続・月研ぎさんへ ♪♪♪書けました♪♪♪
いや~失敗ですね。ドツボに嵌ってした、いたようです。
狭い土壺(今の私・認識)なのに…宇宙・世界・自然だ…なんて思い込みで書き綴って…
私が、書こうと「すべき」は~
教育における「先輩・同輩・後輩」とは?・それらの間の距離とは?
ここで「ベキ論」の不要論が、コメント欄へ届いていました。
私は、簡単に○○は「すべきだ」!ストレスなら○○を「やめるべきだ」…と言って終了していたが…
その後、色々と考えていた。
例えば、
「勉強すべきだ!」(知識・一般論)
でも「大嫌いで出来ない!」(個人的感情の結果)
なら「嫌なら止めるべきだ!」(他人の意見・感情・認識)
それは「親が許してくれない・できない」(親の希望)
このようなに考えて思った事は~
子ども自身が「子供の僕学校で勉強すべきだ!」と心から思っているのか?
それとも、親から「小学生のお前は、勉強すべきだ」と言われたのか…
↑上記の記述、過去にどこかで、書いた記憶が…デジャブが…
べき論は、自分から自分への縛りである筈なのに…
それは理性的自分が、感性的自分を縛るモノ。
その縛りとは、自分が、その場・その環境で上手く生活できる為のモノ。
更に、その場の変化・その環境の変化に耐えられだろう自分に対する為の縛りのようなモノ。
教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。
教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
上記のような認識を持ち得た・持とうとする者の自分への縛りが「べキ論」であろう。
新一年生に、その担任は、自己のべき論を直接児童達に教えるのは早急だ。
まだ教える「べき」ではない。
その指導の仕方とは、一般般的に~
「ここは学校で、みんなの家とは違う。」
「だから、先ずは、学校でのルールを覚えようね。」
「学校は、勉強する所。勉強とは、できない事を少しずつ、出来るようにする所。」
「だから、初めは、『できなくて』いいだよ!」
「チョットずつ、出来るよう、先生と一緒にがんばろうね♪」
言い変え(換言す)るなら、教師の中で「べき論」を展開して、時々の児童達がすべき事を、優しく
「○○しようね!」「○○できたね♪」「よく頑張ったね」「次はもっと頑張ろうね…」~と褒めて~
児童達の一人一人の、まだ「十人十色」的な、その行為・言動の中での、
「先生の目的・目標」に対する一致・不一致的な「彼らの成功・失敗」的な事実を、
彼らが、失敗しても・成功しても・「快感」と感じるように関わる事が「先生のべき論の現実への適用」なのたろう。
さてさて…ここで…
時刻・「2時45分~4時25分」…までの昼寝へ~今復活して書き始めた。
上記は事実であるが…言うなれば、論理的な事実~
ここからは、私の体験した事実で書く事にした。
時はー1990年、場所―炎天下の砂浜・海岸での玄〇会、師範主催の夏合宿~
私達は、その炎天下で、いつ終了するか知らされる事無く、全員で立って、手拍子での大声合唱~
そんな練習に疲れ…もう止めたい!と思った私…
そこで、ふ…と気付くと、笑顔で 楽しそうに 全身を使っての思いっ切り(に見える)手拍子で口を全開で唄を歌っている大学生を発見した。
年下だろう彼は、私の人生では後輩。
共に同じ空手の練習をしている同輩。
でも、空手合宿初めての私にとって、たぶん先輩(空手着の帯色を見なかった…が)
すると彼は、後輩・同輩・先輩…という同時・同一性がある。
「現実界の後輩」(唯物界)・「空手の今の練習での同輩」(現在)・「空手道の先輩」(観念界)…
ここで、私は、彼の中に、「先輩」を見た!
それは、私の苦しみを、楽しみに変えている姿~
これならいける!と私は確信(したのだろう)か…
その後の私は、はずっと彼の姿を観続け・歌い続け・私も全力で(彼のような笑顔は無理!でも)
これは、私は私の疲れを感じた認識・心を、観る事をやめ、現実の彼の姿を見続けた。
結果、私は最後まで、ほぼ全力で歌う事が可能だった。
そんな彼は…最終的に「疲れ果ててブッ倒れた…」ような 記憶・像、
そして師範ら褒められていた像。
普通なら「こいつ・体力無え~」なのだが…
自己の限界まで頑張り続けられた意志力・気力は私の先輩である。
何故なら、その気力・精神力・意志力は、玄〇空手の求めているモノ。
だから、彼は、その点で私の先輩で、私は、先輩の認識を借りる為に、その先輩の姿・表情・言動を全力で真似しようとマネつづけた。
彼は、私に、教育・指導・指図…は、一切していない。
私が、自分の為に、彼から盗んだ・借りた・学んだ…・だけである。
どうですか?
私の生活感でていますか?
いや~失敗ですね。ドツボに嵌ってした、いたようです。
狭い土壺(今の私・認識)なのに…宇宙・世界・自然だ…なんて思い込みで書き綴って…
私が、書こうと「すべき」は~
教育における「先輩・同輩・後輩」とは?・それらの間の距離とは?
ここで「ベキ論」の不要論が、コメント欄へ届いていました。
私は、簡単に○○は「すべきだ」!ストレスなら○○を「やめるべきだ」…と言って終了していたが…
その後、色々と考えていた。
例えば、
「勉強すべきだ!」(知識・一般論)
でも「大嫌いで出来ない!」(個人的感情の結果)
なら「嫌なら止めるべきだ!」(他人の意見・感情・認識)
それは「親が許してくれない・できない」(親の希望)
このようなに考えて思った事は~
子ども自身が「子供の僕学校で勉強すべきだ!」と心から思っているのか?
それとも、親から「小学生のお前は、勉強すべきだ」と言われたのか…
↑上記の記述、過去にどこかで、書いた記憶が…デジャブが…
べき論は、自分から自分への縛りである筈なのに…
それは理性的自分が、感性的自分を縛るモノ。
その縛りとは、自分が、その場・その環境で上手く生活できる為のモノ。
更に、その場の変化・その環境の変化に耐えられだろう自分に対する為の縛りのようなモノ。
教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。
教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
上記のような認識を持ち得た・持とうとする者の自分への縛りが「べキ論」であろう。
新一年生に、その担任は、自己のべき論を直接児童達に教えるのは早急だ。
まだ教える「べき」ではない。
その指導の仕方とは、一般般的に~
「ここは学校で、みんなの家とは違う。」
「だから、先ずは、学校でのルールを覚えようね。」
「学校は、勉強する所。勉強とは、できない事を少しずつ、出来るようにする所。」
「だから、初めは、『できなくて』いいだよ!」
「チョットずつ、出来るよう、先生と一緒にがんばろうね♪」
言い変え(換言す)るなら、教師の中で「べき論」を展開して、時々の児童達がすべき事を、優しく
「○○しようね!」「○○できたね♪」「よく頑張ったね」「次はもっと頑張ろうね…」~と褒めて~
児童達の一人一人の、まだ「十人十色」的な、その行為・言動の中での、
「先生の目的・目標」に対する一致・不一致的な「彼らの成功・失敗」的な事実を、
彼らが、失敗しても・成功しても・「快感」と感じるように関わる事が「先生のべき論の現実への適用」なのたろう。
さてさて…ここで…
時刻・「2時45分~4時25分」…までの昼寝へ~今復活して書き始めた。
上記は事実であるが…言うなれば、論理的な事実~
ここからは、私の体験した事実で書く事にした。
時はー1990年、場所―炎天下の砂浜・海岸での玄〇会、師範主催の夏合宿~
私達は、その炎天下で、いつ終了するか知らされる事無く、全員で立って、手拍子での大声合唱~
そんな練習に疲れ…もう止めたい!と思った私…
そこで、ふ…と気付くと、笑顔で 楽しそうに 全身を使っての思いっ切り(に見える)手拍子で口を全開で唄を歌っている大学生を発見した。
年下だろう彼は、私の人生では後輩。
共に同じ空手の練習をしている同輩。
でも、空手合宿初めての私にとって、たぶん先輩(空手着の帯色を見なかった…が)
すると彼は、後輩・同輩・先輩…という同時・同一性がある。
「現実界の後輩」(唯物界)・「空手の今の練習での同輩」(現在)・「空手道の先輩」(観念界)…
ここで、私は、彼の中に、「先輩」を見た!
それは、私の苦しみを、楽しみに変えている姿~
これならいける!と私は確信(したのだろう)か…
その後の私は、はずっと彼の姿を観続け・歌い続け・私も全力で(彼のような笑顔は無理!でも)
これは、私は私の疲れを感じた認識・心を、観る事をやめ、現実の彼の姿を見続けた。
結果、私は最後まで、ほぼ全力で歌う事が可能だった。
そんな彼は…最終的に「疲れ果ててブッ倒れた…」ような 記憶・像、
そして師範ら褒められていた像。
普通なら「こいつ・体力無え~」なのだが…
自己の限界まで頑張り続けられた意志力・気力は私の先輩である。
何故なら、その気力・精神力・意志力は、玄〇空手の求めているモノ。
だから、彼は、その点で私の先輩で、私は、先輩の認識を借りる為に、その先輩の姿・表情・言動を全力で真似しようとマネつづけた。
彼は、私に、教育・指導・指図…は、一切していない。
私が、自分の為に、彼から盗んだ・借りた・学んだ…・だけである。
どうですか?
私の生活感でていますか?