「初めての禅問答」から読み取る「道」について
以下のような記述を「初めての禅問答」で発見した。
………引用開始………
P85 「どうしたら道と合えるでしょうか」
僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」
僧問う、如何が道に合することを得ん。祖曰く、我れ早に道合わず。
僧が「道と合う」というのは、自分が道と別であるということを前提としている。
馬祖が「いまだかつて道と合ってなどおらん」というとき、
道を自分と別のなにかとして対象化していない。
道とは「いま・ここ」に自分として存在していることである。
したがって「どうしたら道と合うことができるでしょうか」という問いは、
ひどくグロテスクである。
そんなふうに問うのは、自分にとって可能なあり方の全体をながめて、
「このあり方は道から外れておるわい」とつぶやくようなものである。
それは、「いま・ここ」に自分として存在していることを超えて、
どこかに自分のあり方の外部にから自分のあり方をとらえるようなしわざである。
(中略)
このさい「僕の道の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」)
とでもおもっておけば、道に合うとか合わないとかいった問題は生じようがない
(なにせ自分が道をつくってゆくのだろうから)。
すでに「いま・ここ」に自分として存在している以上、
道と合っているかどうかってことは、はなから問題となりえない。
入矢本にも「道と一つに契合した人にあっては、おのれが道と合しているかいなかだとの意識さえない」とある。
P198 「道に達するとはどういうことなのか」
問う。「どういうふうになれば、道に達したといえるのでしょうか」
馬祖はいう。「自分はもともと自分である。善や悪にこだわらなければ、とうに道を修めている。善をおこない、悪をしりぞける、空をわきまえ、定におもむくというのは無用な作為だ。外にむかって道を探そうものなら、探せば探すほど道から遠ざかってしまう。この世を心でとらえてはならん。心をはたらかせることが苦しみの原因だ。心をはたらかせなければ、あらゆる苦しみとおさらばできよう。
又問う。何の見解を作せば、即ち道に達するを得るや。祖曰く。自性は本来具足す。但だ善悪の事中に於いて滞らざるをば、喚びて修道の人作す。善を取り、悪を捨て、空を観、定に入るは、即ち造作に属す。更に若し外に向いて馳せ求むれば、転た疎にして転た遠し。但だ三界の心量を尽くすのみ。一念の妄心は、即ち是れ三界に生死せる根本なり、但だ一念無くんは、即ち生死の根本を除き、即ち法王の無上の珍宝を得る。
「どういう境地になれば道に達することができるのでしょうか」という問い方はナンセンスである。いったい「道に達する」とは、「ほら、これが道に達することだよ」と示せるようなものなのだろうか。どういう答えを示されれば、「ふむふむ、これが道に達するってことか」と納得できるだろう。
仏道の修行というものは、ひとに答えてもらうのではない。道に達するとはこういうことだ、というふうに事実として示せるものではない。だとすれば、この問いは問いとして成り立っていないことになる。そもそも問いとして成り立っていない問いには馬祖として答えようがない―かとおもったら、ちゃんと答えている。
馬祖はまず、「自分というあり方はもともと自分にそなわっている」と断言する。この自分はどう転んでも自分である、と。あるがままの自分を受け入れよ、と。
(中略)
わたしは、自分は自分であると決めている。このことについて。いまさらわかることはありえない。
「決める」ことと「分かる」こことは両立しない。
「わかる」とは、すでに成り立っている事実について認識することである(から、まちがうこともある)。
「決める」とは、わたしが決めたことによって事実が成り立つのである。(から、まちがいようがない)。
「道に達する」とは、どこかに道があって、そいつに達する、という達し方をするわけじゃない。
みずから「よし、これが道だ」と決めることであって、「ふうん、これが道か」とわかるべきことではない。
外にあるものの場合、それが道かどうかは客観的に判断されざるをえないが、
自分で「これが道だ」と決めるものについて、他人に「それは道じゃない」といわれたところ痛くも痒くもない。
したがって、「外にむかって道を探せば探すほど、いよいよ道から遠ざかる」のは当然である。
自分が自分であることに根拠を外にもとめるのはムダである。
この世界が「わたしの世界」であることは、否応なくそうなのであって、それ以外のあり方はありえない。
そういうあり方をついて、あらためて「わかる」ことは不可能であり、不必要である。
心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。
………引用終了………
上記の引用文についての感想は…
後日また~~~
以下のような記述を「初めての禅問答」で発見した。
………引用開始………
P85 「どうしたら道と合えるでしょうか」
僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」
僧問う、如何が道に合することを得ん。祖曰く、我れ早に道合わず。
僧が「道と合う」というのは、自分が道と別であるということを前提としている。
馬祖が「いまだかつて道と合ってなどおらん」というとき、
道を自分と別のなにかとして対象化していない。
道とは「いま・ここ」に自分として存在していることである。
したがって「どうしたら道と合うことができるでしょうか」という問いは、
ひどくグロテスクである。
そんなふうに問うのは、自分にとって可能なあり方の全体をながめて、
「このあり方は道から外れておるわい」とつぶやくようなものである。
それは、「いま・ここ」に自分として存在していることを超えて、
どこかに自分のあり方の外部にから自分のあり方をとらえるようなしわざである。
(中略)
このさい「僕の道の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」)
とでもおもっておけば、道に合うとか合わないとかいった問題は生じようがない
(なにせ自分が道をつくってゆくのだろうから)。
すでに「いま・ここ」に自分として存在している以上、
道と合っているかどうかってことは、はなから問題となりえない。
入矢本にも「道と一つに契合した人にあっては、おのれが道と合しているかいなかだとの意識さえない」とある。
P198 「道に達するとはどういうことなのか」
問う。「どういうふうになれば、道に達したといえるのでしょうか」
馬祖はいう。「自分はもともと自分である。善や悪にこだわらなければ、とうに道を修めている。善をおこない、悪をしりぞける、空をわきまえ、定におもむくというのは無用な作為だ。外にむかって道を探そうものなら、探せば探すほど道から遠ざかってしまう。この世を心でとらえてはならん。心をはたらかせることが苦しみの原因だ。心をはたらかせなければ、あらゆる苦しみとおさらばできよう。
又問う。何の見解を作せば、即ち道に達するを得るや。祖曰く。自性は本来具足す。但だ善悪の事中に於いて滞らざるをば、喚びて修道の人作す。善を取り、悪を捨て、空を観、定に入るは、即ち造作に属す。更に若し外に向いて馳せ求むれば、転た疎にして転た遠し。但だ三界の心量を尽くすのみ。一念の妄心は、即ち是れ三界に生死せる根本なり、但だ一念無くんは、即ち生死の根本を除き、即ち法王の無上の珍宝を得る。
「どういう境地になれば道に達することができるのでしょうか」という問い方はナンセンスである。いったい「道に達する」とは、「ほら、これが道に達することだよ」と示せるようなものなのだろうか。どういう答えを示されれば、「ふむふむ、これが道に達するってことか」と納得できるだろう。
仏道の修行というものは、ひとに答えてもらうのではない。道に達するとはこういうことだ、というふうに事実として示せるものではない。だとすれば、この問いは問いとして成り立っていないことになる。そもそも問いとして成り立っていない問いには馬祖として答えようがない―かとおもったら、ちゃんと答えている。
馬祖はまず、「自分というあり方はもともと自分にそなわっている」と断言する。この自分はどう転んでも自分である、と。あるがままの自分を受け入れよ、と。
(中略)
わたしは、自分は自分であると決めている。このことについて。いまさらわかることはありえない。
「決める」ことと「分かる」こことは両立しない。
「わかる」とは、すでに成り立っている事実について認識することである(から、まちがうこともある)。
「決める」とは、わたしが決めたことによって事実が成り立つのである。(から、まちがいようがない)。
「道に達する」とは、どこかに道があって、そいつに達する、という達し方をするわけじゃない。
みずから「よし、これが道だ」と決めることであって、「ふうん、これが道か」とわかるべきことではない。
外にあるものの場合、それが道かどうかは客観的に判断されざるをえないが、
自分で「これが道だ」と決めるものについて、他人に「それは道じゃない」といわれたところ痛くも痒くもない。
したがって、「外にむかって道を探せば探すほど、いよいよ道から遠ざかる」のは当然である。
自分が自分であることに根拠を外にもとめるのはムダである。
この世界が「わたしの世界」であることは、否応なくそうなのであって、それ以外のあり方はありえない。
そういうあり方をついて、あらためて「わかる」ことは不可能であり、不必要である。
心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。
………引用終了………
上記の引用文についての感想は…
後日また~~~