大名人の最後の勝負術にはシビれるものがある。
偉大なチャンピオンというのは、その全盛期に圧倒的な力を見せることもさることながら、それを失った晩年にも、執念と呼べるふんばりを発揮することがある。
「常勝将軍」木村義雄は、おとろえの出たキャリア最終盤に、この男だけは名人にさせまいと、「筋違い角」の奇襲でもって指し盛りの升田幸三を退けた。
その升田幸三は、敗れたとはいえ1971年度の第30期名人戦で、当時は「ハメ手」「邪道」と言われた「升田式石田流」を7局中5局で投入し、名人復位まであと1歩までせまった(その熱戦は→こちら)。
また大山康晴十五世名人は、「A級から落ちたら引退」を公言する中、陥落の危機を何度も超人的な勝負強さでしのぎ切り、69歳で死去するまで、その地位を守り通した(その伝説的戦いについては→こちら)。
そんな数ある伝説に加えて、私が印象が残っているのに、中原誠名人の戦いぶりというのがある。
それは、ある名人戦のことで、このとき中原は、充実の挑戦者から押しに押され、絶体絶命のピンチに立たされる。
そこからの戦いぶりが、まさに「名人の勝負術」というもので、追いかけていて興奮した。
特に大きな記録などが、かかっていたわけではないので、歴史的に見ればやや地味かもしれないが、あとあとからは
「昭和将棋の終焉」
という大きなターニングポイント前夜ともいえるので、前回は若き日の羽生善治や森内俊之が見せた必死の「飛不成」を紹介したが(→こちら)、今回は「神話」時代最後の名人戦を、ここで改めて語ってみたい。
1992年の第50期名人戦。
中原誠名人への挑戦に名乗りを上げたのは、高橋道雄九段だった。
戦前の予想はと言えば、これはもう満場一致で「中原が有利」。
このときの高橋と言えば31歳と、44歳の中原より若く、タイトル5期の実績もあり、一時期は谷川浩司などをおさえて、
「一番強いのは高橋道雄」
と恐れられたほどの男だ。
なのに下馬評不利とは不思議な気もするが、これには根拠があって、まず対戦成績が中原から見て、13勝4敗と大きく勝ち越していたこと。
なにより大きかったのは、昔の将棋界では、
「名人は将棋の神様に選ばれた者だけがなれる」
という「神話」が、厳然と存在していたからなのだ。
名人戦の歴史を振り返ってみると、これがおそろしいほどに偏ったものであることがわかる。
1935年にはじまった実力制名人戦は、その50回(以下すべて1992年当時の記録)の歴史の中で、
木村義雄
塚田正夫
大山康晴
升田幸三
中原誠
加藤一二三
谷川浩司
わずかこの7人しか、「名人」を生み出していない。
しかも、木村義雄が8期、大山康晴が18期、中原誠が14期と、その8割を3人で独占。
まだ若かった谷川(4期)はともかく、名人2期の升田幸三と1期の加藤一二三は、その実力からして少ない印象だし、のちの米長邦雄もわずか1期の在位だった。
つまり、昭和の将棋界では、不動の名人になるには
「だれもが認めたナンバーワン」
のみがなれるもので、2番手の棋士は、どれだけ才能に恵まれ、努力を重ねようが、
「そのがんばったごほうびとして、キャリア後半に1期か2期だけ、ならせてあげるネ」
というあつかい。その権威や政治的影響力も、今とはくらべものにならないほど絶大なものだった。
升田や加藤や米長が、いかに他のタイトル戦で大山や中原を負かそうが、石に刺さった剣は抜ける気配もなく、
「棋聖や王将はいいよ。十段とか王位もオッケー。でも、名人だけはダメなんよねえ」
という不条理きわまりない、まさに萩尾望都先生のおっしゃる『残酷な神が支配する』世界だったのだ。
それゆえ、二上達也、山田道美、有吉道夫、大内延介、森雞二、桐山清澄、森安秀光など、タイトル経験もある猛者が挑戦しても(内藤國雄に至っては挑戦者にすらなれなかった)、
「まあ、どうせ名人が勝つんでしょ」
まさに今の藤井聡太三冠のよう、世論がハナから決めてかかっていた空気の中では、戦う前から結果は見えている。
危なかったのは、大山ならフルセットになった有吉戦と、「升田式石田流」シリーズの升田戦。
中原なら、「痛恨の▲71角」で有名な大内戦に、あとは米長が互角に戦えたくらいで、実際に名人が多くは問題なく防衛した。
1975年、第34期名人戦。中原誠名人と大内延介八段の七番勝負。
3勝3敗(1千日手)でむかえた第7局。勝てば名人になれる大内は、中盤で大量リードを奪う。
中原の死に物狂いのねばりを、なんとか振り切ったに見えたところで▲71角と打ったのが、運命の1手となった。
ここは▲45歩と突き、△同銀に▲44歩とタタいて、△同銀とさせてから▲71角なら決まっていた。
大内も読み筋で、そうやるはずだったが、なにが起こったのか先に角を打ってしまう。
以下、持将棋に逃げられた大内は第8局も敗れ、「名人神授説」をさらに強固なものとする結果となる。
河口俊彦八段言うところの、
「名人位のゆくえは将棋ではなく【世論】が決める」
また、なんとか奪取した升田、加藤、米長のようなナンバー2の名人は、かならずと言っていいほど「悲願の」と語られ、まさに棋士人生で最後の到達点というあつかい。
名人獲得は偉業であるけど、
「まずは、キャリア初期の難関のひとつ」
そうとらえられる大山、中原、谷川、そして後の羽生善治とは、かなりニュアンスの違う伝えられ方をするのだ。
棋力だけで言えば、大名人と2番手棋士の間に、そこまで差が出るのも不思議な話だが、なぜ、そんなことになってるのか。
まあハッキリ言って、根拠なんかないんだけど、このころは
「そういう時代だった」
としか言いようがなく、高橋は苦手とする中原のみならず、この
「選ばれし者バイアス」
というものが生む、圧倒的なアウェー感とも戦わなければならなかったのだ。
(続く→こちら)