藤井聡太八冠王が、相変わらず負け知らずである。
「同世代対決」と話題になった伊藤匠七段との竜王戦も4連勝で防衛と、ライバル候補相手に容赦なく一発カマすなど、八冠獲得後もゆるむ様子を見せない。
今のところ、彼を倒せそうな人をまったくイメージできない強さであり、これからどこまで強大な存在になるのか、想像もつかないところだ。
とはいえ、ここまで強いと、それはそれで危惧するところはないこともない。
なんといっても「全冠制覇」+「全棋士参加棋戦を総ナメ」なんて見せられた日には、もうこれ以上の偉業なんて、あろうはずがない。
今後はなにか記録とかかかっても、八冠のインパクトにはかなわないだろうし、飽きられちゃうんじゃないかなあ。
とまあ、竜王戦を見ながらそんなことを考えていたわけだけど、ふとここで、「藤井聡太八冠王」がこのままでは絶対に破れない記録が、ひとつあることに気がついた。
おいおい、今の藤井は神がかっとんねん。もう目の前に障害になるようなもんはないんやで、と言う声は聞こえそうだが、これがあるにはあるのだ。
そう、それは升田幸三九段がやってしまった、
「名人に香を引いて勝つ」
といっても今のヤング諸君にはなんのこっちゃというか、私の世代でもほとんど「歴史の授業」だが、これが戦後すぐのことというのだから、えらい昔のこと。
なんと升田は時の名人であった大山康晴を相手に「香を落として」戦い、しかも勝ってしまったことがあるのだ!
もともと升田と大山は兄弟弟子であり、「打倒木村義雄名人」を競う最大のライバルでもあった。
そんな2人の運命が分かれたのが、1948年の第7期名人戦挑戦者決定戦の第3局。
世に言う「高野山の決戦」で升田は、それこそ八冠をゆるした王座戦での永瀬拓矢に匹敵する大ポカを披露してしまい、9分9厘手にしていたはずの挑戦権を逃してしまう。
勝った方が塚田正夫名人への挑戦が決まる、升田幸三八段と大山康晴七段の大一番。
△87飛成の王手に▲57桂と合駒すれば、むずかしいところはあっても先手玉に詰みはなく、升田が勝っていた。
ところが勝利を確信していた升田が、ヒョイと指してしまった▲46玉が大ポカで、△64角、▲55桂に△47金と打たれて世紀の大トン死。
「このとき升田さんが勝っていたら、将棋界は大きく変わっていた」と大山自身も認める、戦後の歴史をまったく違うものにしてしまった大錯覚だった。
升田はこのショックで大酒を飲み体を壊すだけでなく、対局するたびトン死のシーンが悪夢のようにフラッシュバックし、そのトラウマに悩まされ大山にまったく勝てなくなってしまった。
ついには心身がパンクし休場にまで追いこまれるが、人生はわからないもので、それがかえって升田には幸いすることになる。
体をしっかりと休め、適度に将棋と距離を取れたことが良い方に転がり、復帰後の体調こそ完璧ではないものの、大山相手に大逆襲を開始。
1955年の第5期王将戦で、なんと大山王将(名人)相手に3連勝。
当時の王将戦は3勝0敗とか、4勝1敗のように3つ星の差がつくと、その時点で勝負ありとなる(だから3連敗から4連勝してもタイトルは取れないらしい)。
さらには「指し込み」といって、負けている方はなんと相手に
「香車を落としてもらう」
というハンディをつけられて戦うという、屈辱極まりない対局を指さなければらないのだ。
以前の王将戦で、渡辺明王将が藤井聡太三冠か四冠かに4タテを喰らってたけど、あれは本来第4局は渡辺の「香落ち下手」になるはずなのだ。
それこそ、サッカーで言うなら
「あなたはもうザコなんだから、これからは11対10でやってもらいなさい」
と言われているようなもので、あんまりなあつかいではないか。
タイトルはすでに失っての消化試合。香落ち下手という勝って当然、負ければプロとして、いやさ「名人」として、ありえない恥辱にまみれなければならない戦い。
そんな場所で力を出せる敗者などいるはずもなく、さらし者のような勝負を余儀なくされた大山は升田に完敗してしまい、あまりのみじめさに泣き崩れたという。
1955年、第5期王将戦の第4局。後手(上手)の△11に香車がないのが衝撃的な局面。
ハンディ付きの戦いで、当時の升田の見解では「プロレベルで香落ち上手は勝ち目がない」とまで差があると見られたが、大山のミスにつけこんで上手がリードを奪う。
図の△84桂が絶好打で、以下は升田がハンディ戦とは思えぬ圧勝劇を見せる。
升田と言えば幼少期、物差しの裏に
「名人に香を引いて勝つ」
という途方もないことを書きつけて(正確な文面は違うが意味はそういうこと)家出したというエピソードは、有名すぎるほど有名だ。
しかもそれを実現してしまったのだから、まさに「ヒゲの大先生」も鼻高々であったろう。
「名人に勝つ」「名人になる」ならわかるけど、名人に駒を落としたうえで勝つとか、スケールでかすぎである。
ホンマにマンガのキャラみたいな人やなあ。いちいちセンス抜群だ。
その後、升田は大山からタイトルを次々と奪い、史上初の「三冠王」(当時の全冠制覇)になり全盛期を築く。
現在ではこの「指し込み」はあまりにも過酷すぎるということで、なし崩し的に実施されなくなったが、制度自体は今でも残っているという。
ならここは、いっそこれを復活させてみたらどうだろうか。
藤井八冠がデビューして以来、割とそれに合わせるようにルールを見直してきた連盟のことだから、話題作りの改定は「あり」なのではないか。
彼のことだから、もしかしたら升田幸三以上に話題性のあるだれかに、香を落とすことになるかもしれない。
いや、今は無敵を誇る藤井聡太だが、これがいつまで続くかはわからない。
もちろん最初のころは藤井王将が、挑戦者を容赦なく指し込んでいくだろう。
でも、しかしだ、未来なんてわからない。
もしかしたら今回は悲劇に見舞われた永瀬をはじめ、渡辺明、豊島将之といった、かつての升田のように、王者から足腰立たないくらいボコられた面々が3連勝することだって、あるかもしれない。
そうして
「藤井聡太八冠王が、香落ち下手で戦う」
なんてことになったら、こりゃドラマですがな!
もはや藤井八冠をリヴァイアサンか冥王サウロンのようにしか見えていない私は、なんかもう勝手に盛り上がっているわけで、主催者の方々、どうかご検討を。
とか言ってると、藤井聡太がそんなことになるなんて、さすがにありえへんよー、と笑われそうだけど、彼や羽生善治と並ぶ「史上最強」候補の大山相手に、そのバカげたはなれわざを実現させたのが、升田幸三なのだ。
そもそも今や「八冠王」なんて、ありえないことが起こったわけだ。
じゃあこれからも、どんなスゲーことが起こるかなんて、わかんないじゃんねえ。
(升田、またしても名人戦の挑戦者決定戦で大ポカ)
(升田による自陣飛車の絶妙手はこちら)
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