大阪の車「なにわ」ナンバーで語る人類の平等論

2013年10月18日 | うだ話
 「人は皆平等ではない」。

 そう喝破したのは、かのアインシュタインである。

 フランス革命は「自由・平等・友愛」を謳ったが、人が真の意味で平等になれたかについては意見が分かれるところであろう。

 世界には不合理な不平等があふれている。機会の不平等、民族差別、階級社会、埋められない貧富の差など、その理想をはばむ障壁は多い。

 だが世の中には、そういった壁を乗り越えて平等を実現している場というのも存在している。

 たとえば、ロックミュージシャンの大槻ケンヂさんは「焼肉屋平等論」を提唱した。   

 オーケンいわく、

 「人は地位や民族や経済差に関係なく、焼肉屋では平等になる」。

 焼肉屋ではたまに「鉄板の肉汁が飛んで、お召し物をよごしてはいけないから」と、紙製の前掛けを用意する店がある。

 そこにはたいてい、その店のマスコットキャラクターであろうかわいい牛の顔がプリントされており、さらには「食べ放題で、モー最高」みたいなフレーズが書かれててあったりする。

 前掛け。この時点で、すでにかなりマヌケだ。 

 どんな偉い政治家であろうと、一流大学を出たビジネスマンであろうと、IT長者であろうとイケメン俳優であろうと、焼肉屋では前掛け。

 しかも、そこには「食べ放題で、モー最高」である。マヌケの二乗だ。それをオーケンは

 「どんなに偉そうにしていても、焼肉屋ではみな前掛けをしている。その姿は赤ん坊が「バブバブ」といってる姿と変わりはない。しかも、《モー最高》である。みな、《マヌケ》という意味で、焼肉屋では平等である」

 と結論づけるのである。  

 私はこれを読んで、まさにひざを打つ思いだった。

 人間には様々な不平等があるが、《マヌケ》において平等になれる。

 なんと深い発見なのか。そして同時に私の地元である大阪にも、同じような「マヌケゆえの人類平等」があることに気がついたのである。

 その正体とは車のナンバーだ。

 大阪の車には「大阪」「堺」「和泉」ナンバーがあり、それともうひとつ、「なにわ」というものが存在する。

 「なにわ」である。マヌケである。

 ただでさえ「浪速」という響きが、いかにも大阪的にもっさりした印象なのに加えて、さらに見た目でもひらがなで「なにわ」。

 この脱力感は、なかなかのものである。

 どんな高級車に乗っていても、外車で左ハンドルでブイブイいわしていても、ナンバーは「なにわ」。

 たとえベンツに乗ろうがポルシェだろうが、フェラーリもシトロエンもBMWもカウンタックもジャンカーもラビットパンダもすべて「なにわ」である。

 なんでも関東の人は「世田谷」とか「湘南」とかいうナンバーにこだわって、「千葉とか埼玉のナンバーなんて、かっこわるいよー!」などとほたえているらしい。

 これにはマツコ・デラックスさんが

 「たかがナンバーでガタガタ言うんじゃない!」

 たいそう怒っておられ、まあ私もおおむね同意だが、こと大阪に関しては多少ナンバーについてこだわる人がいても責められない気はする。

 大阪の一部地域では、どんなにカッコつけて高級車に乗っても、ナンバーは「なにわ」。

 先日も難波で、サングラスをかけて助手席に女の子を乗せ、今どきオープンカーで走り回っている男を見たのだが、そのナンバーが「なにわ」であった。

 これでは、いくらブイブイいわせても、見ている人からすれば

 「ああ、なにわの人なんだ」

 一言で終わらされてしまう。

 あそこまで、イキっておいて、肝心の一番目立つところが「なにわ」本人は気にならないのだろうか。

 オーケンいうところの焼肉屋の法則のごとく、大阪には誰もが等しくズッコケな「なにわ」ナンバーの法則がある。

 ささやかながら、人類の理想実現に尽力できて、地元民として大いに満足である。



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