送り主さんへ
以下のような、不思議なメール(こんなの初めて…どこから・誰が)今日きた。
1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?
また、ライフログとして1年後の自分に向けて素敵な思い出をブログにまとめましょう♪
月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
2023-01-08 15:56:37 | ~教育~
月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。
教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
教育する者―教育者。
教育を受ける者―学習者。
師範⇒先生⇒先輩⇒後輩⇒同輩…
師弟関係について、
師範は、弟子を教育して一人前に育てる。
教師は、児童・生徒・学生…を教育して一人前に育てる。
どちらも、教育者と被教育者の関係。
教育関係において、「距離」とは何か?
以下の記述から考えてみた。
距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。
1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育
例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。
つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。
学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。
自由びとさんの展開
楽しみにしています。
「悟りを求めて…」いる私は南郷継正を師範と仰ぎ、「悟り」を習得しようと努め続けている。
私にとっては、南郷継正は、悟りを教えてくれる教師であり、手本・模範・ゴール師範…といえる。
私の学習・習得・修得…目標は師範の認識の中身―認識像である。
この場合、師範の認識像と私が思い描いた師範の認識像の相違・遠近を「距離」と考える事が可能である。
私の先輩とは、その者の師範の認識像が私より師範に近い者。
後輩とは、師範の認識像が私より遠い者。
同輩とは、師範の認識像が私と同じ程度者。
認識像について、
師範の認識像の二重性
一つ、師範の描きたい認識像―理想的な認識像
二つ、今の師範が描いている認識像―現実的な認識像。
師範は、師範の求める理想像を追い続けて…
私は、師範の現実像を追いつつ、その先の理想像を求め続けている。
算数には、「距離」と「道のり」という単元がある。
この場合の「距離とは直線距離」の事。「道のりは、ある道を通った時の距離」。
私が、師範の認識像を知って分かった…としても、
また、師範の通ったその道程・過程像・道のりも知って分かったとしても…
私が、師範と全く同じ「道のり」を行けるかどうかは不明である。
同輩とは、師範像と同じ距離・遠さにいる同行の者だから、互いにその先の道を闘論しつつ進める。
先輩は、先を行く者だから、アドバイスをもらいつつ背中を見ながら追いかけつつ先へ進める。
確か、南郷氏の著書に大学生の師範への手紙が紹介されていた。
その中で、「師範を目標にして、そこへの過程に大学・教授・授業を位置付けて学び続けている」といった内容のモノがあった。
これなど、師範をゴールと設定して、そこへの道を色々な教授・授業を位置付けている。
師範認識に近づく為の、踏み石を並べている…のだろう。
月研さんの以下の文面は~
>つまり、「距離」という概念で
>教師と先輩と学生が相対化されます。
↑
教師の認識像をゴールとし、その過程・道程に多くの先輩を位置付ける。
>学生からは遠い教師像が
>先輩からのより近い教師像を介して
>学生により鮮明な教師像が描かれ、
↑
それらの道標・踏み石として歩む事で、
より教師像に近づける。
>教師は、その学生の距離の変化で、
>学生像が更新される。
↑
学生像が更新される事で、学生の分かる・が分からない部分がより鮮明になり、
教師の理想的像は、変わらずとは、表現に使われる言語をより学生像に近づける事が可能になる。
別言するなら、
大人が、普通の対等な会話が難しい子供に対して、
その子供の特性を理解できたなら理解可能な易しい言葉を選ぶ事。
教師が、その発達障害児の特性を正しく理解出来た時、
その言動が、その児童が受け入れられる型に変化可能し得る。
ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎のような驚きです!
これって誰が書いたの? え?! 俺が!
凄い・感動だ!驚愕の事実だ!(俺が書いていた?とは!…まさか本当!)
さて…今日の私は、このパソコンを立ち上げる時、
内心『今日は、いくつメールくるかな…・昨日までと同じかな…』と思っていた。
それを読んでからレスメール、そして、今日の記事にしようかな……
と思ったら…何とビックリ!こんなモノが贈られてくるとは…
とても素敵なプレゼントだ!!!本当の心からの感謝の念をテレパシーと言葉、送信しますね♪♪♪
さて…ここから以下では一つ一つの言葉・文面の集中・纏まりを考えていってみよう。
そてし、<過去・当時の私コメントに、今・現在のコメント>を追加しよう。
月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
2023-01-08 15:56:37 | ~教育~
月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
<以下の知識を参考に考えてみた。>
>教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
<南郷先生の観念・概念の表現である知識・教育の本質=本質レベル>
>教育とは、人類の文化遺産・英知を教え、文化を発展させる能力を育てる事。>
<教育とは、人類の文化遺産・英知を理性・感性、的に教え、文化・生活を発展させる能力を育てる事。>
以下は、英知・文化遺産のネット解説。
「叡智とは、人類が考え出した食を巡る発想や知恵を指します。文化遺産とは、人類の叡智が世界各地に点在する存在で、将来の文化的発展のために継承されるべき過去の文化を指します。」
「文化遺産には「継承」という概念が含まれています。たとえば、富士山は自然の営みに宗教性や芸術性を見出してきた日本人の自然観や文化観が国際的に認められ、2013年6月に世界文化遺産に登録されました。」
>教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
<教育の目的は、ひと(生物・肉体)有限・頭脳(認識・精神)無限…の可能性の限界までバランス育てる事>
>教育する者―教育者。
>教育を受ける者―学習者。
>師範⇒先生⇒先輩⇒後輩⇒同輩…
>師弟関係について、
>師範は、弟子を教育して一人前に育てる。
教師は、児童・生徒・学生…を教育して一人前に育てる。
どちらも、教育者と被教育者の関係。
>教育関係において、「距離」とは何か?
以下の記述から考えてみた。
距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。
1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育
例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。
つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。
学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。
自由びとさんの展開
楽しみにしています。
<旧>「悟りを求めて…」・<新>「悟りを求めて~ブログで、悟り求めている私は南郷継正を師範と仰ぎ、「悟り」を習得しようと努め続けている。
私にとっては、南郷継正は、悟りを教えてくれる教師であり、手本・模範・ゴール師範…といえる。
<今の気持ち…よくぞ!(ビックリ)・まあ(あ・き・れ)…ここまで(敬意)書けたモノだ~
<(この認識を維持したいモノだが…至難だ!(断定)>
私の学習・習得・修得…目標は師範の認識の中身―認識像である。
(結果的には、旧・新ブログでのヘルプ・コメントを全身(理性・感性的に)で真面に受け続けた結果が、師範の擬き像)
この場合、師範の認識像と私が思い描いた師範の認識像の相違・遠近を「距離」と考える事が可能である。
(旧・新・ブログでの、各コテハンへの私のレス内容が、私と師範の距離・の変化)
私の先輩とは、その者の師範の認識像が私より師範に近い者。
後輩とは、師範の認識像が私より遠い者。
同輩とは、師範の認識像が私と同じ程度者。
↑…これは、間違ってはいないが…
問題は、このブログのコメント欄を見て…、
御覧の通り、分かる人には分かる・分からない人には分からない、ように…
私自身が、そのコメントが、師範認識のどの地点なのか?
そのコメントが後輩or同輩or先輩か否か、ましてや師範なのか…絶対に判断不能だった。
認識像について、
師範の認識像の二重性
一つ、師範の描きたい認識像―理想的な認識像
二つ、今の師範が描いている認識像―現実的な認識像。
像の二重性
認識とは、対象の反映である。
これは、その対象を反映した人の頭脳の理性的・感性的な反映である。
理性的とは、その人の意識的な反映。
感性的とは、その人の感情的な反映。
ブログコメントでは、その書き手の感情が読めない。
現実なら、相手の表情・全身的なアクション・無自覚・無意識的微動…から、ある程度、その人が、その言葉に込めた感情が見える。
~つづく~今から昼食で~す!
>「夢のコントロールはしないほうが自然で いいかなと思っています。」
その通りだとおりだと思います。
夢は、ぼ~…とリラックスして見て、そのまま深い眠りへ~がベストですね。
昔に読んだ本に、「…武士が夜中眠っているのに敵の侵入に気付く…」がありましたが…
そんな警戒心からの浅い眠りは、体によくありませんね…
私も似たような体験がありますが…次の日は、ずっと寝不足感・体もだるくて…
「迷宮の夢」ですか…
夢ならいいのですが…
昨日の、このブログの記述は、私の過去の記述(当時の認識・観念の表現)を
「今の私の観念・認識から批判的に書き加え直している、だけのモノ…に今朝気付きました。
弥勒さんに指摘して頂いた「生活感」が無い。
なのに、昨日の私は凄い!~書き加えられている!と思い上がっていました。
それって…どんなに書き続けられても、結局は「迷宮」…私の集中認識の中、なのでするね…
それは、月研ぎ さんの言葉で始まった「私の教育」という集中認識の中…
あの暗黒の夢を「宇宙の始まり」…にして…シマッタ。
本当は、今まで幾度となく見ているモノ。
なのに、それに対しての私の問い掛けを変えた結果、それも、他人の著書に書かれた言葉からの問い掛け…
これって、本当は知識的な問う掛け…なのに私は、分かった!悟った!と自己満状態ですね。
現代の「知識」には、二重性が、あると感じました。
ひとつは、その著書の著者の言葉・(体験的知識)。
ひとつは、読者の記憶した著者の言葉・知識。
私は、ブログ言葉に私の体験的知識だから書き加えていた・だから正しい・間違いない!と思い込んでいました。
でも…それは少し違う…
それが体験の結果でも、結局は知識で…その「体験知」という集中認識の適用・変化でした。
上手に書けません。
結論を書くならば、渡辺先生の「自己形成史分析」のように、
まずは、その言葉の出所…その私の体験・経験した事実から書くべきなのでした。
その事実・そしてその時の「私の問い掛けと言動」を論理的に考察する~
昨日の続きを、今から書きます。
tadaさん 毎度のコメント、とても助かっています。
私の表現できない・集中未満の認識を助けて頂いて…
そうそう…気が付いたのです。
月曜日の私の非常心が、あれは、午前中に、ここで「教育」を私の観念中心に、それを過去の記憶に…
またまた…言葉で思考ですね。
要するに、観念の中で、観念的に考え過ぎた。(観念論(世界観)的な観念論)
そうです。起きているのに、観念内で思考し過ぎ…
「白昼の迷宮の夢」だったのですね…
上記のような~夢の世界は、私の観念の世界…
これが、世界観としての観念論の拙さ。
いや~今回は、私の事実でかけた、ようです。
非常心とは、「観念論的な世界観で世界を自己の観念で論じる(集中認識)…
迷宮に迷ってさ迷っていた私。(そう言えば…師範が観念論は夢の中…)と言ったよう・言ってないような…
私は、自分の心の中で、出口を探していた。
その結果、現実の問題解決が、自分の狭い集中・観念の中のみ…現実を確りと見えていないのに…
それでも…一晩寝た昨日は、体調万全なのに…たまたま白昼夢の迷宮へ…
でも、今日やっと迷宮から脱出法が…それを今から書きます。
また、コメントを下さいね…
tadaさんへ
よんでください!
コメント下さい!
おねがいします♪
以下のコメントを再読しました。
2023/12/23 23:17:01
自由びとさん こんにちは
認識の像は分裂する=変化する。今度は 認識の像は集中することを考えてみたらどうでしょうか?一般的に像は変化するものと考えると 特殊的に 像は変化を停止に近づける状態がある。つまり 悟りの状態や催眠状態など 狭い範囲で 変化する状態=集中です。無意識の状態を除けば 意識が有る限り 完全な像の停止はないと思うので 狭い意識の範囲での変化を集中とみます。
そして、気付いた事は、以下のよう事です~
宇宙的な全体への集中 (主に自分の知識・観念的な集中)、
世界全体への集中 (世界の知識・外国旅行の体験な集中)、
「自然への集中」・「社会への集中」・「精神への集中」の総括・地球世界
これらの集中とは、外界の限られた部分・対象への集中から、その反映して…
いや~またまた、
私の白昼夢的認識・観念内の、私の迷宮、白昼夢の中での迷宮ですね。
この迷宮からの脱却・脱出できずに、藻掻いていたのですね。
>「脱却」は、好ましくない状態や考えから抜け出し、欠点などを捨て去ることを意味します。
>一方、「脱出」は、好ましくない、または危険な場所から逃れることを意味します。
>「脱却」の類義語には、「殻を破る」「閉塞状況を打破する」「変革する」「刷新する」「新風を吹き込む」「チェンジする」などがあります。
そう言えば…以前に、夢の中で、内容は不明…夢という自覚もなく、異様な不快感を抱き、そのからの脱出を…
その為に、大声で叫ぼうと…叫んだ瞬間に、夢から覚めました。
また、別の夢では、内容・理由は忘却…夢の中(自覚なし)で蹴ったら、蹴った壁の感触で目覚めた。
認識の集中にも、レベルがある事を、今朝・さっきマロンとの散歩途中で気付きました。
私の過去の家庭での体験からの 問い掛けを 現在の私が学校で使う事は、場所・時・目的…が異なって無理があります。
例えば、私が何かして、母のいう事がきけないと…「昔は……」またまた迷宮の中、
端的に結論を書きます。
世界・宇宙・全体的な集中が可能だったとして、
また、自然のへ集中・社会への集中・精神への集中集中が可能だったとして、
宇宙の中の地球、地球の中の自然・社会・精神…
更には、自然の中の社会での、自然の中の社会での精神への集中、
結局…私は、私の集中した現実の結果・認識を、全体的・体系的に、構築できていない、のですね。
というか…言葉にできない・言葉を知らない…
tada さんが、書いていた、その対象・事物の最盛期から、その事物を考察する。
その最盛期から、生々・生々・発展を考察して…生々生成は、過ぎてしまった。
それでも、眼前の対象の今後の変化・衰退・消滅は感覚可能。
生々生成のレベル⇒発展のレベル⇒衰退レベル⇒消滅・新たな生々生成⇒これが弁証法性
そして、対象の事実を、上記のような流れで捉える事が、対象の理論・論理的把握。
例えば、玄〇会の「玄和の血潮」ですが…
空手の上達過程を事実レベルの言葉で、理論的に書かれている、のでしょう。
そこには、
空手の上達(白帯⇒茶帯⇒黒帯⇒達人・名人)過程、
また、それは、人間の生活(生・血気盛ん・老・死)過程、
そして、そけは、玄〇会の組織的上達過程…中途から⇒論理学研究会へと分裂…
生々・生々には、生々生成の論理が、
発展には、発展の論理・構造が、
衰退には、衰退の論理・構造が、
消滅には消滅の論理・構造、
私は、私の歴史が・生育史が、それを理性的・上達論的に捉えるか…
それとも、今の私の感情・感性の変化的に捉え書くか…
この理性的・感性的の相違は、その時々の目的意識の相違。
感情的な自己的な書けて満足・快を求めてか?
理性的な他者が理解できた満足・快を求めてか?
楽しいからやる。
苦しくても、勉強になるからやる。
「強いて勉める」勉強ならば、苦しくても「やり続ける事に意味」がある。
中途で、その事が「楽しくなったら」それは、勉強ではなく、その人にとっては「遊び」。
だから、「死の恐怖」、最大・最終的な「死の恐怖」を克服したら、その勉強を変える必要がある。
だから、南郷継正は、実体的な空手で死の恐怖を勉強。
同時に、観念・認識的な弁証法の勉強。
その二つを、
先ずは相対的独立的に~弁証法と空手・空手と弁証法…その過程で空手を武道空手に~
次に、武道空手と認識論・論理学研究会ゼミ……未完で~す!
教育が分かりました。
「教育とは、人類の英知(理性智)を教えながら、
その英知(理性智)に見合った心(感性智)を育てる」
文字・書物の記述的な「英知」の自由な運動は至難。
しかし、その英知の感情化ができたら、人間の英知ココロは変幻自在なのですね。
ただ…現代の学校の授業は、上記のようになっていません。
昨日、一年一組の算数の学習補助に入りました。
そこで、ひと纏まりの「<十>」の概念が、分からない児童の続出…。
私が、一人女子指導が、(十)の纏まり概念が分からず苦慮した事実を同僚の補助員に話したら、他にもたくさんいるよ、普通だよ!…(その事実にビックリ) そして、「その「十」の概念は、「………」というように説明すれば、分かるようになります。」と教えてくれました。
私が塾で「十」の概念を指導した時、塾の英語授業で使っている、小さいプラスチック熊をたくさんバラまいて、「さあ~何個あるか、みんなで数えてみよう」…と指導しました。
私は、子供の頃、両親から「使わないからあげる」と貰った、たくさんの「一円玉」を十個積み立て、その高さに合わせて、並べて数えたモノでした。
今は、何度も言葉・映像…ですよ。だって、生活授業の朝顔の観察も、タブレットで取った数枚の映像・写真を見ながら書いています。
理由は、たぶん…教室での方が、教師が管理し易い・児童が書きやすい…現代は、何でも「楽で、やり易い」ですね。
そんな・だから、ノート書きも面倒くさい、掃除も…ノート・教科書だすのも面倒が続出…
そうそう…先日、学校での掃除当番制とは?を考えました。
以前、教員時代に、保護者から「児童・子供に掃除当番させて…どうせ綺麗にできないのだから、業者に頼んだ方がいい…」といった提言がありました。
その時は、分からなかった!…その理由が分かりました。
それは、「掃除の仕方を学びながら、その仕方で実際に掃除をする事で、「掃除の型」を創りながら・同時に「掃除ココロ」を学ぶ、ですね。
「創りながら・使っている」と言う事なのです。だから本来は、教師による厳しい「掃除の型」の指導が不可欠なの…