続・「初めての禅問答」から読み取る「道」について
道には
「悟る為に歩む道」=「悟りへの道」、
「悟った者が生きる道」=「悟り者の道」に分けられる。
悟りへの道は、悟り獲得の為の修行者の道であり、
悟り者の道は、悟った状態維持の為の悟得者の道、と言える。
悟り獲得の道とは、例えるなら「水(未悟得)を沸かして熱湯(悟得)にする道」
悟り維持の為の道とは、例えるなら「熱湯(悟得)を冷やさない(未悟得に戻さない)道。
成仏について以下の解説を入れる。
「成仏 (じょうぶつ、buddhahood; サンスクリット語: buddhatva; パーリ語: buddhatta or buddhabhāva )とは、
「目覚めたもの」という状態・階位を意味する 仏陀 となったという 仏教用語 。成仏への捉え方は宗派によって異なる。. 表. 話.」
悟った状態を「悟得」、「成仏」、「仏に成る」、「目覚めたもの」という意味になるのだろう。
上記の例えは、
常温の水を未悟得状態(仏)、
熱湯状態の水を悟得状態(成仏)、としている。
上記の事を踏まえて以下の記述を読むなら、
>P85 「どうしたら道と合えるでしょうか」
>僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
>「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」
修行僧の道は、水を熱湯にする為に高温の熱を加え続ける道。
馬祖の道は、熱湯状態維持の為に熱を維持する道。
そもそも初心者・修行僧には、
熱が何かが分からない。
熱が分かっても加熱の方法が分からない。
加熱できても熱を上げる方法が分からない。
熱を上げられても温度調整が分からない。
熱湯になっても、その状態維持が分からない。
分からないだらけ…である。
上記の全てを習得・修得するのが修行僧の「悟りへの道」
一方、悟得者の道は
過去の修行を踏まえて、熱湯状態維持為に「水の量」と「温度調整」をする道。
修行者の道は「水から熱湯への道」
悟得者の道は「熱湯状態の道」
この例えから言える事は、ここでの「僧の道」と「馬祖の道」は異なっている。
また以下の記述から
>「心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。」
この記述をどのように理解するか…
仏と成仏の相違であろうか…
「仏のままの状態」と「成仏した状態」の相違であろう。
仏の状態とは、水の例えなら、熱湯状態を未体験の水(心)。
成仏の状態とは、熱湯を状態・熱湯体験済の水(心)。
馬祖の平常心とは、目覚めた状態が平常な心。
僧の平常心とは、目覚めよう頑張っている状態が平常な心。
同じ平常心でも、その内実・中身は異なっている。
馬祖は果たして、これらの相違に気付いているのだろうか?
観念論者である禅師には、己と僧の違いを意識する事はないだろう……
道には
「悟る為に歩む道」=「悟りへの道」、
「悟った者が生きる道」=「悟り者の道」に分けられる。
悟りへの道は、悟り獲得の為の修行者の道であり、
悟り者の道は、悟った状態維持の為の悟得者の道、と言える。
悟り獲得の道とは、例えるなら「水(未悟得)を沸かして熱湯(悟得)にする道」
悟り維持の為の道とは、例えるなら「熱湯(悟得)を冷やさない(未悟得に戻さない)道。
成仏について以下の解説を入れる。
「成仏 (じょうぶつ、buddhahood; サンスクリット語: buddhatva; パーリ語: buddhatta or buddhabhāva )とは、
「目覚めたもの」という状態・階位を意味する 仏陀 となったという 仏教用語 。成仏への捉え方は宗派によって異なる。. 表. 話.」
悟った状態を「悟得」、「成仏」、「仏に成る」、「目覚めたもの」という意味になるのだろう。
上記の例えは、
常温の水を未悟得状態(仏)、
熱湯状態の水を悟得状態(成仏)、としている。
上記の事を踏まえて以下の記述を読むなら、
>P85 「どうしたら道と合えるでしょうか」
>僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
>「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」
修行僧の道は、水を熱湯にする為に高温の熱を加え続ける道。
馬祖の道は、熱湯状態維持の為に熱を維持する道。
そもそも初心者・修行僧には、
熱が何かが分からない。
熱が分かっても加熱の方法が分からない。
加熱できても熱を上げる方法が分からない。
熱を上げられても温度調整が分からない。
熱湯になっても、その状態維持が分からない。
分からないだらけ…である。
上記の全てを習得・修得するのが修行僧の「悟りへの道」
一方、悟得者の道は
過去の修行を踏まえて、熱湯状態維持為に「水の量」と「温度調整」をする道。
修行者の道は「水から熱湯への道」
悟得者の道は「熱湯状態の道」
この例えから言える事は、ここでの「僧の道」と「馬祖の道」は異なっている。
また以下の記述から
>「心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。」
この記述をどのように理解するか…
仏と成仏の相違であろうか…
「仏のままの状態」と「成仏した状態」の相違であろう。
仏の状態とは、水の例えなら、熱湯状態を未体験の水(心)。
成仏の状態とは、熱湯を状態・熱湯体験済の水(心)。
馬祖の平常心とは、目覚めた状態が平常な心。
僧の平常心とは、目覚めよう頑張っている状態が平常な心。
同じ平常心でも、その内実・中身は異なっている。
馬祖は果たして、これらの相違に気付いているのだろうか?
観念論者である禅師には、己と僧の違いを意識する事はないだろう……