〇」は無効で「×or▽」。
本来は、お母さんは、
お前は、まだ小学生だから友達に先に手を出されて、
我慢できない時はやり返してもいいけど…
その場合は、殴った方も殴り返したお前も悪い、二人で先生に叱られなさい!
でも、お前が我慢出来て、殴り返さなかったら、殴った方が悪い。
~伝える方が正解なのだろう。
実際に現実的でも「喧嘩両成敗」。
ただ、相手に大怪我を負わせたら更に、「治療費・慰謝料…」の出費があろうが。
口論の途中で、先に手を出したら、口論はそいつの負け!
そこで、殴られ、殴り返したら喧嘩の発生!
喧嘩の原因は先に手を出しBの方でも、殴り返した結果・喧嘩の発生はAの問題。
仮に、Aが、直ぐに殴り返さなくて言葉で反撃して、
Bが更に殴ってきて…そこでAが殴り返したなら…
この場合は、法律的には「正当防衛」で無罪。
学校的には、「正当防衛」はなくても…
少なくても、一度は「殴る事の我慢」は評価されるだろう…
喧嘩は、互いの自由(自己の思い)と自由(自己の思い)のぶつかり合いであろう。
双方共に、己の「思い通り」の正しさを主張するだろう…
だから、「喧嘩両成敗」であり、
人類の「自由vs自由」は、武力・暴力…行為ではなく、
口論・議論…での解決が求められる…
動物同士なら、相手に勝てないという本能的な感覚があれば、場所の移動・逃げて終了。
逃げられない時には、「窮鼠猫を嚙む」なのだろう。
しかし…本能的でなく、武器・武力が使える人類・人間は、動物以下のバカモノであろう。
核兵器…で、人類は自ら人類を滅ぼそうと、してしまっている現状では…
確か、吉田拓郎の唄の歌詞に…
「分かり合うより、確かめ合おう…」そんなフレーズがあった…
互いに「分かり合う」事は無理・至難であっても…
互いに「確かめ合う」事は可能なのだろう…
>「誰かに脅されてやらされたわけではない、戦争で沢山の異国人を殺した者でも「戦争責任者は指揮命令を下した上官にある」とされて無罪放免だった太平洋戦争のときの「他由」ではない、というわけです。」
>戦争で沢山の異国人を殺した者でも…
敵を殺す事に快感を感じて、積極的に「敵・人殺し」をしたなら…
確かに、参戦の契機は、国家的な使命で「他由」だが…
その戦争中の行為・行動は、自己の「積極性」であり「自由」となり得るだろう。
人間の「自由・他由」は、現象している事実だけではなく、
その当人の「思い通り」が絡み関係するモノ!
こんな、弥勒お宅の言説のように、単純には、決めつけられないモノなのだろう。
以下は、弥勒お宅のコメント記述。
「誰かに脅されてやらされたわけではない、戦争で沢山の異国人を殺した者でも「戦争責任者は指揮命令を下した上官にある」とされて無罪放免だった太平洋戦争のときの「他由」ではない、というわけです。」
ここでの「自由と他由」は以下のような意味。
>自由の「由」は「よる」「もとづく」という意味で、他に由らず、独立して、自存すること、つまり「自らにもとづく」「自らによる」ことが自由です。自分の本心、良心に従い、他人にその責任を任せないという意味です。
>一方、他由とは他人によって理由があって動いている状態、他人がやれと言うからやる状態です。」
さて…この転写して弥勒お宅のコメント…
戦争と戦争責任についての「自由と他由」だが…
例えばBが、Aから、「Cを殴れ!」言われて、殴ったら「他由or自由?」…
その判断・判定は、殴ったBの認識の問題であろう。
(ア)B-「殴らないとAに殴られる・Aが恐ろしい…ボカ!」と思った。
(イ)B-「丁度よい!俺のCに腹が立っていて殴りたかった…ボコボコ」
(ウ)B-「どうしようAは友達…言う事に聞かないと友達関係が…ボカ!…」
(エ)B-「CもAも仲良し…殴るとCに悪い、でも言う事聞かない・殴らないとAに悪い…」
上記のようなBの思い・認識像の基づくなら~
(ア)は、他由
(イ)は、自由
(ウ)は、他由・自由
(エ)は、自由・他由
さてさて…法律的な判定・判断は如何に~
「戦争責任について」も…
どうような個人的な葛藤があるのだろう…
そうそう…先日、新一年生の担任から聞いた話。
B君を殴ったA君曰く~
「Bが先に殴ったから殴った」…
「お母さんは『先に手を出した方が悪い…』と言っていた。」…
「だから僕は悪くない!」…
この場合は、Aの「僕は悪くない」は正しいか?
「先に手を出した方が悪い」が正しい〇…とは、殴られた瞬間の「〇×」あり…
Aが、殴られてもBを殴っていない場合は「〇」。
でも、AもBを殴ってしまった!から「〇」は無効で「×or▽」。
本来は、お母さんは、
お前は、まだ小学生だから友達に先に手を出されて、
我慢できない時はやり返してもいいけど…
その場合は、殴った方も殴り返したお前も悪い、二人で先生に叱られなさい!
でも、お前が我慢出来て、殴り返さなかったら、殴った方が悪い。
~伝える方が正解なのだろう。
実際に現実的でも「喧嘩両成敗」。
ただ、相手に大怪我を負わせたら更に、「治療費・慰謝料…」の出費があろうが。
口論の途中で、先に手を出したら、口論はそいつの負け!
そこで、殴られ、殴り返したら喧嘩の発生!
喧嘩の原因は先に手を出しBの方でも、殴り返した結果・喧嘩の発生はAの問題。
仮に、Aが、直ぐに殴り返さなくて言葉で反撃して、
Bが更に殴ってきて…そこでAが殴り返したなら…
この場合は、法律的には「正当防衛」で無罪。
学校的には、「正当防衛」はなくても…
少なくても、一度は「殴る事の我慢」は評価されるだろう…
喧嘩は、互いの自由(自己の思い)と自由(自己の思い)のぶつかり合いであろう。
双方共に、己の「思い通り」の正しさを主張するだろう…
だから、「喧嘩両成敗」であり、
人類の「自由vs自由」は、武力・暴力…行為ではなく、
口論・議論…での解決が求められる…
動物同士なら、相手に勝てないという本能的な感覚があれば、場所の移動・逃げて終了。
逃げられない時には、「窮鼠猫を嚙む」なのだろう。
しかし…本能的でなく、武器・武力が使える人類・人間は、動物以下のバカモノであろう。
核兵器…で、人類は自ら人類を滅ぼそうと、してしまっている現状では…
確か、吉田拓郎の唄の歌詞に…
「分かり合うより、確かめ合おう…」そんなフレーズがあった…
互いに「分かり合う」事は無理・至難であっても…
互いに「確かめ合う」事は可能なのだろう…
>「誰かに脅されてやらされたわけではない、戦争で沢山の異国人を殺した者でも「戦争責任者は指揮命令を下した上官にある」とされて無罪放免だった太平洋戦争のときの「他由」ではない、というわけです。」
>戦争で沢山の異国人を殺した者でも…
敵を殺す事に快感を感じて、積極的に「敵・人殺し」をしたなら…
確かに、参戦の契機は、国家的な使命で「他由」だが…
その戦争中の行為・行動は、自己の「積極性」であり「自由」となり得るだろう。
人間の「自由・他由」は、現象している事実だけではなく、
その当人の「思い通り」が絡み関係するモノ!
こんな、弥勒お宅の言説のように、単純には、決めつけられないモノなのだろう。
私には子供がいませんから、こんな小学校一年生が喧嘩して殴り合ったらどう対応するか?思いつきませんからネットで検索してみたら読売新聞の記事で
「喧嘩は子供がお互いを知り合う大事なことだから、親は一方的に相手の子が悪いと言ってもダメだし、相手の親に忖度して子供に謝らせてもダメ。とにかく先ずは自分の子供の悔しさ、怒り、悲しさなどをしっかりと顔を見て受け止めて上げること。それから相手の子の気持ちも一緒に考えてあげるように」
と書いてありました。
ああ、こういうのが正に「智慧」というものだろうと感じ、自由びと氏の言っていた「家族」というものが社会の単位というか「子供の心を育む単位」というのを感じましたね。
殴るか殴らないか、喧嘩両成敗というのも、まあ、形式的には必要でしょうが、子供の心を受け止めるというのが本質的なことでしょう。
プーチンが圧勝で再選したのはロシア人がウクライナとの戦争を支持しているからだと残念に思っていますね。
その通りでしょう。
支援員になった当初…違和感・不思議感を持った箏がります。
担任は、子供同士の喧嘩について初めかに「ケンカはダメ!」と叱りつけるのではなく、
初めに、見ていた私(傍にいて見ていた時)の話も聞くのですが…
それから更に、その喧嘩した子供一人一人に再度、説明させるのです。
私なら、そんな二重手間のような話を飛ばして…状況分析を始めるのですが…
後で、気付いたのは、子供達の一人一人の状況説明に時に、大きな違いが生じている事です。
その時は、周囲で見ていた子供達の説明を求めます。
で…その理由について気付いた事は、
「人は見たいモノみて、見たくないモノは見えない」…
子供達は、自分が見た事実を言い、見ていない・見えない事は言えない…
それは言わば、主観的であり、自分の都合に良い事は思い出し、悪い事は失念する。
だから!こそ、その主観から、その子供の正直な思いが、滲み出てしまうのです。
真実は一つ、事実は人それぞれ!
この場合の真実とは、互い喧嘩に発展した。
個々の事実とは、
生々生成~ケンカ以前の当初の事実…例えば互いのふざけ合い。
一方的なふざけ過ぎ・止めない…口論へ~ふざけて叩いたから本気で叩いた…喧嘩へ発展!
見ていた児童が、他人に報告…喧嘩の停止・衰退・消滅…
ただ…昔、中二の担任の時、激しい殴り合いをしていた男子二人を止めずに見ていました。
最終的には、一方が、手を出す事を止めて終了…でしたが…
その後、特に訳を聞かずに、手を出す事を止めた方の子供の様子を見て、
やり続けていた男子に、「それ、やり過ぎ!同級生なら、もう少し手加減しろよ!」と言った記憶が…
その同級生同士での真剣な喧嘩の最中に、
「自分の方が強い」と感じたら、やり過ぎは禁物ですね。
また…相手が弱すぎなら、「もうやめよう!」と言って打ち切りもあり…でしょうね。
ただ…
>「子供の心を受け止めるというのが本質的なことでしょう。」
↑これは、これで間違いない、のですが…
再発防止の為には~
ケンカした子供同士が、理解し合える事。
言葉にするなら、「自分の悪い所・相手の悪い所」…
互いに、理屈ではなく、感覚的に、分かり合えるような、そんな話し合いへ担任が持っていける事。
どーなんでしょうね。私は教育の現場にはいませんから自由びと氏のした行為は不思議に思いますけど、ネット検索してみたら工藤勇一さんという中学校の校長先生が自由びと氏と似た考えを述べていました。
曰く「喧嘩を直ぐに止めてはいけない、周囲が仲直りさせようとしてはいけない、自分たちで始めたことは自分だちで解決さけないと自律心が養われずに他に依存する人間となる」という考えですけどね。
でも、まあ、ここで工藤さんが言っている喧嘩というのがどのレベルのものなのか?互いに無視し合うとか言い争うとかまでなら理解できますが、自由びと氏の書いてるような「激しい殴り合い」となると「暴行、傷害」で警察が出動する犯罪行為になります。それを止めずに見ていたというのは学校教員としてやるべきことをやらないでいた「不作為の罪」ではないかとも思いますけど、どーですかね?
殴り合いの喧嘩と柔道やボクシングなんかのスポーツとは全然違いますから、そこはやはり自由びと氏は「私は神である!」なんて錯覚したんじゃ無いか?という気もしますけどね。
どういうことでしょうか?子供が2人いて殴り合いをしたんですよね?ということは、どちらにも相手を殴りつけたい理由があった。その双方の理由が一致している必要はなく、A君にはA君でB君を殴りつけたい理由があって、B君にはB君でA君を殴りつけたい理由があった、それが聞き出せれば、次からそれを防止するよう子供の心に備えを作ることが出来るようにも思いますけどね。
やはり「実体と機能」のときと一緒で自由びと氏の言ってることは非常に抽象的で不明瞭なんですよ、端的には「おバカ」ということですけどね。
子供たちの見えるもの・見えないものというのは何ですか?見えないものが見えたなら殴り合いにはならなかったのですか?その殴り合いを防げたはずの「見えないもの」というのは何でしょう?
やはり学校教員と実の親・家族とは考え方が違いますし、学校教員では子供の心の深いところに入っていくことは難しい面もありますね。まー、子供同士で喧嘩したなんて話しは親にしない子のほうが多いんだと思いますけど。
自由びと氏の言う現状分析というのはどういうもの?
>コメント
>昔、中ニの担任の時、激しい殴り合いをしていた男子二人を止めずに見ていました。
>どーなんでしょうね。私は教育の現場にはいませんから自由びと氏のした行為は不思議に思いますけど、ネット検索してみたら工藤勇一さんという中学校の校長先生が自由びと氏と似た考えを述べていました。
↑~
捉え方・考え方は、人それぞれです。
でも言える事は~
「その自己の考え方・捉え方から生じた結果には、責任を持つ事」ですね。
>曰く「喧嘩を直ぐに止めてはいけない、周囲が仲直りさせようとしてはいけない、自分たちで始めたことは自分だちで解決さけないと自律心が養われずに他に依存する人間となる」という考えですけどね。
↑
それは、少々違いますね…
「ケンカは双方が納得する形で終わらせる」よう…という考え方。
彼に他人が中途で止めて、双方の納得がない場合は、また、どこかで喧嘩になる事でしょう。
だから、傍で見ていて、双方に「やり過ぎでの怪我」がないよう気を付けている事ですね。
>でも、まあ、ここで工藤さんが言っている喧嘩というのがどのレベルのものなのか?互いに無視し合うとか言い争うとかまでなら理解できますが、自由びと氏の書いてるような「激しい殴り合い」となると「暴行、傷害」で警察が出動する犯罪行為になります。それを止めずに見ていたというのは学校教員としてやるべきことをやらないでいた「不作為の罪」ではないかとも思いますけど、どーですかね?
↑
その二人とも特に格闘技をやっていないし…、ケンカ慣れもしていない中二ですから…
「暴行・障害」レベルではない…という判断はしていましたよ!
素人の殴り合い、それも中二、ケンカ慣れない!者達でてよ!
>殴り合いの喧嘩と柔道やボクシングなんかのスポーツとは全然違いますから、そこはやはり自由びと氏は「私は神である!」なんて錯覚したんじゃ無いか?という気もしますけどね。
ケンカ慣れしていな同級生同士の殴り合い…しかも、二人とも運動神経は良し!
そんな二人なら、双方とも相手のパンチをそれなりに避けられていましたね。
その現実の現場を知らず…喧嘩⇒暴行・障害…なんて~、
それは、現代の映画・アニメ・漫画から、非現実的な情報からの妄想レベルですね…
>コメント
>>見たいものを見て見たくないものは見えない
>の双方の理由が一致している必要はなく、A君にはA君でB君を殴りつけたい理由があって、B君にはB君でA君を殴りつけたい理由があった、それが聞き出せれば、次からそれを防止するよう子供の心に備えを作ることが出来るようにも思いますけどね。
↑
問題は、「殴りたい理由がある・ない」ではなく、殴ってしまった弊害。
その理由が「殴りたい理由になってしまった原因」の解明です。
例えば、
双方の理由が「相手が悪い…から」
または、「相手が先に殴ってきたから殴った…」
または、何が原因で「殴り合いに発展したか?」
事実関係を確認して、周囲の状況から、
「先に手を出した方の確定」…その理由は?
言うなれば、「殴りたくなった理由の是非・正当性」…
そうそう…以前に勤務していた特別支援学級で、
六年生同士が、突然に喧嘩になり、片方が逃亡・片方が追跡(校舎全体で…)
通常級の教室の前をも走って逃げる・追う~
それを延々と午前中の一時間以上繰り返していました。
最後に互いにやっと止めたので、二人から話を聞いたら、
Aは「急にBが後ろから叩いたから叩き返したら、また叩いて来たから~」…
Bは「Aの名前を呼んだのに気付かないから、背中をトントンした…怖い顔で叩いてきた、だから叩き返したら…」
~そこから逃走・追跡開始…
もともと二人は普通に仲の良い同級生…
ただ、肩をトントンされた時のAは、どうも何かあって非常に不機嫌だった。
その喧嘩の記憶は強烈ですね。
何しろ~途中で隠れているBに、Aが「もう止めようよ!」と言ったら…
素直なBは信じて姿を現した…そうしたらAはBを叩いて…Bがまた逃げ初め…逃走・追跡劇の続行…
その最後の二人の話し合い・確認し合いは、二人を校長室へ連れて行って、校長の目の前でやりました。
その時、校長室で、二人の児童と私に、お茶を出してくれてみんなで笑いながら?飲んだ記憶が…
この最終的な「確認・分かり合い」が無く、中途で終わっていたら…
発達障害で拘りが強い児童達ですから…
数日たって突然のフラッシュバック的に想起して「目の前をその相手を叩いて…」また喧嘩勃発ですかね。
>やはり「実体と機能」のときと一緒で自由びと氏の言ってることは非常に抽象的で不明瞭なんですよ、端的には「おバカ」ということですけどね。
↑
現実・事実的な「ケンカ」を知らないで…
よくもまあ~「おバカ」とは、
事実・現実的な無知とは怖いモノ知らずですね。
>子供たちの見えるもの・見えないものというのは何ですか?見えないものが見えたなら殴り合いにはならなかったのですか?その殴り合いを防げたはずの「見えないもの」というのは何でしょう?
↑
それは、上記の事実が物語っています。
日頃とても仲良しの「T君とH君」…
初めに、元気のないH君をT君が心配して後ろから声を掛けたのに…
返事がないので、「肩をトントンした」というT君の事実を、H君は、「叩いた!」と誤解・解釈した。
そしてT君は、「その事を理由もなくH君に叩かれた!」と誤解・解釈した!
その双方の相手の行為に対しての誤解が喧嘩の原因でした。
これが、この二人が「相手の行為・事実を主観的に解釈してしまった事実ですよ。
結論的に書くなら、
子供達には、相手の行為・言動…は見えて・聞こえても…
その行為の裏にある「相手の真意」が見えない・想像できない。
H君が大人なら、「トントン・叩いてきた時のT君の表情・態度…」を見て悪意がない事実が見える・読める。
だから、この場合も、H君が不機嫌でなければ…喧嘩には発展しなかったでしょうね…
普段のH君なら、「背中トントン」されて、振り返った「何?」と返答して終了だったでしょうね…
もっとも…普段のH君だったら…後ろからの呼びかけに即反応した事でしょうね…
>やはり学校教員と実の親・家族とは考え方が違いますし、学校教員では子供の心の深いところに入っていくことは難しい面もありますね。まー、子供同士で喧嘩したなんて話しは親にしない子のほうが多いんだと思いますけど。
↑
互いに納得し得て喧嘩は、きっと親・友達にする事はなく、その子供の中で完結でしょうね…
でも、納得できず不満の残った喧嘩の場合は、保護者に、その不満を訴える事でしょうね…
それでも…子供の話をあまり聞かない親には、話さないでしょうね…
>自由びと氏の言う現状分析というのはどういうもの?
↑
分析の結果⇒
今の弥勒お宅には、子供同士の喧嘩が分かっていない現状ですね!
なのに…分かったつもりで説いている。
その分かったつもりが邪魔して自由びと言説を「おバカ」と言い切ってしまっている現状。
それ故に、大人とは大きく異なっている子供同士の喧嘩の本質へ到達不能状態!ですかね…
>コメント
>>見たいものを見て見たくないものは見えない
>の双方の理由が一致している必要はなく、A君にはA君でB君を殴りつけたい理由があって、B君にはB君でA君を殴りつけたい理由があった、それが聞き出せれば、次からそれを防止するよう子供の心に備えを作ることが出来るようにも思いますけどね。
↑
問題は、「殴りたい理由がある・ない」ではなく、殴ってしまった弊害。
その理由が「殴りたい理由になってしまった原因」の解明です。
例えば、
双方の理由が「相手が悪い…から」
または、「相手が先に殴ってきたから殴った…」
または、何が原因で「殴り合いに発展したか?」
事実関係を確認して、周囲の状況から、
「先に手を出した方の確定」…その理由は?
言うなれば、「殴りたくなった理由の是非・正当性」…
そうそう…以前に勤務していた特別支援学級で、
六年生同士が、突然に喧嘩になり、片方が逃亡・片方が追跡(校舎全体で…)
通常級の教室の前をも走って逃げる・追う~
それを延々と午前中の一時間以上繰り返していました。
最後に互いにやっと止めたので、二人から話を聞いたら、
Hは「急にTが後ろから叩いたから叩き返したら、また叩いて来たから~」…
Tは「Hの名前を呼んだのに気付かないから、背中をトントンした…怖い顔で叩いてきた、だから叩き返したら…」
~そこから逃走・追跡開始…
もともと二人は普通に仲の良い同級生…
ただ、肩をトントンされた時のHは、どうも何かあって非常に不機嫌だった。
その喧嘩の記憶は強烈ですね。
何しろ~途中で隠れているTに、Hが「もう止めようよ!」と言ったら…
素直なTは信じて姿を現した…そうしたらHはTを叩いて…Tがまた逃げ初め…逃走・追跡劇の続行…
その最後の二人の話し合い・確認し合いは、二人を校長室へ連れて行って、校長の目の前でやりました。
その時、校長室で、二人の児童と私に、お茶を出してくれてみんなで笑いながら?飲んだ記憶が…
この最終的な「確認・分かり合い」が無く、中途で終わっていたら…
発達障害で拘りが強い児童達ですから…
数日たって突然のフラッシュバック的に想起して「目の前をその相手を叩いて…」また喧嘩勃発ですかね。
>やはり「実体と機能」のときと一緒で自由びと氏の言ってることは非常に抽象的で不明瞭なんですよ、端的には「おバカ」ということですけどね。
↑
現実・事実的な「ケンカ」を知らないで…
よくもまあ~「おバカ」とは、
事実・現実的な無知とは怖いモノ知らずですね。
>子供たちの見えるもの・見えないものというのは何ですか?見えないものが見えたなら殴り合いにはならなかったのですか?その殴り合いを防げたはずの「見えないもの」というのは何でしょう?
↑
それは、上記の事実が物語っています。
日頃とても仲良しの「T君とH君」…
初めに、元気のないH君をT君が心配して後ろから声を掛けたのに…
返事がないので、「肩をトントンした」というT君の事実を、H君は、「叩いた!」と誤解・解釈した。
そしてT君は、「その事を理由もなくH君に叩かれた!」と誤解・解釈した!
その双方の相手の行為に対しての誤解が喧嘩の原因でした。
この場合のTもHも相手が悪い・「理由もなく叩いて来た」です。
これが、この二人が「相手の行為・事実を主観的に解釈」してしまった事実ですよ。
結論的に書くなら、
子供達には、相手の行為・言動…は見えて・聞こえても…
その行為の裏にある「相手の真意」が見えない・想像できない。
H君が大人なら、「トントン・叩いてきた時のT君の表情・態度…」を見て悪意がない事実が見える・読める。
だから、この場合も、H君が不機嫌でなければ…喧嘩には発展しなかったでしょうね…
普段のH君なら、「背中トントン」されて、振り返った「何?」と返答して終了だったでしょうね…
もっとも…普段のH君だったら…後ろからの呼びかけに即反応した事でしょうね…
>やはり学校教員と実の親・家族とは考え方が違いますし、学校教員では子供の心の深いところに入っていくことは難しい面もありますね。まー、子供同士で喧嘩したなんて話しは親にしない子のほうが多いんだと思いますけど。
↑
互いに納得し得て喧嘩は、きっと親・友達にする事はなく、その子供の中で完結でしょうね…
でも、納得できず不満の残った喧嘩の場合は、保護者に、その不満を訴える事でしょうね…
それでも…子供の話をあまり聞かない親には、話さないでしょうね…
>自由びと氏の言う現状分析というのはどういうもの?
↑
分析の結果⇒
今の弥勒お宅には、子供同士の喧嘩が分かっていない現状ですね!
なのに…分かったつもりで説いている。
その分かったつもりが邪魔して自由びと言説を「おバカ」と言い切ってしまっている現状。
それ故に、大人とは大きく異なっている子供同士の喧嘩の本質へ到達不能状態!ですかね…
>
自由びとは本当か嘘か玄和◯に所属していたということで、何も知らない相手に有益な情報も与えない自由びとお宅が
「先に殴ったか否か」なんてことを保守的に言うこと自体に不可思議というか自己を他者との関係の中で正当化したい欲求が見えてはいます。
私が何かを述べると無意味な自由びと氏の発言とは乖離して深い意味の言葉となりますから、屁理屈述べて2円だけ支払っている自由びとに数万円の言葉で表現された情報を与えるのは如何なものか?と思案していますね。
2チャンネルの玄和スレッドが停止していても、玄和への批判的な考えはX(ツイッター)の投稿で理解できますね。やはり南郷先生が他流派他団体を批判しまくったことが受け入れ難い団体だとの認識を作っているように思います。
その「司法試験に落ち続けていて、収入のために空手の指導を選んだ」だけではなく、「嫁さんがお茶の水女子大を出て東大の大学院を出た」という学歴差に苦闘して「俺は凄いのだ!」と自流の支部のある大学生に自画自賛のメッセージを送っていた南郷先生が噴飯物ですよね。
菅野幸子さんの護身科なんてものが成立する前は、そんな「お遊び」の稽古などなく「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」というのは団体の最高責任者である南郷先生が請け負うものでしょうね、当然に。
宗教的に倒錯しているお宅=お前には理解できないかも知れませんけどね。
元々、私に比べて知識も学識も豊富な筈の弥勒お宅なのに…
これまで自由についても、書きたい放題・言いたい放題・思考放題だったのに…
なのに…「自由の本質」にちっとも近付けていない今回の弥勒コメントには超の付く程の幻滅ですね…
具体的に指摘するなら~
例えば>「先に殴ったか否か」なんてことを保守的に言うこと自体に不可思議というか自己を他者との関係の中で正当化したい欲求が見えてはいます。<という文面ですが…
「先に殴ったか否か」が問題なのは…>保守的<という事ではなく、
その喧嘩・事件発生の「原因」の探求なのです。
そもそも…一般的に「ケンカ(は悪い事)を避けたい」理由は、その結果が悪い方向へ向かう事が多いから…
原因から喧嘩に発展して、双方or片方が不愉快・怪我…をするから…なのです。
だから…徹底的な喧嘩の結果、互いに理解し合い、
双方が有益に終了した喧嘩の原因の追究はないし、その原因が「悪い」と言えません(どころかかえって「良い」かも…)。
そもそも…「自己正当化」は、人間なら誰もがしているモノでしょう。
自由な人間なら、その自由な行為・行動を「正当だ!」と思っているから、するのでしょう。
誰が、自分で不当だと思っている行為・行動を堂々とするでしょうか…
確かに法律違反(法律的には不当)とは(頭・知識的に)思えても…
それでの実行するのは「感情的にやりたい事をやる」(正当)なのでしょうね…
殺人者だって、自己の殺人の正当性を主張するでしょう…
でも…その「加害者の正当性」は、「被害者からは不当性」という事なのです。
「自己の自由」と「他者の他由」が衝突する時、
互いの「不当性の理解・納得」の為に「人間の法律」が創られたのでしょう。
その人間的な「法・法律」以前には、自然法、暗黙の了解、掟、リンチ…だったのでしょう。
誰もが「自己正当化」の欲求の塊ですよ!
そもそも…弥勒お宅の上記のコメント文面も「正当化したい欲求が見えてはいます」ですね…
なので…
そんな自由な人間にとって当たり前・必然事を改めて書いている
弥勒お宅の言説には、狭く浅い自由底・概念が露出してしますね…
>私が何かを述べると無意味な自由びと氏の発言とは乖離して深い意味の言葉となりますから、屁理屈述べて2円だけ支払っている自由びとに数万円の言葉で表現された情報を与えるのは如何なものか?と思案していますね。<
↑
「深い意味」とは、そうですね~
「深くどす黒い悪意」は感じられても…「深く・広い自由意識は皆無」ですね。
ほ~ほ…自由びとは「2円」で、お宅は「数万円」ですか…
大自然のサバイバルの中で、「数万円の札束紙」と
「一円硬貨アルミニュウム金属」では、どちらに価値がありますか?
ここは、自由びとブログ…このコメント欄での私は数万円より、二円の方に価値を感じていますが…
「屁理屈」とは、常に「屁」ではなく、環境・状況の変化・運動中では、正当な理屈・論理・理論…となり得るモノ。
言い換えるなら~
如何なる環境の中でも、自己の屁理屈?!を正当な論理・理論として生かせるか否かは、その者の認識力次第なのですよ!
そうそう~
ここでの、弥勒お宅の使えない「数万円」の札束でも…筆記用具さえあれば、メモ用紙として活用可能ですが…
>2チャンネルの玄和スレッドが停止していても、玄和への批判的な考えはX(ツイッター)の投稿で理解できますね。やはり南郷先生が他流派他団体を批判しまくったことが受け入れ難い団体だとの認識を作っているように思います。
↑
「他人への批判」の何が悪いの?それも、その人間の自由です、
また「自己の他者の自由な批判結果から~他者から批判も他由なのです」
互いに、やり合いたいなら、やればいいだけですよ!
問題は、その「批判の内容」でしょうね…
その「自由」と「他由」の衝突の中で、第三者・世間が、どちらの正当性を認めるか、「世論」の問題でしょう。
または、社会に対する貢献度…ですかね…
玄和会には、多くの大学教授・教師・看護師・医者…がいて、社会的貢献度が高いでしょうが…
空手界では、受け入れがたい団体でも…
会員・個人は、各分野で受け入れられている…ようですね…
だから…他の空手団体の認識は、玄和会・組織・団体にとっては、問題外でしょう。
そうそう…過去に「極真会」は、他の空手・団体に受け入れてもらえず、
世界的規模で極真空手独自の団体を創り上げたモノですが…
玄和会は、空手組織の団体化を求めず、
一匹で闘う「ローンウルフ」的な組織化を求めたようですね…
>その「司法試験に落ち続けていて、収入のために空手の指導を選んだ」だけではなく、「嫁さんがお茶の水女子大を出て東大の大学院を出た」という学歴差に苦闘して「俺は凄いのだ!」と自流の支部のある大学生に自画自賛のメッセージを送っていた南郷先生が噴飯物ですよね。
↑
「司法試験…」が事実か否かは不明ですが…
空手を選んだのは、著書にも書かれているから、事実でしょうね…
「俺は凄いのだ!」とは、己の自由の表現です。
それは、事実的現実的な現在の己の姿に負けそう・ダメそうになり、
そこからの自己の脱却為の自己武勇!ですかね…
人間には、
「自分はダメだ!もう終わりだ…」と思い込む自由も、
「俺は出来る・やれば出来る・凄い奴!」と思い込む自由があります。
どちらの自由を選択するかは、当人の自由なのです。
「出来ない・ダメな現状」だからこそ「俺はやればできる!きっと出きる・だからヤレ!」が必要です。
本当に「真にできる人間には、自己賞賛」は不要ですね。
だって、大谷選手の如く、多くの他人からの賞賛・羨望…の眼差しがあり得るからです。
教師が、自分ダメ人間だと思い込んで、人間の自由な可能性を否定して…
未来ある子供達の教育が可能でしょうか?
そんなダメ人間的な態度・表情の教師から、立派な大人は、育つでしょうか…
もっとも…その教師が自己のダメさを自覚して、
ワザワザ児童の前で、その自己のダメさ批判を見せつけたなら…
その言動・行為から、子供達の自己ダメさ批判も可能でしょうが…
「墳飯物ですね」のお宅には、
未来ある「若者教育」への教育者の姿が分からないようですね…
>菅野幸子さんの護身科なんてものが成立する前は、そんな「お遊び」の稽古などなく「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」というのは団体の最高責任者である南郷先生が請け負うものでしょうね、当然に。
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え~!?
「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」…
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何を言っているの…
玄和会の稽古では、「生徒を殴る必要は皆無」です。
その声・顔付きで、「一発!カツ入れれば即・解決」ですよ。
児童・生徒・学生を「殴ってしまう・手を出してしまう」先生は、
未熟な者・自己に自信がない者、または自信がないのにあると思っている者…
私も…実際に私は、未熟な過去の自分の姿を、最近痛感しています。
その痛感の理由は、
今の私が過去に比べて、教師として大きく成長できた!からでしょうね…
それは、特別支援学級(知的・自閉的障害児・知的でない情緒障害児)の補助員・通常級の補助員の体験・経験…の結果~
特に、ここ四年間の毎年の新・一年生の補助の連続体験から強烈な認識の変化を実感しています。
組織の「最高責任者」が体罰否定であれば…
その体罰の結果は、その体罰指導して、被指導者・保護者から賛同・同意を得られなかった指導者当人の問題です。
その責任の取り方は、何としても、自己の熱意・思い(自由)を、被害者・保護者の納得・了承を得る事・熱意・思いの深さ…ですなね。
「人生意気に感じる」ですよ!
手を出してしまった程の指導者の「意気・熱意」を実感してもらう事ですね…
>宗教的に倒錯しているお宅=お前には理解できないかも知れませんけどね。
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弥勒お宅に「宗教の何か」分かるのでしょうね…
現代で「オーム真理教」が、カルト・宗教の代表のようで…
宗教=悪しきモノ・団体…と思われていますが…
人類の歴史を振り返るなら、キリスト教の教会は、当時は「学校・教育機関」
日本の御寺は、寺小屋・教育機関…
そもそも…当初の人類は、神を人類・人生の拠り所にしていたでしょう…
また、現代の武道会でも「養神館」と…自己の中に「神」を養成するモノもあります。
まあ~この弥勒お宅の言う「宗教的倒錯」とは、
宗教レベルの信心を「玄和空手」に抱いている…という意味でしょうが…
ただ…それでも言える事は、
人間同士の信頼関係とは? 他人の言葉を信じとは?
その人間同士の信頼感のレベルが「宗教レベル」だと、何か問題があるのではしょうか?
それは、裏切られた時のショック・打撃・被害の甚大さ…でしょうかね…
私が「玄和会を宗教レベルで信心しているか否かは不明」ですが…
南郷氏曰く「私の言葉は論理であり事実ではない」から分かるように…
「信頼・信心は論理レベル」であり、実践するのは「自己の自由」…
それは、その論理の自己の現実への適用は、自由であり、適用した者の自己責任…という事なのです。
南郷氏の言葉を信じて実践して不成功なら、
それは自己の事実的選択・決定のミス!という事でしょうね…
南郷氏が成果を出した論理・理論で、自分が出せないのは、自由の問題です。
最後に、「本能依存の動物(ペット家畜以外)には自由は皆無。
しかし、現在人類・人間は、完全に自由です。
その自由の「結果の思い通りの成功・自由」も自由なら、
その自由の「結果の不成功の失敗・不自由」も自由です。
ここでの弥勒お宅のコメントの文面・感情・認識も、弥勒お宅の自由なのです。
この内容が、不快感でも、快感でも、…全ては、弥勒お宅の自由・自己責任なのです。
他人の言動を「愉快と思うのも自由」・「不愉快だと思うのも自由」
「他人の言動」とは、その言葉・行動の「他由」であり、
その「他由」に対する「不快・快感」は、俺の「自由」意志なのです。
特に、視覚以外の他の四感への直接的な刺激が不可能なこのブログでは…
視界的不快(画面の光の強烈性)だけですね。
後は、読み手の認識・理解・想像力次第ですかね…
だから…このコメント欄への「私的な言説への批判・否定・異論・暴論」…全ては、お宅の「自由」です。
それに対しての、自由びとの反論・異論・暴論・反撃論…へのお宅の感じ方・捉え方もお宅の「自由」です。
お宅が、そして私が愉快・不愉快になるのは、
お宅の「他由」であり、また私の「自由」なのですよ!
ここが、そんな所だから、
ここは、「自由びとブログ」なのですよ。
弥勒