映画『ブラックブック』 ポール・バーホーベンはいつもガチ 

2020年11月30日 | 映画

 映画『ブラックブック』を観る。

 

 『ロボコップ』

 『インビジブル』

 『スターシップ・トゥルーパーズ』

 

 などなど、気ちが……作家性の強い作品で名を成すポールバーホーベン監督の歴史サスペンス。

 そのアクの強い作風ゆえ、ハリウッドを追い出され、

 

 「じゃあ、もうコッチで好きにやらせてもらいまっせ!」

 

 居直って地元オランダに帰ったバーホーベンが、ナチスものを作るとなったら、そらなかなか一筋縄ではいきませんわな。

 ストーリーの骨格としては、ナチに家族を殺されたユダヤ人女性がレジスタンスに加わって復讐を試みるが、お約束の裏切り者や、敵の卑劣な策などもあり逆にドイツへの協力者に仕立て上げられ……。

 といった、わりかし、わかりやすいといえば、わかりやすいもの。

 それこそ古くは、アルフレッドヒッチコックあたりが撮れば、スリルあり、ロマンスあり、シャレたセリフもあったりしてハラハラドキドキのエンタメに仕上がりそうだが、これがバーホーベンにかかると、そんな期待など、ものの見事に裏切ってくれます。

 とにかくこの映画、ナチスものでよくある

 

 「ドイツ人=悪」

 「連合軍やレジスタンス=善」

 

 といった、それこそポールが最後までなじめなかった、ハリウッド的な二元論を徹底的に否定する。

 家族の仇で、どうしようもない悪党ギュンターフランケンは音楽を愛し、ピアノと歌の才能にも恵まれている「芸術家」という設定。

 ルートヴィヒムンツェ大尉は「ナチなのに立派」と描写されているけど、もちろん直接見せないだけで、SSである彼のせいで多くの人が殺されている。

 レジスタンスにも裏切り者や、差別意識を見せる者、家族への想いゆえに理性的行動を取れなかったり、きわめて人間臭い。

 「被害者」であるオランダ人やユダヤ人だって、いったん「勝者」側につけば、正義の名のもとに「ナチよりひどい」蛮行におよぶ。

 こういった、ポールによる徹底的にペシミスティックで、諦観に満ちたというか、お茶でも飲みながら

 

 「人って、そういうもんやろ

 

 とでも言いたげなクールが過ぎる描写に、観ている方は本当にカロリーを使う。

 さらにはそこに、陰毛脱色、足をトイレにつっこんで洗う、血みどろに糞尿まみれ。

 まさに「バーホーベン節」ともいえるエログロが炸裂しまくって、なんかもう、とにかくポール絶好調

 特にキツイのが、戦争が終わったあと、対独協力者にオランダの「善良な市民」がリンチをかけるシーン。

 もう、これでもかというテンションの高さで描写される「魔女狩り」は正直、正視に耐えない。

 こんな明るい醜さ、よう描けるもんだ。
 
 昔、第二次大戦のドキュメンタリー映像で、「パリ解放」のシーンを見たときのことを思い出す。

 そこではパリ市民が、ドイツ人と仲の良かった女を、これ以上ない満面の笑みで丸刈りにし、「私はナチのメスブタです」と書かれたプラカードを下げさせ、顔にハーケンクロイツを落書きし、市中を引き回す。

 子供も大人も、さわやかすぎる残酷さで彼女らを足蹴にするのだが、とにかく、メチャクチャ楽しそう

 それを見て、本気で吐き気をおぼえたけど、それをポールは見事に再現しているんだ、コレが。

 もちろん、それに私が嫌悪をもよおすのは

 

 「自分にも、そういう【正義をバックにつけて、思う存分に暴力をふるいたい】という願望があるから」

 

 にほかならず、いわば近親憎悪なのだが、だからこそ、それをむき出しにされるとキビシイ。

 ポールから「突きつけられてる」気がするからだ。

 

 「オレもオマエも、しょせんは、こんなもんやで」と。

 

 作中、ヒロインがあまりの試練に耐えかねて、

 

 「苦しみに終わりはないの?」

 

 そう叫び、嗚咽するシーンが見せ場だが、観ているこっちも

 「もう勘弁してください

 音を上げそうになる。まだ終わらんのかい、と。

 登場人物は、ドイツ人もオランダ人もユダヤ人も、それぞれにインパクトを残すが、もっとも印象的なのはやはり、主人公ラヘルの「友人」ロニーであろう。

 この女というのが、いわゆる尻軽で、ドイツがブイブイ言わしていたときはその愛人になり(相手はラヘルの家族を惨殺したフランケン)。

 ナチスが追い出されたら、いつの間にか連合軍兵士の彼氏を引き連れ、なんのかのと楽しく生きて、最後まで幸せになっている。

 この人をどう見るかは、

 

 「強い」「したたか」「クソ女」「天然」「ビッチ」「いい人」

 

 など人それぞれのようだが、ポールはあまり、否定的に描いているようには見えない。
 
 なぜ腰の定まらないロニーが、「天罰」のようなものを受けないのか。

 たぶんそれは彼女だけが、この救いのない物語の中で、唯一「憤怒の罪」をまぬがれているからではあるまいか。

 そこに「意思」があるかに違いはあるけど、ブラッド・ピット主演の『フューリー』(「憤怒」の意だ)における、最後にアメリカ兵を助けたドイツ兵のように。

 その意味で彼女は、徹底して戯画化されたリアリズム(というのも変な表現だけど)の中でファンタジー的存在。

 「天使」のようでもあり、他者の不幸の上に幸福を築く、無邪気な「悪鬼」のようにも見える。

 なんて見どころはタップリなんですが、なんせとにかく、全編

 

 「ポール・バーホーベンのガチ」

 

 を見せつけられて、そこがもう大変でした。

 鑑賞しながら、しみじみ思いましたね。

 そういや、この人って、こんなんやったなあ、と。

 傑作なのは間違いないけど、ここから5年くらいポールの映画お休みしてもええわ、とグッタリ。

 おススメですけど、すすめはしません。

 いやもう、とにかく疲れましたわ(苦笑)。

 

 


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