本日は橋口譲二『ベルリン物語』という本を紹介したい。
写真家である著者が、まだ壁崩壊前の西ベルリンに滞在し、そこに住む、主に若者たちを描いたノンフィクション。
西ベルリンというのは、東西冷戦が終わった今となってはもとより、当時でも、いまひとつどういうものか、よくわからない存在ではあった。
「敵国」東ドイツの領土の中にある飛び地。地図の中に、ポツンと落ちたケチャップのシミのような跡。
周囲をぐるりと壁に囲まれた都市。「ベルリン」と称しているが、西ドイツはおろか、どこの国にも存在しない「占領地」。
そしてそんな足場の固まっていない「空白地」だからこそ、同じような危うさを持った若者が集まってくる。
求めるものは「自由」だ。
西ベルリンという街に「自由」があるかどうかはわからないが、少なくとも「自由を求める人」が他のヨーロッパの街よりも多かったことはたしかだろう。
そこを「魅力」と感じるか、
「すさんでいる」
「負け犬や、逃亡者の吹きだまりだ」
そう取るかによって、西ベルリンという街に対するスタンスが決定されるのかもしれない。
たとえば、作家の沢木耕太郎さんは、仕事でヨーロッパを移動中、西ベルリンを通過したとき、
「一度、じっくり滞在してみたいと思うほど心惹かれた」
というようなことを書いておられたし、おそらく橋口氏も同じように感じられたのだろう。
この本に登場する人物に、まともな社会人というのは少数派だ。
麻薬専門の刑事のルーカスや、出稼ぎのトルコ人労働者など、「まともな人」もいるが、その大半はパンクス、アル中、スクワッター(空家を不法占拠して住む若者)。
同性愛者、売春婦、フィクサー(ヘロイン中毒者)などなど、まっとうな社会から圧倒的に「ドロップアウト」した(させられた)者たちばかり。
彼らは尿のにおいのする住処でビールを飲み、小銭をたかり、余裕があるときはデモやコンサートに出かけ、
「退屈」
「ひとりは最悪だ」
となげき、「オレはここにいるぞ!」と証明するために髪をモヒカンにする。
ある女の子は、こんなことすら口にする。
「(ヒトラーの時代は)たしかに、まちがった時代だったと思う。だけど、たとえまちがっていても、なんにもない現在の時代よりはマシだと思うわ。生きる目標があったもの」
橋口氏はそんな荒んだ、一見どうしようもなく見える若者たちの話に、静かに耳をかたむける。
でもそれは、安易な同情や、「現代社会の闇」みたいな切り口ではなく、相手の心の奥底に踏みこむ「取材」でもない。
だから、するどい言葉を投げかけて、ゆさぶりをかけるようなこともしないし、
「もっとがんばれ」
「ここから抜け出すために努力しろ」
みたいな、一見正しげで、だからこそ、まったく意味をなさないような説教もしない。
ただ彼ら彼女らの話を聞き、写真を撮り、ゆかいな出会いがあれば共に笑い、苦しい現実には言葉を探してまどい、答の出ない問いを反芻しながら、またベルリンの街を歩く。
それは氏がクールだからではないし、取材者の距離を保っているわけでもなければ、もちろん薄情なわけでもない。
若者を撮るが、彼らを理解できているわけでもなければ、肯定しているわけでもない。
「悩みながら生きる若者たちの姿」
「たとえ苦しくても、自由とはすばらしい」
みたいな、口当たり良くわかりやすい結論に落としこむつもりもない。
橋口さんはたぶん「わからない」のだ。
西ベルリンという都市も、若者たちの悩みの本質も、その解決策も、自分がそこからなにを感じ取り、どうあつかうべきかも。
すべてが、わからない。
これは別に、橋口さんが愚かだと言っているのではない。そもそも、人がなにかを「理解」することなど不可能なのだ。
橋口さんは、その「わからない」ことを隠そうとしない。むしろ、「わからない」ことに向き合い、言葉を探している。
道を見失っている人を否定も肯定もせず、自分のせまい価値観だけに落としこまず、見つめる。
理解できたと思ったとたんに、するりと「答え」が逃げていく失望も受け入れる。
「わからない」という苦しさと無力感を「わかろうとする」意志のため受け入れる。
その、もどかしくすらある姿勢に、私は惹かれたのだと思う。
実際、この本に出てくる人物のもつ悩みのほとんどが、最後まで解決しない。それどころか、むしろより深いところに足を取られている人すらいる。
それでも、読了後の印象が、どこかさわやかにも感じられるのは、きっと著者のスタンスによるところが大きいだろう。
あとがきで橋口さんはこう書く。
「自由の中で生きたいと願い、自由の中で窒息していく。むごくて、やさしい街。それがベルリンだと思う」。
いささか感傷的だが、つまりはそういうことなのだろう。
「自由に生きられるほど強くはないけど、自由にしか生きられない人」
に生まれることは、きっとしんどいことなのだ。
そんな人たちに「まっとうな人」ができることは少ないのだろうけど、きっとその選択肢のひとつに、
「そっと耳をかたむける」
があることを、この物語は教えてくれるのだ。