新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

ああ~真理~ああ

2021-06-13 12:02:40 | 想いのままに…
「真理は一つ」という真理を前提に進めるなら~

森羅万象・万物は全て変化する、
「変化する」という事は変化しない、
合わせて二つで一つ。


世界に客観的に存在するだろう真理一つ、
その真理を人間が認識した主観的真理一つ、
合わせて二つで一つ。


世界・全体が変化・運動しているなら、
全てを貫く真理一つ、
個々の個別の変化・運動を貫く真理一つ、
合わせて二つで一つ。


全体的真理と部分的真理で合わせて二つで一つ。

世界の客観的真理と認識の主観的真理、
合わせて二つで一つ。

動物にとっては本能が全て、それが一つの真理。
人間は本能的真理と認識的真理、合わせて二つで一つ。


動物なら真理は不要、本能だけで充分事足りる。
人間だから真理が求められる、それも二つの真理が…。


コインは裏と表、合わせて一つ。
真理も二つで一つの真理。



「全ては疑いうる」と「全ては信じうる」、二つ合わせて一つの真理。

変化・運動は二つを一つに統合しよう、とするからあるモノ。
変化・運動に関する真理なら、二つで一つの変化・運動真理。

モノは、モノ自体と弁証法性の二つを合わせて一つのモノ。
モノは、モノ自体に弁証法性があるから変化・運動するモノ。

求めなければ得られなのが真理、なら、
求めるから得られないのも真理、であろう。


求めつつ求めない、求めないが求める、
それが真理への到達への姿・道だろう。


真理は非常にシンプル。

全ては、変化運動する。
全てに、始まりあり、終わりある。
それでいて全てに、始まりなく、終わりなし。

無限が広く大きい全てなら、
1も2も3…も全て小さく狭い全てなのだろう。


人間にとって、「全てと思える」モノが全て。
人間にとって、「真理と思える」モノが真理。

全体が、全体として一つなら、
各々の部分も、一つの部分としての全体。

全体を全体とするのも、人間の認識なら
部分を部分とするのも、人間の認識。

また、
全体を部分にするのも、人間の認識なら、
部分を全体にするのも、人間の認識。


普通に元気で健康な人間は、身体的な意識は一つである。
激しい運動の翌日なら、筋肉痛で身体的な意識は複数。


更に病気で不健康なら…
元気な意識と病気の身体と二つに分裂。




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どうして「真理が二つ」?

2021-06-13 08:57:57 | 想いのままに…


「真実は一つ」と「真実は一人に一つ」~
どちらも真理と言えよう。

そもそも「事実は一つ」であっても、
それを言葉にするなら一人一人違った言葉になろう。

真理が一つであっても、それを言葉にするなら~

「真理はある」とするのも真理なら「真理はない」とするも真理。
そもそも…事実も現実もあるがないモノと言い得る。

事実・現実という言葉はあっても、
その事実に100%合致する事実・現実は存在し得ない。


「私」は存在していても、100%同じ「私」は存在しない。
「私」は「私」であっても、常に違っている「私」である。
それでも、その違いの中に共通性を見出し「私」と認識している。


労働とは、人間が対象に目的・意識的に働き掛け、
対象を変化させる事で人間自身も変化していく、
その一連の行為・行動を言う。


人が、対象に目的意識を持って働き掛けるのが労働なら、
人が、目的意識的に対象に働き掛けないようするのも労働。


労働しようとするのが労働なら
労働しないようするのも労働。


「好き」で関わろうとするのも目的意識的な行為なら、
「嫌い」で避けようとするのも目的意識的な行為である。


自分自身の目的を意識できていなくても、そこに「目的意識」がある。
人は腹が減って食事をする。その目的は生きていく為のモノである。

人は、その目的を意識・自覚しているのだろうか?
人は「生きていく為」という目的を「楽しむ為」と変えていないだろう?

「生きる為に身体が必要なモノを食べる」と「楽しむ為に自分が食べたいモノを食べる」。
「食事は楽しんでするモノ」と「食事は静かにするモノ」。


楽しむ人生があれば、苦しむ人生もある。
生き急ぐ人生もあれば、死に急ぐ人生もある。
結局、どんな人生で、最後は「死」で終了だろう。

どうせ死んで終わりなら楽しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら苦しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら悲しむ人生を~。
どうせ死んで終わりなら自分の為の人生を~
どうせ死んで終わりから人間の為の人生を~
どうせ最後は死んで終わりなら納得できる人生を~

どうせ最後は死んで終わりなら今すぐ死んでも同じだ。
どうせ最後は死んで終わりなら死ぬまで必死に生きる。

私は死んでも息子は生きる、
息子が死んでも孫は生きる、
血縁者が死んでも人類は生きる、
人類が滅びても、生物は生きる、
生物が滅びても地球は残る、
全てが滅びても、新たに何かが生まれる。



「ある」とは、「ある」という状態がある。
「ない」とは、「ない」という状態がある。

「0」 とは、「0」という数字が「ある」。
全く何も存在しない「絶対0」・「絶対無」とは?
私が死んで逝った時、そこに「私的な無」が、
人類が滅び去った時、そこに「絶対無」が…起こり得るのだろう。


宇宙・世界を宇宙・世界と認識するモノがなくなれば、
宇宙も世界も、そこにあっても、それはないモノなのだろう。





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数日前の事…

2021-06-05 11:30:52 | 日記
数日前の事である。

具合の悪そうな児童を見つけたので…

「どうしたの?」と聞いたら、
「先生!眠い…」と返ってきた。
そこで「昨日、寝たの遅かった?」と聞き返したら、
「うん!お父さんとユーチューブ視ていたの…」と言っていた。

その言葉で私、
『父親なら、子供に確りと睡眠をとらせるべきなのに…』と
批判的に思った。


その児童に同じ話を担任の前でもしてもらったら…
担任は「よかったね♪ お父さんと一緒で…」と返していた。

私はビックリした。
同じ事実・話なのに、こうも違った捉え方をするとは…

私は父親の立場に立ち、その児童の父親に批判的に…
なのに、担任は児童の立場で一緒に喜んでいた。

その後、その児童を保健室へ連れて行った時、
養護の先生から「…母親がいない…と聞かされた。」

私は『母親は亡くなったのかな?』と思いつつ…
『後で、もう一度養護の先生に聞いてみよう!』と決めた。


そんな中、その児童と話していると…
「嬉しいんだ♪…今度お母さんと遊園地行くんだ♪」と言っていた。

養護の先生にその話をすると
「離婚したか…別居中か…ですかね」と言っていた。

う~ん…
祖父母が一緒かもしれないが…
子供にとって父・母の存在は大きい。

母親なしで父親だけの家庭なら、
「仕事に疲れて帰宅して子供と一緒にユーチューブ…」を
批判するのは、どうなのだろうか?

それよりも担任のように、
児童の立場で一緒に喜ぶ方が、よい・有効なのだろう…





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一般的と具体的

2021-06-02 11:09:00 | 哲学言葉シリーズ
一般的と具体的

先週の事である。

三年生男子二人の通常級「音楽」への交流授業へ参加した時の事~
二人は少々開始時刻に遅れて音楽教室に到着、児童達は座って合唱していた。
その後、立ってリズムに乗って動きながらの合唱が始まった。

その時、席を立とうとしない二人に私は、
「立って歌おうね!みんなも立って頑張っているよ…」と促した。

そんな私の言葉にK君が「…さんかい…」
そんな理解し難い言葉に私は聞こえないふりで「…やろうよ!」と繰り返していた。

そんな私にK君は「…さんかい…」と繰り返し言っていたので、
隣に座っていたE君に「…どういう事?」と尋ねたら、
E君が「みんなの教室は三階で、僕たちは一階だから…」と教えてくれた。

その言葉に私以下のように納得した。

一階から四階の音楽教室まで階段を上がって来て、
直ぐに、立って動いて歌うのは無理なのかも…と…

でも…少し考経って…以下のような事に気付いた。

確かに、
四階の音楽教室に来るのに、
一階の特別支援学級教室から来た二人は、
三階の三年教室から来た他の児童よりも疲れている筈である。

でも…しかしである。
今は、五校時の「音楽」授業であり、その前は昼休み時間であった。
殆どの児童達は一階の校庭で遊んでいた筈である。
そんな彼らも、K君・A君と同様に、一階から四階へと上がって来た筈である。
もっとも…彼らは一度三階の教室へ寄って「音楽バック」を持っての四階上がりではあるが…

ならば、K・A君二人と他の児童の疲れ具合に大きな違いはない…筈…

以上の流れを論理的にみるなら…


私の一般論「みんなは頑張っているから二人も頑張ってやろう」、
K君の具体論「教室一階の僕たちの方が、教室三階の皆より疲れていて頑張れない」
そこで私も具体論「五校時の今日は、皆も一階校庭から四階へ来て疲れは同じ」


とかく…大人の説教は一般的レベルで始まるモノである。
しかし~それを子供は具体的レベルで理解し反論する。
そこで、大人には、その具体的事実に合わせた一般論の適用が求められる。


「皆と同じにやろう…」と言っている私、
「僕たち皆と違うからやれない…」と主張する児童、
「違うかも知れない…でも今日は皆同じだからでやれる…」と指摘する私、






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