「名人は選ばれた者がなる」という神話 中原誠vs高橋道雄 1992年 第50期名人戦

2021年11月11日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 大名人の最後の勝負術にはシビれるものがある。

 偉大なチャンピオンというのは、その全盛期に圧倒的な力を見せることもさることながら、それを失った晩年にも、執念と呼べるふんばりを発揮することがある。

 「常勝将軍」木村義雄は、おとろえの出たキャリア最終盤に、この男だけは名人にさせまいと、「筋違い角」の奇襲でもって指し盛りの升田幸三を退けた。

 その升田幸三は、敗れたとはいえ1971年度の第30期名人戦で、当時は「ハメ手」「邪道」と言われた「升田式石田流」を7局中5局で投入し、名人復位まであと1歩までせまった(その熱戦は→こちら)。

 また大山康晴十五世名人は、「A級から落ちたら引退」を公言する中、陥落の危機を何度も超人的な勝負強さでしのぎ切り、69歳で死去するまで、その地位を守り通した(その伝説的戦いについては→こちら)。

 そんな数ある伝説に加えて、私が印象が残っているのに、中原誠名人の戦いぶりというのがある。

 それは、ある名人戦のことで、このとき中原は、充実の挑戦者から押しに押され、絶体絶命のピンチに立たされる。

 そこからの戦いぶりが、まさに「名人の勝負術」というもので、追いかけていて興奮した。

 特に大きな記録などが、かかっていたわけではないので、歴史的に見ればやや地味かもしれないが、あとあとからは

 

 「昭和将棋の終焉」

 

 という大きなターニングポイント前夜ともいえるので、前回は若き日の羽生善治森内俊之が見せた必死の「飛不成」を紹介したが(→こちら)、今回は「神話」時代最後の名人戦を、ここで改めて語ってみたい。

 

 1992年の第50期名人戦

 中原誠名人への挑戦に名乗りを上げたのは、高橋道雄九段だった。

 戦前の予想はと言えば、これはもう満場一致で「中原が有利」。

 このときの高橋と言えば31歳と、44歳の中原より若く、タイトル5期の実績もあり、一時期は谷川浩司などをおさえて、

 

 「一番強いのは高橋道雄」

 

 と恐れられたほどの男だ。

 なのに下馬評不利とは不思議な気もするが、これには根拠があって、まず対戦成績が中原から見て、13勝4敗と大きく勝ち越していたこと。

 なにより大きかったのは、昔の将棋界では、

 

 「名人は将棋の神様に選ばれた者だけがなれる」

 

 という「神話」が、厳然と存在していたからなのだ。

 名人戦の歴史を振り返ってみると、これがおそろしいほどに偏ったものであることがわかる。

 1935年にはじまった実力制名人戦は、その50回(以下すべて1992年当時の記録)の歴史の中で、

 

 木村義雄

 塚田正夫

 大山康晴

 升田幸三

 中原誠

 加藤一二三

 谷川浩司

 

 わずかこの7人しか、「名人」を生み出していない。

 しかも、木村義雄が8期、大山康晴が18期、中原誠が14期と、その8割を3人で独占

 まだ若かった谷川(4期)はともかく、名人2期の升田幸三と1期の加藤一二三は、その実力からして少ない印象だし、のちの米長邦雄もわずか1期の在位だった。

 つまり、昭和の将棋界では、不動の名人になるには

 

 「だれもが認めたナンバーワン」

 

 のみがなれるもので、2番手の棋士は、どれだけ才能に恵まれ、努力を重ねようが、

 

 「そのがんばったごほうびとして、キャリア後半に1期か2期だけ、ならせてあげるネ」

 

 というあつかい。その権威や政治的影響力も、今とはくらべものにならないほど絶大なものだった。

 升田や加藤や米長が、いかにのタイトル戦で大山や中原を負かそうが、石に刺さった剣は抜ける気配もなく、

 

 「棋聖王将はいいよ。十段とか王位もオッケー。でも、名人だけはダメなんよねえ」

 

 という不条理きわまりない、まさに萩尾望都先生のおっしゃる『残酷な神が支配する』世界だったのだ。

 それゆえ、二上達也山田道美有吉道夫大内延介森雞二桐山清澄森安秀光など、タイトル経験もある猛者が挑戦しても(内藤國雄に至っては挑戦者にすらなれなかった)、

 

 「まあ、どうせ名人が勝つんでしょ」

 

 まさに今の藤井聡太三冠のよう、世論がハナから決めてかかっていた空気の中では、戦う前から結果は見えている。

 危なかったのは、大山ならフルセットになった有吉戦と、「升田式石田流」シリーズの升田戦。

 中原なら、「痛恨の▲71角」で有名な大内戦に、あとは米長が互角に戦えたくらいで、実際に名人が多くは問題なく防衛した。

 

 

 1975年、第34期名人戦。中原誠名人と大内延介八段の七番勝負。

 3勝3敗(1千日手)でむかえた第7局。勝てば名人になれる大内は、中盤で大量リードを奪う。

 中原の死に物狂いのねばりを、なんとか振り切ったに見えたところで▲71角と打ったのが、運命の1手となった。

 ここは▲45歩と突き、△同銀に▲44歩とタタいて、△同銀とさせてから▲71角なら決まっていた。

 大内も読み筋で、そうやるはずだったが、なにが起こったのか先に角を打ってしまう。

 以下、持将棋に逃げられた大内は第8局も敗れ、「名人神授説」をさらに強固なものとする結果となる。

 

 

 河口俊彦八段言うところの、

 


 「名人位のゆくえは将棋ではなく【世論】が決める」


 

 また、なんとか奪取した升田、加藤、米長のようなナンバー2の名人は、かならずと言っていいほど「悲願の」と語られ、まさに棋士人生で最後の到達点というあつかい。

 名人獲得は偉業であるけど、

 「まずは、キャリア初期の難関のひとつ」

 そうとらえられる大山、中原、谷川、そして後の羽生善治とは、かなりニュアンスの違う伝えられ方をするのだ。

 棋力だけで言えば、大名人と2番手棋士の間に、そこまで差が出るのも不思議な話だが、なぜ、そんなことになってるのか。

 まあハッキリ言って、根拠なんかないんだけど、このころは

 「そういう時代だった」

 としか言いようがなく、高橋は苦手とする中原のみならず、この

 

 「選ばれし者バイアス

 

 というものが生む、圧倒的なアウェー感とも戦わなければならなかったのだ。

 

 (続く→こちら

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 善き人のためのソナタ グザ... | トップ | 「地道高道」の本領 中原誠v... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。