つまり、升田幸三は偉大ということなのである。
前回は、羽生善治九段の芸術的な寄せを紹介したが(→こちら)今回は序盤戦術について。
将棋の世界には、強さとともに「創造性」にも長けた人、というのが存在する。
私の世代なら、「藤井システム」の藤井猛九段や、「康光流」新戦法を次々くりだす佐藤康光九段。
今なら菅井竜也七段の振り飛車における工夫の数々や、横歩取りの後手番を苦しめる佐々木勇気七段の「勇気流」など、画期的新手や新戦法は、将棋界を盛り上げるに必須の要素だ。
そんな将棋における、クリエイティビティといえば、やはり「升田幸三賞」にその名を残す、升田幸三九段を語らねばなるまい。
私が将棋をおぼえたころは、とっくに引退されていたが、「新手一生」をモットーとし、常に独自性と芸術性を追求する姿勢は今でも語り草。
なんといってもあの羽生善治九段が、
「一番、指してみたい過去の棋士は?」
との問いに、
「升田先生の序盤戦術を味わってみたい」
そうおっしゃっていると知れば、今のファンの方にも、多少はそのすごさが伝わるのではないか。
角換わり腰掛銀の「升田定跡」やアマチュアにも人気の「升田式石田流」。
などなど、ヒゲの大先生が、後世に残したアイデアは数あるが、私がまず「升田先生スゲー」と感心させられたのが、ある序盤のなにげないやりとり。
若手時代の先崎学九段が、雑誌のエッセイで書いておられたのだが、まずはこの図を見ていただきたい。
初手から、▲76歩、△34歩、▲26歩、△54歩、▲25歩、△32金まで進んだところ。
升田が若手棋士だった戦前から昭和初期の将棋は、だいたい、こういう出だしだった。
今なら「力戦の中飛車っスか?」となるところだが、当時はこれが相居飛車の定跡型。
後手は△55歩と早めに位を取って、厚みと模様で勝負していた。
「▲55の位は天王山」
という、今ではなかば死語と化した言葉が、まだ現役バリバリだったことがよくわかるオープニングだ。
先手が▲24歩と飛車先交換すれば、後手は△52飛といったん中飛車にする。
玉は△41に寄って「矢倉中飛車」っぽく戦う。
当時の棋譜を見ると、この形は相当少ないから、5筋の位を取らせるのは得策ではないと思われていたのだろう。
なので位を取らせないよう先手は▲56歩と突くが、それはそれで、じっくりと駒組をして一局の将棋。
以下、自然に駒組をして、大半がこういう形になっているようだ。
素人目には、これで先手が悪いようにも見えないが、升田はここを不満と見た。
いや、そもそも皆が▲56歩と、なにも考えずに突くところでアンテナが光ったのだろう。
まだ、王様を囲ってもいない状況で、当然のこと優劣などつきそうもない局面に見えるが、なんと升田はここからわずか7手で、先手有利の形を作り出す。
手順は簡単でも、その中身は濃い。
ヒントは、角交換に突いてはいけない筋といえば……。
▲24歩、△同歩、▲同飛、△23歩、▲22角成、△同銀、▲28飛で、先手作戦勝ち。
答えだけ見れば、なんということはない。
先手は飛車先の歩を交換し、行きがけの駄賃に角も交換した。
それだけのことだ。
ところがこの局面、特に居飛車党の上級者なら、選べるなら先手を持ちたい人がほとんどだろう。
「飛車先交換3つの利」
「角交換には5筋を突くな」
の格言通り、先手だけが一方的にポイントをあげている。
特に後手は△54歩を突いたため、いつでも▲53角や▲71角からの馬作りを見せられる形。
また△41や△42など玉をどこに移動しても、早い戦いになると、▲53のスペースに桂やら香を打たれたり、開いているコビンも攻められやすい。
そのうえ△54の腰掛銀にできないなど、形を早く決めすぎて、駒組を制約されてしまっているのだ。
一方、先手は自分だけ一歩を獲得したうえに、▲36歩から▲37銀(桂)、▲46歩から▲47銀、▲56歩から▲57銀。
など、好きな形を選べ、囲いも矢倉、雁木、左美濃と、その幅広さが段違い。
ロジカルで、戦略的な作戦を得意とする、渡辺明三冠あたりが見たら、
「これ、こっち(後手)にまったく主張するところないんで、全然やる気しないですよ」
ドライな口調で、一刀両断しそうな局面。
先チャンもこの局面について、
後は銀を腰かけ銀にして、普通に指せば、必ず作戦勝ちになる。
プロ的には、それくらいに先手に利がある局面なのだ。
このなにげない7手1組は、今ならアマ有段者でも指せるが、
「相居飛車では、後手は5筋を突いて持久戦」
というのが当たり前だった時代に、たったひとり升田だけがその不備に気づいていたところに価値があるのだ。
▲24歩、△同歩、▲同飛、△23歩になにもせず▲28飛だと、後手も△55歩と角道をとめて互角の戦い。
また、先に▲22角成として、△同銀に▲24歩と突くと、△同歩、▲同飛に△33角と、飛車と香の両取りに打たれて「あ!」ということになる。
つまりは、この△23歩の一瞬に▲22角成と行くのは(ここで△24歩と飛車を取るのは▲21馬で、駒得と馬が大きく必勝)、唯一無二の正解手順。
そして、これこそは先チャンも言う通り、すべてが
「意味があり、必然で、完璧なのだ」
世界でただひとり、この組み合わせを発見した升田幸三は、「常識」にとらわれたままの同時代のライバルを尻目に、常に「先取点」を取った状態から戦うことができたのだ。
(駅馬車定跡編に続く→こちら)