月研ぎさん
早々に月研ぎさんからのコメントが頂けたので、
私も直ぐにコメントを返そうとしたのに…
それなのに…少々遅くなってしまいました。
そこで…コメント欄に書き込もうとしたら、
何と!字数が5000字を越えるとダメ!
と表示されたので、この記事にしました。
さてさて~そのコメントが~以下です。
昨晩、「線のドラマ」コメントを読みました。
直ぐ、私もメントを書こうとしましたが…
でも…書けませんでした。
それは、思って、書こうとして、書いても、
今ひとつ実感が湧かなかったからです。
でも…一晩眠った、今なら書けそうなので、書きます。
今、思っている事は~
私には「線のドラマ」は実感できない!という事です。
月研ぎさんの以下の言葉↓から、
>絵や文字を描くと、ペン先が紙に触れながら進み行くその角度や速さや強弱など、力の入り具合が、触覚として伝わります。
すると、その過程でのすべての感覚が(描きぶりが)線に現れ出ます。
>鑑賞するときには、その描く過程が内包された線を目で追い、指でなぞりながら、ここは強く、ここは弱く、ここは力を抜いて、という過程的構造を理解し、味わうことができます。
それなりの像は描く事は可能です。
でも、そこには実感がないのです。
その理由は、私は、実際にコメント内容のように思った事もやってみた事もない、からです。
私の像は、その言葉の意味を理解して、その言葉通りに描いた像です。
それは言うなれば、月研ぎさんの認識の一部・視覚だけの像なのでしょう。
視覚像は月研ぎさんの像です。
でも、その他の触覚・聴覚・味覚像は私的像なのでした。
そこで、私が過程・ドラマを実感できるのは何か、を考えました。
それは、子供と話している時の、その子の表情・態度の変化です。
その子自身が言葉を発している時の表情・態度、
私の言葉に対してのその子の表情・態度…
それらは喜び、怒り、困惑、疑問、疑惑…等の表現です。
特に、ただの普通の会話ではなく、
その子が何かの問題を私に訴えてきて、
私がその話を聞きながら、
最終的な納得・安心できた時、
そこには、その子の変化・発展のドラマがあります。
上記の事を思う前に私は、
「形と線の二重性」についても考えました。
まず初めに「形」の二重性を考えました。
それは、「そのモノの形」と「モノの形の表現」です。
モノの形は、「そのモノ」が持っているモノ。
形の表現は、人が、そのモノを「その形」と認識して表現したモノです。
形の表現の手段の一つが「線」を使う・書くです。
絵も文字も、何かを伝える為の手段・モノなので、
その結果が命です。
それらは、完成された姿形が、伝えたい何かを表現しているからです。
だから、人は「文字の形」と「絵の形」を確り見ますが、
その文字を書いている線や絵を描いている線は、
見えていても意識されません。
人との会話も、そうです。
カウンセリングなら兎も角…
重要な問題を議論している最中に、
その相手の表情・態度・口調を問題にするでしょうか?
普通は全く問題外です。
その問題外とは、認識不能という事でもあります。
それは「武道の理論」に書かれている
「試合で反則技」が受けられない…と同様です。
反則技は、その試合勝敗とは無関係なので無視されます。
無視しているので、その受け方の稽古はしません。
真剣な議論・討論の最中に、
「声は大きすぎる!」、「顔が怖い!」、「ニヤニヤするな!」…
なんて言う者がいたら、その人は真剣・真面目に問題解決に取り組んでいない者。
言うなれば、当事者ではなく、傍観者的立場で、議論・討論に参加している者、なのでしょう。
そう傍観者には精神的余裕があります。
余裕があれば、冷静でいられます。
冷静であれば、平常心で、実力の発揮が可能です。
こんな事を思えるのは、
教員時代の私と今の補助員の私の児童への態度・表情・言動…の違い。
児童への想い・感情・気持ち・認識の違い…が実感できる、からです。
教員時代だと、教え子の言葉に感情移入してしまい、
一緒に怒り、一緒に笑い、泣いたり…でした。
しかし、今は、心に余裕を持って
『何故この子は、その事をそのように感じているのだろう?』と思えます。
また、
ここは、笑顔で聞いてあげよう。
ここは悲しい顔で聞いてあげよう。
ここは困った顔で聞いてあげよう。
そうすれば、彼らが安心感を得られるだろう…
というような事が考えられ、実行できます。
それは、相手への共感・同感…的な像、
相手と同じ感情像を描こうとする努力でしょうか…
感情移入の場合、
自分が描いた、相手の感情像の中に取り込まれて、
客観視でき難い状態、なので冷静ではいられない。
その子が、安心感を感じられだろう顔で聞こうと心がけようしています。
その「安心感」の確認が、その子の表情からの推測です。
その推測の根拠は、日頃のその子の落ち着いている時の表情の記憶を頼りにです。
端的には、
以前の私に比べて、
子供の表情・態度…を確り見て取れる、ようになった。
同様に、大人の表情・態度…も然り。
という事です。
その結果、他人との関りが以前よりも楽しめるようになった、のです。
それでも…
子供との関わりの方が、大人のよりずっとずっと楽しいし、楽しめる、のですが…
「楽しい」と「楽しめる」の区別と連関。
遊びは楽しい。
でも、その楽しさを楽しめない。
それは、遊んでいる最中でも
仕事の事が気になってしまう…から。
仕事は辛い。
でも、その辛さを楽しめる。
それは、多くの人が喜んでくれる、から…。
参考コメント
記事<「無」を用いて「有」を表現する。>
2018-01-11 11:12:52 | 想いのままに…
線のドラマ (月研ぎ)2018-01-11 15:05:11豆腐の形を描いて、豆腐の輪郭線を消す、ということが可能なのは、形と線の二重性で、絵の像ができているからです。
絵を見るとき文字を見るとき、たいていは「何が描かれているのか」の、意味で見ます。
絵や文字が線で描かれているという、その線が「どのように描かれているか」という、線ののドラマを見ようとはしません。
絵や文字を描くと、ペン先が紙に触れながら進み行くその角度や速さや強弱など、力の入り具合が、触覚として伝わります。
すると、その過程でのすべての感覚が(描きぶりが)線に現れ出ます。
鑑賞するときには、その描く過程が内包された線を目で追い、指でなぞりながら、ここは強く、ここは弱く、ここは力を抜いて、という過程的構造を理解し、味わうことができます。
ですから絵や文字は、形の芸術という意味的な価値だけではなく、芝居や音楽と同じように、目の前で展開していく「過程」をたどる、時間の芸術でもあるのです。
俗にいう、ペンタッチの様子を生き生きと像として、よみがえらせるわけです。
絵や文字を描きながら、紙の表面の蝕知を指先でなく、ペンで感覚します。ここでは、私の感覚的身体は、ペン先まで拡張されているのす。
『武道の理論』は、頭で理解すると読んで終わりと、そこで止まってしまいます。
行動の中での理解をしないと、『武道の理論』は生きてこない、のだと思います。
つまり、日常生活の中で、または自分の専門の中で、『武道の理論』を見いだしていって、はじめて読むことができた、となります。
私は『武道の理論』を読んだとき、空手家になるために南郷継正さんの門弟になりたいとは思いませんでした。
それは、そのとき直面していた絵を描く問題に、この『武道の理論』は使える、と判断できたからです。
この本は、自分の仕事で生かすことができる、つまり、自分を動かしたわけです。頭だけの行動でなく、身体の行動を起こさせたのです。
『武道の理論』は、私を現実の南郷継正にではなく、本の中の南郷継正に向かわせたのです。
小学校の算数では、リンゴの足し算・引き算・掛け算・割り算をしました。算数の世界では、数は基本的に、リンゴのようにバラバラに分かれていました。だから、1というのは、1個や、一つのことで、2は、2個や二つのことでした。
中学の数学の世界に入ると、数の像は全く違ってきました。ある像の切り替えをしなければ、算数から数学の世界には進めないのでした。
数学の先生は、黒板に直線を引き、それを数直線と言ったのです。こう説明を続けました。数直線というのは、線ではなく、数でできた直線のことだと。数が集まってできた線を数直線というのだと。
数直線の中央に、0の位置を決めると、右は1,2,3、…だけじゃなくて、1.1,1.2,1.3…といった細かい数字をその線の中に想定できることになります。そこから数直線は、直線の上に目盛りを打ってある定規の像になっていきます。つまり、線としての数、の像が出てきます。
その線は線に見えて、でも実際は、ぎっしりと詰まった数字でできている、ということになっていきます。この目盛りとしての数、というのがなんとも不思議な数という像なのでした。
小学校までの数は、一つ一つ分かれていて数えることができました。数えられるということ
は、数がバラバラ、別々にあるものでした。ところが数直線というのは、そういう像ではなく、直線の中の数は、連続して線になっているのでした。
もちろんつながっているだけなら数にならないから、目盛りのように、細かく数の切れ目がある、と考え像を描く。目盛りの2と3の間には、切れ目がある。そのように切れ目を抱えながら、数直線は数が集まってできていると考え像を描く。
でもマンガや習字の線を描いてきた自分の常識からはまさにビックリギョウテンで、直線というのはやっぱり切れ目はない像でした。
数直線というのは、切れているものなのに、線として切れ目なくつながっていると仮定して考えられている像である。
そんな妙な存在の仕方をしている数直線をベースにすえて、中学の数学が始まるのでした。
このことは、数学の先生が考える以上に、頭がいいとか悪いとかのレベルではない、わかりにくさの像の問題でした。
すみません月研ぎさん~
塾の算数・数学講師を辞めて四年経った現在の私には、
「数直線」なんて黄泉の国入りでしたよ。
私のイメージした「数直線」とは、
>数直線というのは、線ではなく、数でできた直線のことだと。
>数が集まってできた線を数直線というのだと。
ではなく、<直線を数で切っていたモノでした>
それは、数が初めにあり、その数の集まりで直線ができている、
のではなく、初めに直線があり、それを数で切っていくモノ、でした。
そう切れているのではなく、人が必要に応じて切っていくモノ、でした。
なので、私が数直線で悩んだり、考え込んだりした…覚えはありません。
それより、幾何学・図形での、
点や直線、そして平面の定義に「う~ん…」と感じてしまいました。
「ユークリッド幾何学における"点"は大きさ、方向など位置以外のあらゆる特徴を持たない。」
「直線とは、太さを持たない幾何学的な対象である曲線の一種で、どこまでもまっすぐ無限に伸びて端点を持たない。」
「平面は本来はどこまでも果てのない ものが想像できるし、どこまでも平らな面があるはずであった。」
こんなモノは、現実にはあり得ない!が正直な私の感想です。
私の理解が逆だったのでしょう。
でも…それで矛盾なく納得できていたのでOKだったのかも…
小学生になって、算数の授業で足し算・引き算を習いました。そのとき授業で使う、たす、ひくと、日常生活の中で使う言葉の、たす、ひく、の違いに気づきました。
算数とは、日常生活の言葉を離れ、算数という一つの世界の言葉を使う冒険のことだったのです。
もちろん算数ができてしまう子供たちは、そして先生も、そんなことに気づくこともなく、日常生活の中での、たす、ひく、感覚をさっさと捨てて、算数ではそれが約束事とあっさり算数の世界に入ってしまうのでした。
『武道の理論』で、相撲の組んだり投げ飛ばしたりの動作は、日常の動作と連続するが、野球のボールを投げる動作は、日常の動作とは連続していない、というのがありました。キャッチボールで相手の胸元に毎回正確な返球をするのが以外に難しかった理由がわかりました。
『武道の理論』を面白いと思ったのは、言葉ですべての過程的構造をたどっていることでした。
子供の頃から、マンガも、算数も、日常の動作も、そのすべてを言葉でたどる(像化する)ことの面白さが、とても魅力でした。
対して月研ぎさんのような想いは抱けませんでした。
そう~私は著書ではなく、
著書の中の「南郷継正」的認識に惹かれた、ようです。
だから…でしょうか?!
それ以後、入手可能な南郷継正の著作は全て揃えました。
「試行」に連載されたモノは、国会図書館へ通って全てコピーを取りました。
そして、どうしても、本人に会いたくて、
南浦和の本部道場にも入会しました。
青雲塾へ入会・退会、
飛翔塾へ入会・退会、
そして○○支部へ入会・退会…
そこには、私の武道空手修業のドラマがありました。
そうそう~
ト伝ちゃんにも念を押しましたが…
現在の私は無所属で、独り~悟りを求めて放浪?ではなく、
日々を必死?に生きています。
因みに、一般的な習い事は、大会届の提出なくとも、
会費の未納で自動的に退会扱いになります。
なので、正確に表現するなら、
私は、会費を払わなくなり、
退会はしていないけど、
退会扱いで退会になりました、です。
私自身が「退会しました」という言葉に違和感を感じる、
ので書きました。
ト伝ちゃん~
目に入った?
確り読んだ?
そうそう~
一時、仕事と私生活の事で悩み、精神的に不安定な時期に、
ある晩、私は「俺は、南郷継正だ!」と
まだ家内にはなっていなかった当時の彼女に叫んでしまいました。
今、考えると、それは、
私の強烈な観念・認識を現実に押し付け、
「私=南郷継正」は事実だ!と無理やり自分に認識させたようです。
でも…不思議な事に、『南郷継正だ!』と思い・認識していると
同時に、私は私だ!という思いもあったのです。
これは、仕事と私生活の悩み・問題…で、
いつもは普通に働いている自我・意識・意志的認識が、弱体化・働き辛くなり、
結果的に、日頃の願望、南郷継正のようになりたい、南郷継正なら解決可能だ!
そんな強烈な想いが、私を、そうさせていたのかも…
それは、自らの強烈な感情(自我)を抑圧する、
より強烈な意志(超自我)の一時的な弱体化だったのかも…
師範が言っていました。
「空手が感情になるとは、この野郎!と思った瞬間に、その相手を倒している」と…
「だから、真の一撃必殺の空手技は、簡単には教えられない・教えてはいけない」と…
そんなこんな私ですが…
結局~今も南郷継正を追いかけ続けている、ようですね。
もちろんそれが良い悪いの問題でもありませんし、嘗て海保静子さんは人間は一人一人が個性的で違うということを、同じ日に同じ病院で産まれた赤ん坊であっても出産した時から違うのだということを一生懸命に説いていたようですけどね。
私も若かりし頃に「武道の理論」を読んで面白いと思ったのですが、私の場合は南郷氏の武道の理論より前に三浦つとむの本を読んでいたものですから、南郷氏の武道の理論が三浦さんの本の原理に忠実だというところに面白さを感じた記憶がありますね。
その三浦さんの本も、南郷氏という存在も、当時やっていた南郷流ではない流儀の先生に教えられたものでしたがね。
ただ、私も南郷氏に興味を覚えて道場を探したのですが、当時「幻の流派」と呼ばれていた玄和の道場は見つかりませんでした。そんなとき玄制流の土佐先生の著書に南郷氏ら玄和会創設者たちのことが書かれていたので、その一人だったG県のN先生にご連絡したわけです。
当時、N先生は玄和さんを脱会していて全空連の重鎮でしたが、方向性の違いから玄和創設間もなく別れたということを教えてくれました。N先生とは現在でも仲良くしていただいてますけどね。
自由びと氏が今さらのように私に対して玄和を退会してるとかしてないとか書いている真意が分かりませんね。故意にトボケてるのか、それとも本気で何も察することが出来ずに書いているのか?
自由びと氏がどう書こうと私は自由びと氏が玄和の会員だと思っていますし、もちろんそれには理由があることです。一つには「自分は玄和会を退会した」と述べながら実際には支部道場の役員である玄和会員を知っているからですよ。
もちろん、その人物が偽りのことを述べたことを責め立てるつもりもありませんし、私や一般の流儀の会員がそうした偽りを述べる意味など無いでしょうが、玄和さんのように何らかの理由で道場所在地や試合日程なども非公開にしている秘匿性の高い流儀なら、そのくらいの偽りを述べてもおかしくないだろうと思っているからです。
それに、自由びと氏のように南郷愛、玄和愛に溢れて「たとえ勝てなくとも南郷氏の言った通りの玄和の戦い方で!」なんて考えの人間ならば「月謝を払っていないから退会してる」なんて考えよりも「本部での事務的な処理はどうであれ、私は今でも玄和会員である!」となるんじゃないかと思うわけですよ。
それを「私はもはや玄和会員でない、月謝を払っていないから退会にされている」なんてのは私との対話において話の矛先を外れさせる言葉の上の戦略なんでしょうし、私もそれを了解しているから深追いせずに放置しているだけで。そこを追っていってもグダグダの泥仕合になるだけだし。
ただ、私のほうでは自由びと氏に対して「腹蔵ない」の全く逆の「腹に一物ある人間」と感じているだけで。
私は南郷氏が、プラトンの「ポリス社会での日常での対話」を「合宿生活での闘論」と自流のイベントに合わせて意訳してるところで、既に別の人種だなと思っていますしね。
いまの私はたった一人の著者の本を集めるということがありませんし、何か本を買うときはテーマだとか論点で決めますから、一冊買った著者の別の本を買わないということは日常茶飯事で。
でも、人間って何かのカテゴリーで著書を買い集めるということを良くしますし、私も小学生の頃はマンガ本を集めていたんですけど著者で集めていたんじゃなくて出版社で集めてましたね。
講談社コミックだとか小学館コミック、集英社コミックだとかでシリーズ化してね。そうしたコレクションの思考が科学者になる子にはあるらしいんです。私は科学者になりませんでしたけど。
だから、今は「一人の著者」南郷継正だとか三浦つとむだとかのカテゴリーで本を集めませんから、そこも私と自由びと氏とでは全く違った人種でしょうね。
そんな複数の著者を乱読するなんてのも信仰心から抜け出してニュートラルな考えをもてる方法だろうな、と思いますね。
何しろ私の所属している団体も、やっている流儀も、一撃必殺ならざる玄和より下のもらしいですし、自由びと氏からすれば。それが南郷氏から受け継ぐ玄和のイデオロギーでしょうから仕方ないですけどね。
しかし、「友」とか薄っぺらに使うとバカだと思われるから止めたほうが良いでしょうね。
ト伝ちゃん~
>自由びと氏がどう書こうと私は自由びと氏が玄和の会員だと思っていますし…
↑~
とは、ヤッパリ相変わらず頭が固いね!
まあ~「思っています」は自由なので許してあげるね♪♪♪
念押ししたのは、ト伝ちゃんの書く虚像的な自由びとの
姿形に居心地の悪さを感じるからです。
皆さ~ん
ト伝ちゃんのコメントは、事実と思い込みの境界線が曖昧なので、気を付けて読んで下さいね!
ト伝ちゃん本人も、事実と思い込みの区別と連関が不能になっていますよ。