明治時代の『長野隧道』、『総切石造り』というそう、御年約140年です。
三重県歴史の情報紙【人と物の往来、昔も今も―雑木林の中に残る旧長野隧道】(再掲)より
『伊勢側から公園の脇の雑木林をよじ登って草叢を掻き分けて進むと、
旧隧道の坑門がひっそりとたたずんでいる。
高さ約3・6㍍、路面幅約4・5㍍、楔形に加工した花崗岩をアーチ状に組み、
重厚に門を飾っている。10㍍ほど奥からは崩れて先に進めないが、
側壁や天井部にも石組みが見え、明治前期の石造建築物の技術の一端をうかがうことができる。』
ひっそりとたたずんでいると書かれていますが、なかなか見た限り荘厳ささえ感じます。
伊賀の花崗岩のおかげでこうやって残っているのかと、伊賀自慢してみたくなります。
もちろん遺構として遺す努力もあるとは思いますが、
目の前で見れたこと、雨中危険を顧みず行って良かったなと。
当時の技術力も相当高かったとのこと、自慢の石造物だし、
この長野峠を通りやすくすることは当時の悲願だったはずです。
≪高虎時代より変わらない伊賀街道の「天下の嶮」。
4年7ヶ月の歳月と総工費10万5776円92銭を費やし、鑿と鎚だけの人力で堀り抜かれ、
明治18年6月ついに完成した。これにより今までの歩道から荷車道に変わり、
伊勢・伊賀間の物資の交流が格段に便利になった。≫(参考:大山田百選より)
ちなみに、伊賀側の「旧長野隧道」はほぼ埋もれているようですので、
伊勢(美里)側まで行かないとこの遺構トンネルは見られません、あしからず。
旧隧道の東西坑門上に掲げられていたもので
『長野隧道石額』(伊勢側)
【補造化】
※「補造化」とは≪この工事は人間の「ワザ」を超越した工事であって本来は天の仕事である。
それを人間が補助して隧道を完成させた…≫という意味があるそうです。
『長野隧道石額』(伊賀側)
【其功以裕】(そこういゆう)
昭和14年に開通し、ワタシたちも幾度となく通った昭和の長野トンネル。
トンネル前後の道のカーブは険しかった、運転していても酔う人はいたとか…
昭和50年代に免許を取ったワタシですが、キケンな道ほど走りたく、
隣にハハを乗せ(一人では行かせてくれなかった、こともあって💦)、よく通りました。
伊勢側へ用事のある時、平成20年まではココの峠をよく通りましたね。
青山の峠よりもたくさん通った記憶…
当時の面影はない、けど…
あると思えばあるかもしれないその姿、どうでしょう?
この先はご覧の通りで流石に進めません。ここで折り返し、
大曲のあのヘアピンカーブ、懐かしいですが、(若くないので)今通ればちょっと怖いかも💦
※参考:「山中に眠る石造りの長野隧道、三重を支えてきた伊賀街道4世代」(CBC Webより)
戻って「平成の長野トンネル」に出る手前に…
【犬塚】(津市平木地区)があります。
今でも「供花」が絶えないようで、どんなお話が潜んでいるのか・・・
三重県の情報紙【道端の伝説「義犬塚」】より
≪安芸郡の美里村平木から伊賀上野へと続く長野峠を登っていくと、
右手に「義犬塚(犬塚)」という小さなお堂があります。
その昔、ある侍が優れた猟犬を得たいと願い、ようやく手に入れた犬を伴って
この場所に差し掛かったとき、急にその犬が侍に向かって激しく吠えかかりました。
危険を感じたその侍は、腰の刀を抜き犬の首を切ってしまいました。
すると、その犬の首は、侍の背後にある木の上から侍を狙っていた大蛇に喰いついたのです。
侍は自分の思い違いから大切にしていた忠犬をなくしてしまったことを悔やみ、
その犬を憐れんで塚を築いたと伝えられています。道端のお堂はその犬をまつったものなのです。
また、この伝説は、河芸町(現・津市)の方では、優れた猟犬を得た場所が河芸町の影重(かげしげ)と
伝えられているところから、「影重産の名犬」として語られているようです。≫
この分かれ道は先ほどの昭和のトンネルの手前、
もう少し先に進めるようで『長野峠ウォーキングマップ』によれば、
旧伊賀街道長野峠辺りに行けるようで、これはいつか踏破してみたいと思っており、
もし行けることがあればご報告したいと思っているところ(確約はできませんがワタシの希望デス)
(再掲)
さて、伊勢側ばかりを書きましたが、実は少し前のこと(2/12)。
松阪方面へとある行事の下見に行きました。
帰り道、やはり長野峠の「平成のトンネル」を通り抜け、伊賀側へ出たところで
ワタシ「猿蓑塚」を知らない、ということで寄ってもらいました。
伊賀側のトンネルを出て右折。
少し走って小公園、ここが【猿蓑塚】
≪『奥の細道』の旅を終えて帰郷の折、伊賀越え(=伊賀街道で)の山中で初時雨にあい詠まれたもの≫です。
右句碑:天明8年(1788/芭蕉翁100回忌)に遅月庵宗雨建碑されたものだとか、
まったく読めません💦しかし、236年間残っていることが素晴らしい!
他に「菊山九園」などの句碑も添えられています。
これら句碑のある道、今は車も大して通らず静かな山ン中に佇んでいます。
この先に「長野峠」への案内石柱があるそうな・・・
旅人になったつもりで歩いてみようか。
では、次回は「美里」へ下りて【長野宿】界隈。
ではまた
その後2008年に新長野トンネルができてからは、あっという間にトンネル区間約2kmを通過できるようになり、大阪東部から伊賀市を通って津市へ向かう重要路線 国道163号になりました。新長野トンネルに40億円程度を費やしても、十分その値打ちはあったと思います。
今回初めて明治時代の「初代長野隧道」を見せてもらって、遠い昔に思いを馳せ、時代を経てもここはいつも難所だったのだなぁと思いました。
津に住んでいる同級生も平成トンネルのこの恩恵を受けており、ほんとに便利で近くなったものだと…
感謝して通りたいものです。
dawnさま、コメントありがとうございます。
知っていたのと、実際に行かれて写真に収められたのでは大違いで、いつもの行動力に感謝する限りです。
昭和のトンネルは、美里村に出た後は、下り坂で崖側左側通行で直角右コーナーになっていました😱。
津ぅに単車ツーリングに行った当時は、崖側の木々の背も低くて、絶景ポイントでもありました🤩。
そこへ、前を走っていた輩が単車を思いっきり寝かせて飛び込んで、
後続の当方からは、崖側の体と単車の反対側が見えたのが、今も思い出深く残っています😂。
平成のトンネルは、県免許センターへの往復で、カーペンターズとかを聞きながら走ったきりです。
雪上がりで路面に雪は無く、日曜日にも関わらず、伊賀街道は先行車も後続車も対向車もほとんど無くて、
思ったように走れました。昭和のトンネルのままなら雪で通行止め、だったのかもです🤔。
多分住居地にもよるし、知人たちも大山田方面にいるし、何かしら行きやすい場所ということもあります。
それと歴史的なことも鑑みて好きな街道!であることも大いにあるかもです。
そして「かざはやの里」に梅・藤・紫陽花等々鑑賞に行ったこともあり、この道はやっぱり好きなんですね…
moni5187さま、利用促進をお願いしてコメントのお礼とさせていただきます。
雪のないこの時期に行かれることをおススメいたします。