新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

分かった!絶対矛盾!

2023-02-09 21:54:17 | ~哲学~
名無しの権兵衛さんへ

何と!
コテハンも書けなくなる程にボケましたか♪♪♪
しかも以下の引用も、いい加減ですね♪♪♪

>「>お宅には南郷氏の「絶対矛盾」という像は創れない<
これは正確に書くなら
「まあ~お宅には、南郷氏の「絶対矛盾」という認識・像は創れないでしょうが…
「もっとも…私にも無理でしょうが…」
「それでも、創ろう・創像しよう…という思いはあるのです。」

↑全然ニュアンスが違っていますよ!!!


>2020年6月28日の「「達人」について~」の記事<とは、古い記事をよく覚えていますね…
「概念規定」の創像過程の認識化・言語化・文字化は非常にムズイものがありますね♪♪♪

>……「絶対的に違う」……<、ともニュアンスが異なります。
人間には、絶対に現実とは一致しないような思考が可能な実力がある。
その現実とは絶対に一致しないような思考と事実は、「絶対矛盾」。
現実に起こり得る事実のようなのに、絶対に起こらない思考事実…「絶対矛盾」。

まあ~言語表現は難しいでするね。

確か…南郷氏は、ある時代に哲学が完成(ミネルバのフクロウが飛びった)時、
その時代の現実社会は、既にその一歩先へ進んでいる。

だから…その哲学は決して、その時代の現実社会の歩みに追いつけない。
そう~追いついたつもりが、決して追いついていない。

出来たつもりが、決して出来ていない。
分かったつもりが、決して分かっていない。

お宅の認識・確信みたい…ですね♪♪♪

分かった!
その時代の哲学とその時代の社会は絶対に一致しない」。
「絶対に矛盾」している。
分かった!
人間の認識・像は、現実の反映であっても、常に現実とはズレがある。
人間の眼前の事実を感覚して、頭脳に到着して認識するまでには、現実の先へ変化している。
人間の現実認識は、絶対に現実には追い付けない。
人間の認識像と現実の事実は、絶対に同時に完全一致はあり得ない。
これが「絶対矛盾」。
事実を感覚した瞬間、その事実は変化している。

南郷氏の「絶対矛盾」とは、上記のようなモノなのでは?


コメント (5)
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…教育者と学習者に必要なモノ…

2023-02-05 11:02:20 | ~教育~

教育者と学習者に必要なモノ


それは、双方が「主体性を持って主体的」に教育・学習する事。


教育・学習者の主体性とは、
自主的に自分の全力を発揮する(性質)。

この時の教育者の主体的とは、
自分ではない国家・社会人・家族の欲する「教育目標・目的」を自分のモノが如くに自主的(主体的)に
学習者を教育する事。


この時の学習者は、
自分ではない教育者の教える、国家・社会人・家族の欲する「教育目標・目的」を
自分のモノが如く全力(主体性)で、自分から積極的(主体的)に教育者から学習する事。



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「変化・運動」は、あるorない?

2023-02-05 10:41:17 | ~認識~


現実界をみるなら~
肉眼で直接見られるのは、今はこの瞬間だけ、だろう。

我々が、八ミリフィルム映画を見る時、
スクリーンでスムーズに流れ変化する映像が一連の運動として認識できる。

運動とは、運ばれ動く事・位置が変化する事。
フィルムの位置は変化しない。
ただ一枚一枚のフィルムが映し出されているだけである。

その一枚一枚の連続を見た人が頭脳内で「運動・動いている」と認識しているだけである。

我々が「走っているイヌ」の姿を見ている時、
頭脳内の残る今この瞬間の次から次への「イヌの姿」を記憶し…
それら一つ一つの像を同じイヌの連続の姿として認識した時、それを「変化・運動」と表現している。

現実界のどこにも、事実としての「変化・運動」は存在しない。
存在するのは、今この瞬間を事実・像である。

あるモノの姿・変化した像を、同一のモノであると認識するのにも、それなりの実力が必要であろう。
また、一つ一つの記憶像を連続体として捉えるのにも実力が必要であろう。

ある人物の生誕から大人までの一枚一枚の写真を、成長の流れに即して並べ直す作業は、その人物の全く知らない人にとっては難しい。ましてや他人の写真が混じった一枚一枚なら殆ど至難であろう。




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ゼノンのパラドックス

2023-02-05 10:07:51 | ~哲学~
ゼノンのパラドックス

「パラドックスについて「パラドックス」とは?意味と例文が3秒でわかる! | コトワカ/KOTOWAKA」では、以下のように書かれている。

>パラドックスとは、逆説という意味です。
世間一般で正しいと認識されているものに対する、反対の主張を指しています。
つまりは「定説に逆らう意見や主張」となるため「逆説」を意味するのです。
さらに「見かけ上の真偽に対して、本質的な真偽が異なる」というニュアンスもあります。<

>パラドックスは、哲学などで専門的に使われる単語です。
哲学などの世界で使われる場合にはややニュアンスが変わります。
そこで意味するものは「間違いに見えるものの、実は正しいこと」、「正しく見えることなのに、正しいと認識されていないこと」です。
ここでの使われ方は「矛盾」に近いニュアンスと言えるでしょう。
日常会話などでのカタカナ語ではあまり使われなかった意味が、哲学などの専門分野でのシーンでは採用されているわけです。
こうした専門分野のパラドックスの代表例には「誕生日のパラドックス」、「モンティ・ホール問題」などが挙げられます。<
ゼノンは運動の否定の為に、「詭弁」と呼ばれているモノを提示した。

>パラドックスの語源は、英語のparadoxです。
「paradox」の意味はカタカナ語と同じで、「逆説」や「ジレンマ」となります。
さらにカタカナ語よりもはばが広く「背反」、「矛盾」などの意味も含んでいることが注意点です。
語源の英語の方が意味の幅が広いので、カタカナ語になるとやや狭義の使い方に変化していると言えます。
カタカナ語では「背反や矛盾」の意味で使われることはあまり無く、語源とで全く同じでは無いので注意しましょう。
また英語のparadoxにも語源があり、こちらはギリシア語の「para」と「doxa」となっています。
「para」が「反対」を意味しており、「doxa」が「意見や通念」の意味です。
組み合わせると「反対の意見」などとなるので、大元のギリシア語に関してもカタカナ語とほぼ同じ意味と言えるでしょう。<



ゼノンの絶対矛盾―「アキレスと亀」は、ゼノンのパラドックスとも呼ばれている。

それは、「運動がある」という事に対して「運動はない」と主張する為に、
「運動が起こらない」事を「アキレスと亀」のパラドックスを作った…のだろう。




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ゼノンの「アキレスと亀」…

2023-02-04 11:07:47 | ~哲学~
ゼノンの「アキレスと亀」…

ゼノンのアキレスと亀を分りやすく解説して考察する | AVILEN AI Trend (ai-trend.jp)

>昔、アキレスという名の恐ろしく俊足の人と、かわいそうなほどに足の遅い亀がいました。二人はある対決をすることになりました。アキレスが100メートル先にいる亀と徒競走をするというものです。ルールはシンプルであり、アキレスが亀を追い越したら、アキレスの勝ち。亀がアキレスに追い越されなければ、亀の勝ちです。時間制限や、距離の制限などはなく、アキレスが亀を追い抜きさえすればアキレスの勝ちです。当然、誰もがアキレスが勝つと思っていました。アキレスも「お前なんかすぐ追い抜いてやるよ!」と自信満々でスタートをきりますが、不思議なことに追いつけないのです。

>なぜか。アキレスが100メートル先の亀のいるところにたどり着くころに、亀はのろのろとではありますが、少しは進んでいるのです。例えば10メートルとか。今度はアキレスは10メートル先の亀を追いかけることになりますが、10メートル先の亀のいたところに着く頃には、亀はそれより1メートル先にいます。また、その1メートル先の亀の位置にたどり着いたときには、亀は0.1メートル前に進んでいます。これの繰り返しで、アキレスは亀のもといた位置まで行くことはできても、のろのろと、でも確実に前に進んでいる亀に追いつくことはできないのです。

>この理論によれば、亀のスタート地点がアキレスよりも前であれば、アキレスは亀に勝てないことになります。ここで、アキレスの速度がどんなに早かろうが、問題にはなりません。

>一見理論的には正しそうでありますが、現実問題、アキレスは亀に追いつきますし、追い越すことができます。この現実とは違うという点がミソであり、この問題がパラドックスたるゆえんです。
つまり、この理論には誤りがあるのですが、なかなかそれを指摘するのは難しいように思います。実際、この問題にはいくつもの解釈がありますが、全ての人が納得できるような説明はまだなされていないらしいのです。古くからある難問の一つとして、現在も残されています。

上記の問題を以下のように新たな視点・条件を加えて考えた。

亀の一歩が一秒間に1㎝、アキレスの一歩は一秒間で1m、として問題を考えた。

100m先の亀に、アキレスが追い付くのに100秒、その間に100㎝前に進んだ亀に、アキレスが追い付くのに1秒。

その間に、亀は1㎝進んだから、アキレスが追い付くのに、百分の一秒…
でも、アキレスの一歩は、1秒間に1mだから、百分の一秒=百分の一歩では止められない。
現実の競争では、全力で走り続けるので、一々歩幅を変える事はありない。
亀ならいざ知らず、現実の人間が百分の一歩ずつ走る・歩く事は不可能であろう…
しかも、走り続ける限り、歩幅と共に、その運動時間も流れていく。決して十分一秒では止められない…



それでも、上記のゼノンのように思い・考える事は可能である。
それは認識としての思考過程での「観念的な事実」であっても、現実界では、絶対にあり得ない・起こり得ない非現実的な事実である。同じ事実なのに、観念界と現実界では絶対に矛盾する思考であるから、
南郷師範は、ゼノンの「絶対矛盾」と主張しているのだろう…

自然・人為的に発生する運動・変化は、思考通りになり得るとは限らない。
眼前の現実を変える為には、自分の思考を変える。
それでも、その通りに現実を変化させられるとは限らない。



矛盾とは、あるモノ[AがBを背負っている」…
例えば、コインの表は裏を背負っている。

これは、事実であり、矛盾していない。
表も裏も確かに存在している。
しかし、その「コインの表と裏を同時に見た」くても、不可能である。
肉眼で直接に表から裏は見えないし、裏から表は見られない。

コインを表と裏の真ん中からカットしたなら、同時に見られる。
でも…その時は、初めのコインと異なったコインになってしまっている。

モノ・実体の「運動・変化」は、必ずそれに伴って「時の経過」を背負っている(矛盾)である。

人間は道具を使わない限り肉眼で直接見られな「コインの裏表」を記憶する事で認識内で観念的に見る事が可能である。
コイン全体を肉眼で見ている時、観念内では、裏表を確りと見る事。

上記のゼノンの言説は、現実の結果に一致しないように、運動における「位置・距離の変化」における「時の経過」を無視して、「位置の変化」のみに着目して説いているので、結果的に現実と矛盾した非現実的な結論となっている。
「モノの運動」には、「実体の運動」と「観念・時の経過」がワンセット・一体である。


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