「菅原大邊神社」から「大邊神社遺跡」へ、知らないことだらけですが、
まだまだ「大野木の歴史」を知るうえで大切なものが残っています。
西の山の方を見れば、昔もこんな風景だったかも、と思いますが、
木津川沿いの集落や田園はずいぶん姿が変わってしまったんだろうと想像はつきます。
(再掲)
その「大野木地区」のワタシが理解できる範囲での歴史を少々。
≪江戸期~明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。大乃木とも書いた(元禄郷帳:伊賀国郷帳)。
はじめ伊賀上野藩、慶長13年(1608)からは津藩領。
(中略)
寛延年間(1748~1751)頃の家数163・人数811、馬30(宗国史)。
木津川の沃野(ヨクヤ)で米が主産の農村地域。
鎮守は菅原道真を祀る菅原大辺神社、寺院は天台真盛宗蓮生山宝光院西福寺・同宗橋本寺のほか、
明治期に廃寺となった大願寺・梅生寺・願成寺があった。
明治4年安濃津(アノツ)県、
同5年三重県に所属。
明治4年(1872)の伊賀農民騒動で、当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。
同8年小字神ノ木の木津川に橋が架設された。
同9年大野木学校が西福寺を借りて開設された。
同21年の戸数154・人口703、田87町1反余・畑20町9反余(町村制実施取調上申書)。
同22年花之木村の大字となる。≫
①詳細並びに出典はこちら「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
②「天保国絵図:伊賀国」もご参考に。
余談ですが、
馬の数も調べていたとは…恐るべし!
そして、「慶長13年」は『藤堂高虎』さまが伊賀へ入府された年ですね。
上野城の高石垣はこの頃造られています。
田園の真ん中辺りに「竹島氏館跡」。
ここで、
すでに住む人はおりませんが、立派な「城館」が残っています。
そこの石碑の下の方に「史跡竹島氏館跡環濠」と見えますが…
「環濠」といえば、以前「山の辺の道」の一部を散策したときに見ました。
『奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが、非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、
自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していた※ものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から潅漑用に転用されたものが姿を留めている』とか。
※下線部に「竹之内環濠の写真」をリンクしました。
伊賀の話に戻り、
大野木地区も昭和の後期か平成の初めころに「ほ場整備」されているので、
いわゆる「中世城館」と呼ばれる『館(宅とも呼ばれるか?)』は少なくなりました。
(昔のさまを残すことも大変かと思われますが)
ここで、いわゆる「中世」って一体いつ頃?
これから伺う「館」の説明版にありますのでそれをご参考に…
では、「中世城館、伊賀の場合」、
城は土から成っており、土を掘りその土を内側に盛り上げて作られており、
伊賀の山城は掻揚形式 、切込形式、掻揚切込形式 または削平形式で造られているとか。
当日資料によりますと、
『平地は掻揚型式、台地は切込で堀切を造る。
掻揚型式氏館とは、平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る
「三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して
城は大規模な土塁、堀などの施設を備えたもので
塁はそれに準じる砦で
宅は土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。』とのこと。
【市指定文化財 史跡 竹島氏館跡】(伊賀市大野木字神ノ木)
≪伊賀地域には、室町後期頃に造られた小領主の城や館である中世城館がよく残 っています。
竹島氏館跡は、平地に造られた中世城館の一つです。
規模は、主郭(シュカク)は郭内で東西約27m(十五間)、
南北約36m (二十間)の広さをもち、四方を高さ 2~4mの土塁に囲まれていて、
主郭の南側で土塁の中央部が開き、長屋門(ナガヤモン)が設けられています。
堀は土塁を取り囲むように設けられ、西側は水田としてその地割が認められます。
南側には水田の地割りは見られませんが、堀の存在する可能性は高いと思われます。
主郭の北側から外郭土塁が東西に延びて、さらに南へ折れているので
もとはかなり大きな郭であったものと考えられます。
写真提供: 県埋蔵文化財センター ≫
また「伊賀市の文化財」の冊子では、
この日(6/4訪問)は、関係者の方に門を開けていただけ見学可能となりました。
いつもながら感謝、感謝です。
水田の向こうからみました、「長屋門」が見え、
周りの水田は昔は「環濠」だったと思われます。
『竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門がある旧家だ。
圃場整備で改変されているが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろうと思われる。
特に西側の水田は面影がある。
伊賀には単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、
伊賀では珍しい複郭式(フクカクシキ)の居館である。
現在は、土塁が居館の周囲に残り、空堀が北側と東側に残っている。
竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。』とのこと。
「土塁」が残っているので上らせていただいたら「祠と石仏」さま、ご鎮座。
「土塁」の上は少し歩けますが、現在は見通せません。
多分「館」を隠すことの方が大事だったのではと思われますが…
「臼」と思われる石が敷石として使われていました。
また、『天正9年の「天正伊賀の乱」では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、
織田勢と一戦交えている。』との記録があるそうです。
そう、その比自山の様子はよく見えていたと思います。
この「館」から南へ真っ直ぐ、
「木津氏館」へ。
ではつづきます。
まだまだ「大野木の歴史」を知るうえで大切なものが残っています。
西の山の方を見れば、昔もこんな風景だったかも、と思いますが、
木津川沿いの集落や田園はずいぶん姿が変わってしまったんだろうと想像はつきます。
(再掲)
その「大野木地区」のワタシが理解できる範囲での歴史を少々。
≪江戸期~明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。大乃木とも書いた(元禄郷帳:伊賀国郷帳)。
はじめ伊賀上野藩、慶長13年(1608)からは津藩領。
(中略)
寛延年間(1748~1751)頃の家数163・人数811、馬30(宗国史)。
木津川の沃野(ヨクヤ)で米が主産の農村地域。
鎮守は菅原道真を祀る菅原大辺神社、寺院は天台真盛宗蓮生山宝光院西福寺・同宗橋本寺のほか、
明治期に廃寺となった大願寺・梅生寺・願成寺があった。
明治4年安濃津(アノツ)県、
同5年三重県に所属。
明治4年(1872)の伊賀農民騒動で、当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。
同8年小字神ノ木の木津川に橋が架設された。
同9年大野木学校が西福寺を借りて開設された。
同21年の戸数154・人口703、田87町1反余・畑20町9反余(町村制実施取調上申書)。
同22年花之木村の大字となる。≫
①詳細並びに出典はこちら「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
②「天保国絵図:伊賀国」もご参考に。
余談ですが、
馬の数も調べていたとは…恐るべし!
そして、「慶長13年」は『藤堂高虎』さまが伊賀へ入府された年ですね。
上野城の高石垣はこの頃造られています。
田園の真ん中辺りに「竹島氏館跡」。
ここで、
すでに住む人はおりませんが、立派な「城館」が残っています。
そこの石碑の下の方に「史跡竹島氏館跡環濠」と見えますが…
「環濠」といえば、以前「山の辺の道」の一部を散策したときに見ました。
『奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが、非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、
自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していた※ものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から潅漑用に転用されたものが姿を留めている』とか。
※下線部に「竹之内環濠の写真」をリンクしました。
伊賀の話に戻り、
大野木地区も昭和の後期か平成の初めころに「ほ場整備」されているので、
いわゆる「中世城館」と呼ばれる『館(宅とも呼ばれるか?)』は少なくなりました。
(昔のさまを残すことも大変かと思われますが)
ここで、いわゆる「中世」って一体いつ頃?
これから伺う「館」の説明版にありますのでそれをご参考に…
では、「中世城館、伊賀の場合」、
城は土から成っており、土を掘りその土を内側に盛り上げて作られており、
伊賀の山城は掻揚形式 、切込形式、掻揚切込形式 または削平形式で造られているとか。
当日資料によりますと、
『平地は掻揚型式、台地は切込で堀切を造る。
掻揚型式氏館とは、平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る
「三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して
城は大規模な土塁、堀などの施設を備えたもので
塁はそれに準じる砦で
宅は土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。』とのこと。
【市指定文化財 史跡 竹島氏館跡】(伊賀市大野木字神ノ木)
≪伊賀地域には、室町後期頃に造られた小領主の城や館である中世城館がよく残 っています。
竹島氏館跡は、平地に造られた中世城館の一つです。
規模は、主郭(シュカク)は郭内で東西約27m(十五間)、
南北約36m (二十間)の広さをもち、四方を高さ 2~4mの土塁に囲まれていて、
主郭の南側で土塁の中央部が開き、長屋門(ナガヤモン)が設けられています。
堀は土塁を取り囲むように設けられ、西側は水田としてその地割が認められます。
南側には水田の地割りは見られませんが、堀の存在する可能性は高いと思われます。
主郭の北側から外郭土塁が東西に延びて、さらに南へ折れているので
もとはかなり大きな郭であったものと考えられます。
写真提供: 県埋蔵文化財センター ≫
また「伊賀市の文化財」の冊子では、
この日(6/4訪問)は、関係者の方に門を開けていただけ見学可能となりました。
いつもながら感謝、感謝です。
水田の向こうからみました、「長屋門」が見え、
周りの水田は昔は「環濠」だったと思われます。
『竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門がある旧家だ。
圃場整備で改変されているが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろうと思われる。
特に西側の水田は面影がある。
伊賀には単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、
伊賀では珍しい複郭式(フクカクシキ)の居館である。
現在は、土塁が居館の周囲に残り、空堀が北側と東側に残っている。
竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。』とのこと。
「土塁」が残っているので上らせていただいたら「祠と石仏」さま、ご鎮座。
「土塁」の上は少し歩けますが、現在は見通せません。
多分「館」を隠すことの方が大事だったのではと思われますが…
「臼」と思われる石が敷石として使われていました。
また、『天正9年の「天正伊賀の乱」では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、
織田勢と一戦交えている。』との記録があるそうです。
そう、その比自山の様子はよく見えていたと思います。
この「館」から南へ真っ直ぐ、
「木津氏館」へ。
ではつづきます。
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