前回(→こちら)の続き。
「エロのジェダイ」こと友人タカイシ君のおすすめで、スカトロ動画の上映会をした、我が母校大阪府立S高校のボンクラ男子生徒たち。
グロがダメな私は早々にギブアップを宣言したが、そこで感じたことというのが、
「自分と違う人間というのはいるものだ」
と同時に、
「でも、それはそれで尊重すべきなんやろうなあ」
たしかに、私自身にスカトロ趣味はなかった。正直、ひいた。
でも、その趣味を持っている人を、どうこうしようとはならない。とも思ったわけだ。
そりゃ、その嗜好を押しつけられたりしたら困るし、もし好きになった女の子に「飲んで」とか言われたら、どうしたもんかと頭を抱えるだろう。
けど、それでもだからといって、差別したり、迫害したり、検閲や禁止をしようとも思わない。
そういう趣味なら好きにやって、なんの問題もないのである。
当然、私も自分の好きなものは、他の人がどう言おうと好きにやらせてもらう。
それはスカトロのようなマニアックなものだけでなく、私が嫌悪感を抱いたり密かにバカにしているものでも、すべて同じ。
「嫌い」「イヤ」「理解不能」となっても、「差別」「迫害」「禁止」はしない。
多様性って、きっとこういうことなんじゃないだろうか。
別にイヤならイヤでいい。理解する必要もない。かといって、排除する必要もない。
ここでのポイントは「多様性の尊重」とは
「自分と違う人のことを理解しよう」
ということではないこと。
そんなことを掲げてもハードルが高いし、またそういうことを言いがちな「善良な人」ほど、うまくいかなかったり、「放っておいてほしい」とか反応されると、
「こちらが努力しているのに、むこうが応えてくれない」
「信じていたのに裏切られた」
最悪なのは「改心」させようとしたり、あげくには勝手に盛り上がって「アンチ」になってしまったりと(「善良な人」はときに自分の善を絶対視するもので「独善」とはよく言ったものです)、めんどくさいケースが多いのだ。
大事なのはたぶん、
「自分と違う人のことは、《そういうもの》として放っておく」
ということなんだけど、人はこの一見簡単そうなことが案外できないらしく、
「理解しようとして失敗から逆ギレ」
とか下手すると「悪」「不道徳」「不謹慎」と認定して石を投げるとか、迷惑なアクションを起こしてしまう。
「おたがい様」かもしれないのにだ。
そもそも、「自分の不快」でなにかを抑圧したら、自分が好きなものが、
「オレ様が不快だから」
と、やり玉にあがったとき反論する「道義的権利」を失うのに。
それだったら「わからないまま、じっとしてる」方が、よほど世界は平和なんだけど、人はどうも、
「自分と違うもの」
「理解の範疇を超えているもの」
これを放置するストレスに耐えられないようなのだ。
あと、
「自分から見て少数派だったり、《下》と判断した者たち」
これが楽しそうにしていることに、無条件でイラッとするものもあって、それが相乗効果を生んだりもする。
「○○のくせに生意気だ」
とかね。
まったくもって不条理に余計なお世話だが、これもまた理屈では割り切れない人の業なのだ。
翻訳家でありスティーブン・ミルハウザーやポール・オースターの名訳で知られる翻訳家の柴田元幸先生は、あるエッセイでこんなことを書いている(改行引用者)。
スチュアート・ダイベックという作家が僕は大好きで、短編集を一冊訳してもいるが、彼の描くシカゴの下町では、おばあちゃんの真空管ラジオはいつもポルカ専門の放送局に合わせてある一方、孫たちはロックバンドを組んでスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのシャウトを真似しあったりしている。
どっちが正しいか、正しくないか、といった話はいっさい出てこない。両方が、別に意識して仲よくしようと努めたりせず、ただ併存している。
おばあちゃんのラジオも、何せ古いから、ときどきチューニングがポルカからずれて、違う音楽が紛れこんできたりする。こういう方がずっといい。
―――柴田元幸「がんばれポルカ」
バリバリの「ロック世代」である柴田先生だが、その通りではないだろうか。
ポルカもロックもスカトロも、その価値はすべて並列上にある。えらそうにする必要もないし、卑下する意味もない。
「え? そこをアップにするんですか?」
「そんな【カクテル】とか、ムリっすよ!」
放送室で悲鳴を上げた若き日の私だが、柴田先生も言う通り、独善なんかより「こういう方がずっといい」のである。