「幻の妙手」について語りたい。
前回は若手時代の羽生善治九段が見せた、伝説の端歩突きを紹介したが(→こちら)、今回は同じ「羽生世代」の棋士による熱局を。
2002年の第61期A級順位戦。
藤井猛九段と郷田真隆九段の一戦。
藤井システム相手に、左美濃から銀冠に組み替えた郷田だが、序盤巧者の藤井相手に作戦負けにおちいる。
形勢は藤井有利のまま進むが、郷田もなんとかふんばって勝負形に持ちこみ、むかえたこの局面。
△46金と突進したのに対して、先手が▲64歩と、土台になっていた角を除去したところ。
後手から△29金と打つ筋がいつでもあるが、すぐに決行しても、攻めが細くなかなか決まらない。
なにか一工夫ほしい場面だが、ここで郷田が、アッという鬼手をくり出す。
△17香と、いきなり放りこむのが、郷田がねらっていた必殺手。
放置すれば△19竜でおしまい。
▲同香なら、△47金と取って、▲同金なら△29金で、▲17に逃げられないから詰み。
▲同玉なら、△19竜と底をさらって、▲18香の合駒が先手でないので、△47金と取って勝ち。
これは順番が大事で、△17香を打たずに△47金と取って▲同金、△29金は▲17玉が「銀冠の小部屋」の手筋。
△39竜とせまっても、持駒に金があるから、▲38金でピッタリ受かる。
△39竜に▲38金までで、受け切り。
また、先に△47金、▲同金としてから△17香と打つと、▲同玉、△19竜に、やはり▲18金とハジいて先手勝ち。
△19竜の王手に、▲18金と先手で受けて、後手の攻めは切れている。
ちょっとややこしいが、要するに後手は金を渡すタイミングをずらすことによって、竜を金ではじいて、先手で受ける筋を巧妙に消しているのだ。
まさに、米長邦雄永世棋聖の言う通り、
「風邪はひいても後手はひくな」
流れで△47金と取ってしまいそうなところを、なにもせず△17香が絶妙。
まるで、屋根から突然降ってきた槍ぶすまのようで、小部屋への脱出路を、見事にふさいでいるのだ。
藤井は▲17同香、△47金に、▲39香と打ってねばるが、△48金打、▲同金、△同金、▲29金に、△49金打が郷田流のすばらしい見切り。
形だけ見れば、とんでもない筋悪で、ふだんの郷田なら絶対に指さない類の一手だ。
しかも、この瞬間、先手玉は絶対に詰まない「ゼ」とか「ゼット」という形だから、ここから詰めろの連続でせまられると、後手の負けは確定する。
ムチャクチャに怖い形だが、「自玉に寄りなし」と読み切っているから、あえて悪い形に踏みこめるのである。
強いなあ。
こうなると、一見愚形の2枚の金から、逆に郷田の誇らしげな顔が見えるようではないか。
以下、藤井も必死にせまるが、郷田の対応も冷静で、再逆転はならなかった。
……と、まとめて終わりたいところだが、それでは正確さを欠く記述になってしまう。
というのも、今「再逆転」と書いたが、実はこの将棋は一度も逆転などしていなかったからである。
そう、この将棋は△17香の鬼手をくらっても、正しく対応すれば、まだ先手が勝っていたのだ。
それに気づいていたのは、控室で検討していた先崎学八段と対局者の郷田だけだった。
その手とは、▲18香(!)。
△17香には▲18香の右フックが決まる
なんとこれで、後手にこれ以上の攻めがない。
△同香成に、▲同銀で受け切りだ。
見えてなかった藤井は頭をかかえたが、鬼手を食らった後、冷静なこんな手は、なかなか思い浮かばないだろう。
てか、浮かぶヤツの方がおかしいって!
郷田もすごいが、先チャンもまたバケモノであるなあ。
嗚呼、この世代は強すぎるよ。
ちなみに、この期の藤井は6勝3敗の成績ながら、プレーオフで羽生善治竜王に敗れて、名人挑戦はならなかった。
もしここで▲18香を指せていたら、7勝2敗で見事……。
となったかどうかはわからないが、レースはまた違った展開を見せていたし、もしかしたら「藤井名人」の可能性もあったかもしれない。
棋士のキャリアというのは、本当に秒読みの一瞬のひらめきで、大きく左右されるものなのだと実感する。
(深浦康市の初タイトル獲得編に続く→こちら)