新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

臨済義玄へ~

2021-11-10 11:03:13 | 想いのままに…



>・コメントを書いた人
>臨済義玄


>コメント
>本当に心からの素直な問いかけをしたいと思います。
↑~
お宅の「(心の)素直な問い掛け」を、赤の他人である自由びとブログで言語化・コメントするなら、
その「素直な問い掛け」心に従って素直(馬鹿正直)に書く事は、社会的ではありません。
なので…少々コメントの××をさせて頂きます。


>もしもお宅が学問を学びたいと思ったなら、それも最高レベルに高いところまで行きたいと願ったなら、東京大学の教授と公園の乞食と、どちらに教えを乞いますか?


私の学びたいのは、人生を自由自在に生き抜く為の認識(形成の方法)です。
なので、東京大学の教授の教えは、私には不要です。
それより公園のホームレスに、その体験を聞いた方がよっぽど役立つと思います。
そうそう…思い出しましたよ!
昔、早朝のうす暗い公園散歩の途中に出会った、山羊を掘っ建て小屋の前で飼っていたホームレスと話した時の事を…
色々と人生勉強になりましたよ。なんでも…田舎(地名忘却)建築関係の仕事をしていて…色々あって東京へ出てきた…そうです。
話した内容は忘れても、彼と話して時の感情・思い…像にならない感情像は浮かんできました。
大学教授と話しても、数十年経てば、聞いた知識も話した時の感情も残っていないでしょうね。

南郷氏の学問・哲学・認識論・弁証法・武道空手・武道護身空手…には、私の学びたいモノがあります。
因みに…最近の通常級の補助員としての日々の生活は、随分と充実してきましたよ。
これも、弁証法の人生で修得・実践の効果ですかね…
なんて書くと…嘘つきのお宅なら、「嘘!空虚!」…信じないでしょうが…
でも…まあ……これは私だけの、私が感じた実感でから…

これって…お宅の妄想と同類でしょうかね。
でも、仮に「妄想」だとしても…それが現実をより豊かに、楽しいモノに、充実あるモノ、子供達も喜んで「○○先生!」と声掛け寄って来る現実になっているのです…




>南郷さんは「専門家とは現場の鳶職でなくて丹下健三や黒川紀章のような存在」だと書いてます。それは素直に首肯できるんです。
ですが、お宅がやってる「教員補助」という仕事、これは人生を目的意識的に生きた人間の選ぶ仕事ですか?

お宅には、以下の現実が分からないでしょうが…

私立教諭としてみた通常児教育世界、パチンコ学校の生徒としてみた大人教育世界、パチンコ経営者・従業員教育から見た教育世界、塾の講師として見た外国人教育の世界、家庭教師としてみた個別教育世界、特別支援学級の補助員としてみた、自閉症児の教育世界、情緒障害児の教育世界、…更には、教員としてみた教師の世界、生徒としてみた先生の態度・世界、補助員としてみた保護者の世界…書ききれないので…以上…


そんな教育者の心・世界、被教育者の心・世界から「人間というモノが見えてきました」
教育過程とは、人と人との成長へ向かってのぶつかり合い…過程ですからね…


>「人生を目的意識的に生きた人間の選ぶ仕事ですか?」

お宅は、私の人生の目的意識を知っていますか?
知らないでしょう!

私の目的は、人生を自由自在に生き抜く事です。
それは、教員としての人生でもなく、商売人の人生でもなく、遊び人の人生でも…ないのです。
いうなれば、どんな世界でも、周囲に合わせての自分の納得可能な自由であり自在なのです。

私の目的意識を知らず、この問いかけは、無謀ですね。

私なら、「そのような生き方をしている人の目的意識とは?」と問います。
この、お宅の問い掛けは、
「自由びとの目的意識を知らないのに知っているつもり」の結果ですね。。






>どうして「歴史性ある人間」との玄和会の理念を学んだお宅が、義務教育の教員補助なんて仕事をしてるんですか?

お宅は、玄和会の理念を知っていますか?
「主体性の確立」と「主体的に生き抜く」ですよ!
主体性を持って、人から言われてではなく、自分から進んで実行・行動…ですよ。

今のお宅のような問い掛け・コメント…ネットでだらだらと…
他人の記事・仕事・生活にまで一々問いかける記述は…
私からすれば、お宅の思って書いている「乞食以下」ですよ。



>それは例えば、××の××さんが××大学で××免許は取ったものの、××の稽古にばかり熱を入れていたので、いざ必要に迫られて就職しようとしたなら義務教育の教員補助にしかなれなかったということじゃないんですか?

↑~
このような他人の名前での例えは、私的には削除ですが…

まあ~あまりにも馬鹿らしいの削除までは止めました。

これは、お宅の妄想的・超個性的な問い掛けですね。
違う理由は、詳しくは個人情報なので書きませんが…

私は学校に就職してから教員免許を取りました。
初めの大学では教職課程を取りません。
入学時の私の目的意識と卒業時の目的意識とでは大きな違いがありました。


仮に上記のような「心の問いが素直に浮かんだ」としても、
常識・良識なる普通の人なら、お宅のような言葉にはしませんね。
ヤッパリお宅は、常識・良識も全くない非常識・良識皆無お宅ですね。


>それだったら、他流の空手家のように道場経営のプロとして名前を挙げたほうが一人の人間の生き様として見事だと思いませんか?
「実際にやり合ったら一撃で殺せる」とか情けない生き方するよりも。

常識も良識もないお宅に、超個性的なお宅には、
普通のまともな人間の目的意識は分らないようですね……
それを分かったつもりで書くから、
上記のような問い掛けになり得るのです。

>「実際にやり合ったら一撃で殺せる」とか情けない生き方するよりも。<

全く分かっていませんね。
「実体に…殺せる」は非常識です。
現代の大人の常識発言なら「一発で倒せる」です。

また、これは生き方ではありません。
弱かった自分が「一発で倒せる」になる程実力を修業・修行を通して養成・形成した、
その精神力を信じ、自信と誇りを持って人生を生き抜く事が生き方ですかね。




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続・重層弁証法について…

2021-11-10 09:22:41 | 弁証法
続・重層弁証法について…

前回の「重層弁証法について…」の失敗は、
全体的一般論から始めなかった事であるコトに気付いた。

そこで今回は、そこから始める事にした。
でも残念な事に自前の全体的一般論がない…ので
南郷師範のモノをお借りしての始まりである。


  弁証法とは、モノ自体の性質(弁証法性)を
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の重層・循環運動法則として捉えたモノ。

 「南郷学派唯物論では、世界の始まりはモノ自体である」と概念規定している。
 「ヘーゲル観念論では、絶対精神の自己運動で世界が始まった…」であるが…
 私は、南郷学派唯物論を私の世界観として採用しての始まりである。
 
 世界の始まりがモノ自体であり、
そのモノ自体の弁証法性の現象状態(実態)が人間が感覚している世界(仮定)とする。

 その世界を「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」運動で見て取れるなら、
そこからモノ自体の弁証法性が見えてくる。
 これは、実態・世界の変化・運動性≒モノ自体の弁証法であろう(仮定)。

南郷学派では、世界を自然・社会・精神に三分割して、
それぞれの弁証法性を見て取ろうとした。
何故なら、人間には世界全体を一度に認識できないが部分なら認識可能だから…

そこから、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法が誕生させた。
だから、世界の中の何かを弁証法的に考える時は、
これら三つを現実世界の歴史に合わせて駆使する必要がある。

世界は、自然界⇒人間社会⇒人間の精神…の順であるから(仮定)…
対象に合わせて、自然の弁証法⇒社会の弁証法⇒精神の弁証法…

以上は、私が理解した南郷学派の主張を前提として考え書いたモノなので、
「弁証法とは…」の出発点が違っている者には納得し難いだろうし…
また、世界の三分割に不満を持つ者にも納得不能であろう。

因みに、
弁証法「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」変化・運動・法則には、

弁証法の使い方には、受動的と能動的使用法が考えられる。
受動的―対象の変化・運動性を見て取る為の弁証法~。
能動的―対象を自己の思いの方向に変化・運動させる為~。


弁証法の対立物の統一には以下~
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の統一…
「生々の統一」⇒「生成の統一」⇒「発展の統一」⇒「衰退の統一」⇒「消滅の統一」の統一…

弁証法の論理は以下~
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の論理…
「論理生々の論理」⇒「論理生成の論理」⇒「論理発展の論理」⇒「論理衰退の論理⇒「論理消滅の論理」…の論理。




そして、弁証法の「否定の否定」とは、
「生々・生成・発展・衰退・消滅…」の否定の否定
「生々の否定の否定」⇒「生成の否定の否定」⇒「発展の否定の否定」⇒「衰退の否定の否定」⇒「消滅の否定の否定」…

更には、量質転化も然り…


「重層弁証法」とは、自分の目的達成の為には、
「自然・社会・精神の弁証法」を上記のように
意図的に駆使する過程・法則なのだろうと…(私は思う)






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重層弁証法について…

2021-11-06 09:51:56 | 弁証法
重層弁証法について…



今年の四月からの私の仕事内容は以下~。
午前中は、通常級の学習指導補助員で、
午後は、特別支援学級の学習指導補助員。

どちらも同じ「学習指導補助員」だが…
その補助する学年の範囲・対象児童が異なる。
通常級では、主に一年生から三年生まで対象はクラス全員。
特別支援学級では、一年生から六年生まで対象は支援学級児童一人か二人。

今回のテーマ「重層弁証法」を一年生の国語の学習過程を通して考えてみた。


国語授業での平仮名の形・書き方の学習について~

一、「線の書き方練習」―点線・直線・曲線・ギザ技サ線・〇線…
初めに、手本の線をなぞり書き
次に自力で書く

二、「平仮名の書き方・書き順・型」の練習
  初めに、先生と一緒の正しい筆順に沿った書き方の指練習
次に、手本の指と鉛筆なぞり書き、
次に、自力で同じ平仮名を数個書く。

三、書かれた単語・短文・言葉のなぞり書き。

四、自力で言葉・単語を考え書く。


正しい文字の形を書くには、
先ずは、鉛筆の持ち方・使い方を学ぶ。
その練習が、「正しく持った鉛筆」での「線の書き方練習」。
その為には、指の使い方・動かし方、体の制御―正しく座って書く…

次に文字の正しい書き順に沿っての動かし方、正しい形の書き方…
それには、手本のなぞり書きの書き方の学び…

ここで「平仮名の書き方学習の弁証法」を考えるなら…
現実は、読み方の学習も同時進行であるが…ここで省略…


先ず弁証法性とは、モノ自体の生々・生成・発展・衰退・消滅…性質で
それを弁証法とするなら~
モノ自体の実態・平仮名の今後の変化・運動は、国語の学習のどの過程か?

言うなれば、
この平仮名の書き方・学習の国語学習全体での位置づけを考える。
国語の学習の目的・ゴールは、自由自在な文字・言葉による認識表現であり、
理想の文字言葉は、知っている人なら絶対的に誰もが読める文字。
理想の音声言葉は、知っている人なら絶対的に誰もが聞き取れる・分かる発音。

この「平仮名学習」は、認識表現である文字・言葉習得への弁証法での「生々」過程とするなら。

ならば、目標は、理想「平仮名の形」、「理想の書き順」であろう。
その実践が「手本」のなぞり書きの書き方である。
それは、「手本」との完全一致のなぞり書きを通しての学び、
理想の鉛筆の持ち方、理想の書き順で鉛筆の動かし方での手本との完全一致(を目指す)。

これば「生々」過程の弁証法なら、次は「生成」過程の弁証法が…
それは、「言葉」・文章の学び…


弁証性は現実・事実の中に、弁証法は人間・認識の中に、
弁証法性は、自然・社会・(世界)精神の関わりで続いていくモノ。
弁証法は、自然・社会・精神(世界)と関わった人間が、その目的達成の為に駆使するモノ。


この「生々」過程以前には、

鉛筆は、使えなくても、自由自在でなくても、
最低限の、身体コントロール能力と目的意識が必要である。

文字がきれいな児童は、二年生になっても、
手本の完全一致を求めているように
…ゆっくりしっかり一致で書いていた(私の見られた事実の範囲内で)…
そういう児童は、物静かで、控えめで、大人しい…ようである(私の見られた範囲内で…)


今の小学一年生…殆どの子供が平仮名を読めて書けていた。
でも…その子供達の多くは、自分の書ける・知っている形で書き、手本の線がズレていた。




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事実と言語について…

2021-11-03 10:40:51 | 認識論

事実と言語について…

言語とは、認識の表現である。
言語とは、事実を捉えて文字・音声表現にしたモノ。
言語とは、その人が関わった事実を文字・音声で表現したモノ。
言葉は、他人へ自分の思い・考え…認識を伝える為の道具として人類が誕生したモノ。

言葉の始まりは、人に何かを伝えたい…という感情…。
言葉の始まりは、人に見せる為の落書き・絵画…。

相手に「俺は怒っている!」と言う言葉は、
「怒(怒鳴)っている)事実・感情」ではなく。
自分が「怒(怒鳴)るに至った…その思い」を伝えて・知って欲しい思いの表現…。


言葉は事実か、否か…
言葉は、認識の文字・音声表現したモノ。
事実は、今・現実に起こっている物事、過去に起こった物事。

現在の事実は無限。
過去の事実も無限。

その無限の事実の全てを人間が認識する事は不可能。
だから、人間は、全ての事実の中から、
自分の必要・可能な事実を認識する努力・言語化する努力をし続けてきた…。

その結果、事実の「ひとまとまり」を言語で表現した。
「ひとまとまり」≠事実ではなく、
「ひとまとまり」<事実であろう。

その「ひとまとまり」は、事実の中の「開始⇒途中・過程⇒終了」。


事実の言語化とは、事実の論理化であり、事実の論理的表現。

言葉が
事実の部分的・論理的表現なら、事実の全体的表現とは?
それは、その事実に対する瞬間的・直接的な感情表現であろう。





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